大河ファンタジー小説『月獅』56 第3幕:第14章「月の民」(5)
これまでの話は、こちらのマガジンにまとめています。
第3幕「迷宮」
第14章「月の民」(5)
以来、シキは午前中に図書寮におもむき、午後からは巽の塔を訪ねるようになった。多忙を極めるラザール様を煩わせることなく『月世史伝』を解読できることが、シキはうれしかった。
イヴァンもシキとの時間を心待ちにした。幻の書の『月世史伝』が存在したことも僥倖であったが、それを読める幸運に身がふるえた。それだけではない。シキは男児であるはずなのだが、ふとした瞬間にルチルを思い出すのだ。ルチルに古代レルム語を教えているような錯覚にとらわれ、目をこすることもしばしばだった。退屈だった捕らわれの日々が明るくなった心地がしていた。
イヴァンはパンをうすく切り、サケの燻製と乳蘇をはさんだサンドイッチをこしらえる。衛兵のひとりが「自分が作ります」といったが、「いや、これくらいは私にもできるよ」と笑って断る。さて、きょうはカリヨン茶を用意してシキを待とう。
イヴァンとシキは額をつき合わせるようにして、『月世史伝』の解読にいそしんだ。紙の劣化が激しく、いくつも虫穴があり、頁がちぎれている箇所もあったが、それでも秘されていた歴史がつまびらかになる昂奮は抑えがたいものがあった。
――はるか昔、ノリエンダ山脈の南には海岸線まで東西に広大な森が広がっていた。森は今のレルム・ハン国の全土におよぶほどであったという。月の民の祖であるルイとナイの二神は、月の舟に乗って月から森に降臨した。舟にはありとあらゆる種の毛ものや鳥が、一種につき一つがい乗っていた。ルイとナイはまず、森の主に、森で暮らす許しを請うた。
「森の主とは?」
シキが首をかしげる。
「ここに書いてあるね。《森そのものである森の主》と」
「森そのもの? 精霊のような存在でしょうか?」
「さあ、どうだろう。白の森の王が、白銀の大鹿というのは知っているね。森は、白の森の王の意思に呼応すると云われている。だが、私は遥拝殿で祈祷を捧げても、王の御姿を見たことはないから、大鹿が実在するのか、精霊のような存在なのかわからない」
「史伝に書かれている森とは、白の森のことでしょうか」
「いにしえの森と白の森の関係がわからないから、なんとも言えない。あせらずに読み進めてみよう」
――ルイとナイの二神は、森の守りとして、北東の開けた場所に月の塔を建てることにした。塔を建てるには人手がいるので、二神は次つぎに子を生し「月の民」とした。月の民はルイとナイの教えにしたがい、石を高く積んで月の塔を建てた。塔の天頂には半球の天蓋をこしらえ、月の通り道を刻んだ。そこに射しこむ月の光の傾きで月夜見を行った。
「この図は月の塔の設計図でしょうか」
シキは最初に見つけた絵図をイヴァンに見せる。
「そうとも考えられる」
「月夜見寮に似ていませんか」
「側塔はないが月夜見寮の中塔と似ているね」
「これ」と、シキは模写した別の図を広げる。
「地図ではないでしょうか」
図の上部には三角の山のような形が連なっている。下部には魚が描かれ、その上に海岸線のような曲線が引かれていた。山脈と海にはさまれた陸地には、大きくボルヘと記されている。ボルヘとは古代レルム語で「森」を意味する。
「そのようだね」
「おおまかな略図のようですが、これが月の塔だとすると」
山脈の真下の右よりに三日月が描かれている。シキはそれを指さした。
「月夜見寮のある場所もこのあたりでは?」
ふむ、とイヴァンが眼鏡をずらして顔を近づける。
「月夜見寮は、月の塔をもとにしているのかもしれないね」
なかなか興味深い、とイヴァンもうなる。
「私たちレルム人は、月の民の末裔なのでしょうか」
「そうではないみたいだ、ほら、ここ」
――東からレルムの民がやってきた。遊牧の民であった彼らは、星を道しるべとし星夜見をならいとしていた。レルム人は、牛馬や羊などとともに小麦をもたらした。
「レルム人が月の民を滅ぼしたのですか」
「いや、話はそう単純ではなかったようだ。流浪の民であったレルム族は、定住する土地を探していた。そうして月の民が暮らす森にたどりついた。まず彼らは東の端の森の木をほんの少し伐採し小麦を植え、牛馬を飼育した。土地を所有する概念をもたなかった月の民は、旅人に宿を貸すように気前よく森の伐採を許した。レルム人の営みをみて、それまで狩猟と採集で暮らしてきた月の民は、農耕と牧畜が安定した食料をもたらすことを知る。その日暮らしではない、暮らし。さぞかし魅力的にみえただろうね。レルム人はもとより月の民も森を伐採しはじめ、森は急速に失われた。森を守ろうとする者と、農地を広げようとする者のあいだで諍いが起こった。それがやがて戦となる」
イヴァンはカリヨン茶をひと口すすり、シキに確かめる。
「この先は、頁がちぎれていたのだったね」
どのように頁が破損していたかまで丁寧に再現しているシキの生真面目さに、イヴァンは驚きを隠さない。それはまさに『月世史伝』の複製といってよいできだった。
「続きはここからだ」
読みはじめようとしたイヴァンは、ぐっと唇を引き結んで頁を凝視する。紙を押さえた手が小刻みに震えていた。どうしたのかと、続きに目を走らせシキも驚愕する。
《天卵の子はよく戦った。かたわらには常に一頭のグリフィンがいた》とあったのだ。
顔をあげると、イヴァンと目が合った。シキは戸口に立つ衛兵をそっとうかがう。
衛兵は直立の姿勢を保ってはいたが、大きなあくびをもらしていた。ここ最近の衛兵どもの関心は、ダレン伯が指揮する天卵の捜索艦隊にあった。警備の交代のときによく、「ああ、あ、おれも部隊に加わりたかったよ」と嘆きあっていた。咎人でもないイヴァンの見張りに覇気を求めるほうが難しい。彼らの関心がイヴァンとシキにないことは、ふたりにとって幸いだった。
「日も陰ってきましたので、今日、解読いただいた箇所を筆記いたします」
シキがことさら大きな声でいう。
「私も手伝うよ」
ふたりは卓の上で目配せすると、今日の解読分をまとめているふうをよそおいながら、無言で先を読み進めた。シキはわからない箇所を筆談でイヴァンに尋ねた。小窓から忍び入る西日が床に朱色の裾をのばしていた。
――戦いは百日で終結した。天卵の子はレルムの族長と互いに不可侵の約定を交わし、古き民と毛ものたちを従えて西に旅立った。月の塔からグリフィンが飛び立った。彼らが西の果ての森にたどりつくと、海に突き出した半島の先にあった山が嘆きの火の粉をまき散らし、山ごと海に没した。赫い月がのぼり、月の民は失われた民となり、森は閉ざされた。
『月世史伝』は、ここで終わっていた。
(to be continued)
第57話に続く。