【ミステリー小説】腐心(5)
【東野警察署2階・相談室】
香山のスマホが鳴った。
画面を確かめる。鑑識の浅田からだ。スマホを耳にあてながら、すいませんねえ、と断りを入れて廊下に出る。
「検視の結果か?」
――お待たせしました。遺体が腐敗しておらず、解剖もしていないので死亡日時については不確かですが、おそらく死後四日ないし五日。逆算すると7月29日か30日でしょう。直接の死因は吐瀉物による窒息死。熱射病で意識障害を起こし、仰臥したまま胃の内容物を吐瀉したという見立てです」
「窒息死、か。ヒ素の件はどうなった?」
――ガスクロで分析中です。一両日中には結果が出ます。
「死後四日ないし五日か……」
――どうしました?
「死後三日、ということはないか?」
――どういうことです?
「行方不明者届の受理が7月31日なんだよ」
――故意に遅らせた?
「ヒ素の件もあるしな。事件性が濃厚になってきやがった。分析は、ナル早で頼むわ」
――了解しました。
浅田との通話を切ると、香山は樋口の携帯を鳴らし、はす向かいの刑事課をのぞく。強行犯係のシマにいる小田嶋裕子巡査と目が合った。小田嶋は、階級は香山より下だが、年齢は三つ上の三十三歳だ。交通課勤務が長く、念願かなって刑事課配属になってまだ三年。警察はいまだに男社会なのだ。
片手で拝むしぐさをし、こっちに来てくれと手招きした。
私ですか? と小田嶋が人差し指を鼻に向ける。
香山が小田嶋とその隣の田畑を指さすと、小田嶋は田畑をうながして立ち上がった。そのタイミングで樋口が相談室からスマホを耳にあて出てきた。「扉を閉めろ」とだけ、通話で指示する。樋口が後ろ手で閉めたことを確かめると、香山は三人を廊下の端にいざなった。
「主任、どうしました?」
声をひそめて尋ねる樋口を軽く睨みつける。香山は役職名で呼ばれることを嫌う。俺は主任って名前じゃねえって言ってるだろ。樋口が香山の下についた当初繰り返したが、体育会系の上下関係が骨の髄まで沁みついている樋口は、うっかりすると口を滑らせ慌てて「カヤさん」と言い直す。
「浅田から報告があった。死因は窒息死。遺体が腐敗していないため死亡推定に幅がある。およそ死後四日ないし五日、つまり7月29日か30日には亡くなってる。だが、捜索願いの届け出は31日。届けによると、失踪に気づいたのが29日の午後7時。気づいてから届けまで丸一日以上のラグがある。事件性が高くなったんで調書をとる。俺は奥さんを、樋口はダンナをまかせる。ラグビーの話でもんでくれていい。小田嶋さんと田畑は記録を頼む」
「ご遺体が腐ってなかったのは、やはりヒ素ですか」
気になっていたのだろう、樋口が問う。
「ヒ素の分析結果はまだだ。検視では、窒息は熱射病による嘔吐が原因となってる。が、ヒ素中毒でも嘔吐するしな」
「ちょっと待って。腐ってなかった? 死体が?」
小田嶋が二人をさえぎる。
「ああ、きれいなもんだ」
小田嶋は田畑と顔を見合わせ、信じられないと首を振る。
「ま、後で安置室を見に行ってみるといいさ。俺は取調室を使うから、樋口は相談室を使え」
このヤマ、あっさり片付くと思ったがそうでもねえかもな、と煤けた廊下の天井を睨みながら香山は相談室に戻った。
「お待たせしました」
唐突に扉を開けると、ぷつっと会話が不自然にとぎれた。
木本和也が半開きで言葉を呑み込み、香山に顔を向ける。佳代子はちらりと視線をあげただけだ。互いに目を合わせようともしない。二人の間の空気が、微妙に澱んでいる。少なくとも父親の突然の不幸を嘆いていた、というふうではなさそうだ。
「お一人ずつ調書を取らせていただきたいんで、奥さんは私についてきてください。ご主人はこの部屋で」
「調書って……。親父は殺されたということですか。私たちが疑われてるんですか」
佳代子よりも奥に座っている和也が、前のめりで半腰をあげる。「調書」と告げるたびに繰り返されるこの手の質問には毎度うんざりするが、香山は笑みを浮かべ宥めるようにいう。
「ご自宅以外で亡くなられてるんで、行方不明になった経緯をお聞きしたいだけですよ。まだ事故か事件かも不明で……」
説明が終わらぬうちに、がたっと音を立てて佳代子がパイプ椅子から立ち上がった。
「どちらに行けばいいのかしら」と香山に歩み寄る。
ではこちらに、と四人が道をあけると、佳代子は忘れ物でもしたように夫を振り返る。
「お父さんがいなくなった経緯なんて、あなた、知らないでしょう。徘徊してもろくに探しもしないものね。先に帰ってくださって、けっこうよ」
佳代子が冷めた口調に棘をひそませる。
「なら、キーをよこせ」
「あら、あれは私名義の車です。あなたのプリウスはガレージじゃありませんか。ここからだとバスで帰れるでしょ、子どもじゃないんだから。バス停は警察署の前よ、ね、刑事さん」
佳代子は美人ではない。これといった特徴のない平坦な顔立ちだ。髪の生え際は白いものが目立つ。スーパーで見かける五十代のくたびれた主婦の一人だが、夫に向けた挑戦的な視線は驚くほど艶然としていた。
「好きにしろ!」
和也がぎりっと唇をゆがませ、パイプ椅子を軋ませた。
(to be continued)
第6話に続く。
こちらのマガジンからも各話をお読みいただけます。