大河ファンタジー小説『月獅』12 第1幕:第4章「蝕」(3)
第1章「白の森」<全文>は、こちらから、どうぞ。
第2章「天卵」<全文>は、こちらから、どうぞ。
第3章「森の民」<全文>は、こちらから、どうぞ。
前話(『月獅』11)は、こちらから、どうぞ。
第1幕「ルチル」
第4章「蝕」(3)
* * * * *
二刻ほど走ったろうか。かすかに潮の香のようなものが、鼻先をかすめた。
「停まって!」
ルチルが叫ぶ。
「どうした。あと半哩ほどで岬だぞ」
シンが漆黒のたてがみをあわてて引く。
「だからよ」
言いながらルチルは馬から降りる。
「潮の香りがする。海は近いのでしょ」
「これ以上、シンにも、タテガミにも」と言いながら、ルチルはタテガミの顎をなでる。
「白の森にも迷惑をかけるわけにはいかない。ラピスにはお父様が必要よ」
シンもタテガミから降りる。
「王宮が追っているのは、私と天卵。身の安全を考えたら、見つからないのがいちばんだけど。でも、それじゃだめ」
「きっと彼らは私たちを見つけるまで森を荒らすわ。白の王様の力は、これからどんどん弱っていくのでしょう?」
「私たちが森から出たと、もう森にはいないのだと印象づけなければ。そうすれば、追手は少なくとも白の森からは撤退する。私には政はわからない。けど、王宮だって愚かではないはずよ。彼らにとっての脅威は天卵の子であって、森ではない。白の森は千年この国を支えて来たのだもの」
シンは黙している。
「ルビ川沿いは樹々が枯れて、空から丸見えなのでしょう? レイブン・カラスの偵察隊は戻って来ているはず。彼らに私が海に出たことを目撃させる。干あがったルビ川を行けば、海まで最短でたどり着けるし、カラスの目にもとまりやすい」
「この二刻ほどの間にずいぶんと成長したじゃねぇか」
シンが腕組みをしながら、ふんと鼻をならす。
ふふ、とルチルは笑みを噛みころす。
運命の急転は、人をいやでも大人にする。わずか一日足らずで、少女は大人になった。陽だまりのように幸せだった子どもの時間と思い出に、ルチルは訣別しようとしている。鳶色の瞳に覚悟がやどる。
「シン、ありがとう。あなたのこと、森の民のこと、もっと知りたかった」
「もう俺とラピスだけになっちまったからな。絶滅危惧種なんだよ、俺たちは。外のやつらとおんなし人間なのによ」
シンが吐き捨てるように言う。
「どうして森の民は秘密にされてきたのか。どうしてシンとラピスだけになってしまったのか。尋ねたいことは山ほどある。でも、もう行くわ。シンはラピスのもとに戻って」
ルチルが両手でシンの手をつつむ。
「ルチル。幼い君が森の褥で介抱されたとき、俺もあそこにいたんだぜ。毛皮を被って毛ものたちに紛れていたけどな。はじめて森の民以外の人間を見た。驚いたよ。話には聞いてたが、角も生えてなければ、牙もない、俺たちと何もかもが同じ女の子がいたんだからな。けど、この子は森にいることはできないし、俺が森の外に出ることもできない。何なんだろうと思った」
シンが玉座のある萌の褥の方角を仰いでから、ルチルに視線をもどす。森の緑がその瞳に映る。
「伝えられていることが真実とは限らん。真実は巧妙に隠されることのほうが多い」
「だから。自分のここでな」と頭を指す。「考えることさ」
「真実は知ろうとする者の前にだけ、姿を現わすんだ。よおく覚えときな。俺も、君も。やっかいな運命のもとに生まれたようだ」
シンの翡翠の双眸が痛いほどまっすぐにルチルをとらえる。
「ここを突っ切ればルビ川に出る。森のこと、俺たちのことを考えてくれて感謝する」
「生きろよ。俺もラピスと生きる。天の思惑なんてそくらえだ。いつかまた会おう」
シンはルチルの両肩をぐっとつかんだ手を放すと、タテガミにまたがった。
タテガミはシンを乗せたままルチルの周りをゆっくりと一周する。長く豊かな墨色のたてがみが風になびいて美しい。
やおら前脚を高く掲げると駆けだし、まばたきほどのうちに漆黒の肢体が銀の森の奥へと消えた。あとには一陣の風が渦巻いていた。
ルチルも反対方向へとはじけるように駆けだした。
はぁ、はぁ、はぁ。
ルビ川をめざしてルチルは木の根道を走る。時おり立ち止まって呼吸を整え、天を仰ぎ見る。だが、光に透ける葉裏は厚く重なり、まだ、空は見えない。急がなければ。王宮の追手が森を踏み荒らしてしまう前に、私はここに居ると彼らに目撃させなければ。
そのときだ。右足を盛りあがった木の根に引っかけ転びそうになり、卵をかばって地面に膝をついた。なめし革の靴が、ぱかりと裂けている。しかたない。両足とも脱ぎ捨て顔をあげると、視線の先が明るいことに気づいた。樹々がところどころ立ち枯れしている。見つけた、ルビ川だ。
ルチルは川原を駆けおり、明るい空の下に走り出た。
抜けた空を見あげる。
レイブン隊はどこ?
鷹が天の高い位置で大きな翼を広げ旋回している。警戒態勢をしいているのだろう。あの鋭い目をカラスは避けることができるのだろうか。
だが、ここから先はそんなことを考えている余裕はない。空から丸見えの川床を追手に姿をさらしながら、追いつかれずに海までたどり着かなければならないのだから。
ルチルはできるだけ目立つように、干あがったルビ川の真ん中を駆け抜ける。
森は突然、途切れた。
急に視界が全方角的に開け、明るくなった。樹々はまばらで、膝丈ぐらいの草の原が海風になびき、緑の波が打ち寄せる。海鳴りが聞こえる。
ルチルは膝に両手をあてて大きくひと息をつき、潮風を胸いっぱいに吸いこむ。
この先にあるのは、カーボ岬だけだ。
崖脇の細い獣道を伝っておりれば洞窟があり、そこに小舟が舫いであるはずだ、とシンは教えてくれた。「木の葉みたいに小せぇ舟だけどな。それに乗って行け」と。
でも、それじゃだめだ。
ルチルは天を振り仰ぎ、黒い影を探す。
いた!
松の木の梢から黒い羽が飛びたった。連絡係が報告にいったのだろう。同じ枝にもう一羽いる。
波が高い飛沫をあげて崖に幾重にもぶつかり砕ける。足がすくんで震える。
ひとつ大きく深呼吸すると、ルチルは覚悟を決めた。
「よく、見ておきなさい。そして、ちゃんと王宮に報告するのよ。エステ村領主の娘は天卵を抱いて海に沈んだと!」
最後は絶叫だった。
空に向かって叫ぶと、ルチルは助走をつけ、切り立つ断崖から荒海へと放物線を描いて身を投げた。
そのとき、何かが天空でチカッと光った。
それは光の矢となってルチルの後を追い、海にダイブした。
第1幕「ルチル」<完>
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