『オールド・クロック・カフェ』5杯め「糺の天秤」(5)
第1話は、こちらから、どうぞ。
前話(4)は、こちらから、どうぞ。
澄は長らく宇治で暮らしていたが、三年前に夫の誠二郎が亡くなったのを機に北野白梅町にある次女の家で暮らすようになったそうだ。軽自動車を運転しながら直美が語ってくれた。澄は疲れたのだろう。車に乗るとすぐに寝息をたてはじめた。それをミラーで確かめ直美が続ける。
「娘時代を過ごした市内で暮らすようになったせいもあると思うんですけど。おばあちゃん、ふっと昔に戻ることがあるみたいで。それで出かけて迷子になるんです」
きょうも、どこに行こうと思ってたんやろ、と首をかしげたのがミラーに映った。
「助けてもろたんが、糺さんにそっくりの時任さんでよかった」
「あの茶箱をどうしたらいいか、悩んでたんです」
赤信号で停車すると後部座席を振り返ってにこりと微笑む。
信号が青に変わったちょうどそのとき、正孝のスマホが鳴った。八木さんからだ。
「係長、どこにいてはるんですか。課長がお怒りですよ」
しまった、役所に連絡するのを失念していた。ありえない失態だ。
「ご、ごめん、八木さん。もと宇治市民の一大事なんや。きょうは役所に戻りませんと課長に言うというてもらえんやろか」
直美に聞こえないよう口もとを手で覆う。
「了解です。課長には適当にごまかしときます。係長の初さぼりですか。いい傾向ですねえ。なんか楽しなってきました」
八木さんが妙にうれしそうなのが気になったが、正孝は無視して通話を打ち切った。彼女がなにを喜んでいるのかが、さっぱりわからない。
とんとんとんとん。
こきみよい足音をたて直美が二階から降りてくる。手には想像していたよりもずっと小ぶりの茶箱をだいじそうに抱えていた。
杉板は煤けて黒ずんでいる。
――半世紀を超える時空のかなたから現れた茶箱。
柄にもなくロマンチックな言葉が脳裡に浮かんで、正孝は苦笑する。
だが、そんな壮大な比喩が詩的陶酔ではなく、この茶箱にふさわしく思えてならない。まさにほんものの忘れ物。時間軸のはざまで忘れられてきたのだから。
澄がゆっくりと上蓋をとる。内貼りの銀色のトタンが、傾きかけた午後の陽に反射して光る。その光が澄の表情を明るくし、一瞬、皺によれた澄の貌に直美の笑顔がオーバーラップして正孝はどきりとする。澄が一瞬で若返ったような錯覚にとらわれ正孝は目をしばたく。
「糺さん、どうぞ」
蓋をとった茶箱を正孝の前へ押す。澄はまた正孝と糺を混同している。だがそんなことは、もうどうでもいいと正孝は思った。
箱のすきまに収められていた写真を取り出した。気になっていた一枚だ。
詰襟の学ランに学生帽を目深にかぶり口を真一文字に結んだ青年が、時間の皮膜の向こうからこちらを見つめている。厚いセルロイドの黒縁眼鏡が青年の顔を印象づけていた。当時の写真を繰ればきっと似たような写真は枚挙にいとまがないだろう。眼鏡以外これといった特徴のない自分とそっくりなのだと感じた。とはいっても糺さんは弁護士をめざすくらいの秀才だから、なんのとりえもない自分とは大違いなのだが。
「ほんまによう似てはる」
セピアに褪色した糺と目の前の正孝を交互に見比べ、澄はそっと写真を胸に抱いた。
正孝は鬱金布にくるまれた天秤を慎重に持ちあげ、テーブルに置く。澄は両手を合わせ固唾をのんで見守っている。
正孝が澄に布を取るようにうながしたが、澄は首をふる。直美も正孝に、お願いしますという。
「では、僭越ながらぼくが失礼します」
丁寧に断りをいれてから、正孝は布をはずした。
これが、糺さんの天秤か。
半世紀も眠っていたにもかかわらず、真鍮の支柱も、支柱から伸びる腕も、深い飴色の光沢をたたえて鎮まっている。腕の左右に同じ真鍮の皿が細い鎖でぶら下がっている。これといった飾りはなく、シンプルであることが『公正と平等』の精神を象徴しているように思えた。
「ああ、これや」
澄の喉の奥からもれたつぶやきが空気を揺らす。それきり澄は口をつぐんだ。胸のうちで時間が巻き戻っているのだろうか。直美も澄の両肩を支えて沈黙している。
静寂があたりをつつむ。レースのカーテン越しに長く伸びた西陽が、真鍮の天秤を照らす。かすかに揺れていた天秤の両皿がゆっくりと空気を乗せて止まった。
正孝は箱の底に残っていたうっすらと茶に変色した封筒を取り出し、澄に手渡す。
「糺さんは復員しはったけど、もう封を開けて手紙を読んでもええと、ぼくは思います。当時の糺さんの心が、ここにしたためられてる思うんです」
「うちもそう思う」
直美も澄をうながす。
「老眼が進んでこまい字がよう見えんのどす。糺さん、読んでくれはりませんか」
澄がすがるようなまなざしを正孝に向ける。直美がペーパーナイフを正孝に渡す。
手紙の封を開けるのは役所仕事で慣れているとはいえ、長い歳月と想いを封じた手紙を開けるのだ。ナイフを握る手がふるえた。
白い料紙に万年筆で一画一画正確に記された文字が、まるで教科書のようにきちんと並んでいた。ところどころ歳月に滲んでいる。澄に一度見せてから、よく聞こえるように、ひと言ひと言、正孝はゆっくりと読みあげた。
読み終えた正孝は、細く長く息をはく。張りつめていた肩からようやく力が抜けた。
「うちの片思いではなかった」
澄の目尻に涙の珠がひと粒たゆたう。その粒が揺れながら限界まで大きくなると澄の頬にこぼれた――。
半世紀、静かに沈黙していた時が流れたのだ。そう思った瞬間、正孝の心と口がしぜんと動いた。
「澄さん、次の土曜日にこの天秤をもって糺の森に行きませんか。ぼくを糺さんと思ってくれたらええ。もう一度、糺の森でデートをしましょう。それから、これを糺さんに返しましょう」
澄は、ええ、ええと幾度も繰り返してうなずき、「糺さん、おおきに」と少女のように微笑んだ。
それが困難を極めるとは、そのとき正孝は露ほども思わなかった。
(to be continued)
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