大河ファンタジー小説『月獅』58 第3幕:第15章「流転」(1)
これまでの話は、こちらのマガジンにまとめています。
第3幕「迷宮」
第15章「流転」(1)
――さて、いかがしたものか。
ラザールは跪拝しながら、先刻より事態を思案していた。
真珠宮の正殿では四半刻ほどにらみ合いが続いている。
事の発端は、こうだ。
王妃の望みでラザールはキリト王子の師傅を引き受けることになり、王子とのはじめての謁見に真珠宮まで足を運んだ。後宮に続く回廊を春風が駆け抜け、アーモンドの白い花が散っていた。
キリト王子の師傅となることは、もっか王宮を二分している権力闘争のキリト派に入ることを意味する。かねてよりゴーダ・ハン国とセラーノ・ソル国の脅威に挟まれ、不穏な星夜見があった今、国として一丸とならねばならぬというのに、政治の中枢にいる廷臣たちが派閥争いしか頭にないことにラザールは嘆息する。名門とされる貴族ほど自陣営の勢力拡大の画策ばかりで、国の行く末など二の次だ。アラン王太子とラムザ王子の相次ぐ薨去は不測の事態ではあったが、なにゆえ王妃は実子のキリト王子の立太子をためらい、無駄に王太子の空位を長引かせているのか。混乱を助長しているようにしかみえない。土蜘蛛のごとく巣から出ずに、背後で糸を引くものがいる。王妃も踊らされているのだろう。一介の星夜見でしかない我にできることなどしれている。
ラザールはしばし立ち止まり、春霞のたなびくノリエンダ山脈を見あげる。さて、キリト王子の資質はいかがなものだろうか。
後宮でも正殿までは男臣も入廷できる。真珠宮は王妃の宮といっても、その正殿は小ぶりな広間くらいだ。ただし、真珠宮の名にふさわしく壁にも床にも白く輝く雪花石膏が敷き詰められている。正面奥に縦長の窓が三つある。窓から縦に射しこむ陽が白くなめらかな雪花石膏の肌理に反射してまぶしい。窓の前に純白の絹の座面をもつマホガニーの玉座があった。
ほどなくラサ王妃が侍女を従えて現れた。ラザールは跪拝する。王妃が扇をはためかせて艶然と座すと、ぱたぱたと駆ける足音がした。
「母上、何用でしょうか」
声変わり前の高い声が聞こえ、左奥の扉が開いた。
「ラザール殿、面をあげられよ」
王妃はちらとキリトに投げた視線を戻し、ラザールに声をかける。
「そちがラザールか」
つかつかとキリトが歩み寄り、ラザールの前で膝をつく。
「王子、もったいのうございます。どうかお立ちください」
「かまわぬ。それより、シキはどこじゃ?」
キリトはラザールの背後にせわしなく視線を動かす。
「シキは伴っておりません」
「病か? このところ藍宮にも来ぬ」
「ご案じいただき畏れ多いことにございます。シキは息災にございます」
ぱしっと、扇を閉じる鋭い音が部屋に響いた。
「シキとは誰じゃ」
王妃が詰問する。
「ラザール星司長の養い子です。藍宮で兄上とともに、シキに星の話を聞かせてもらっています。母上にもお話しましたよ」
「いちいち下々の者の名なぞ、覚えておらぬ」
「なぜですか?」
キリトが立ち上がって王妃を振り返る。
「名とはその者のこと、覚えるのが礼儀だとソン爺が申しておりました」
おや、とラザールは王子を見あげる。行いはまだ子どもであるが、王妃をたじろがせる理を持っている。ふむ、これはみどころがあるやもしれぬ。
もちろんラザールは、シキがカイル殿下と知り合ったことも、藍宮でキリト王子と出くわしたことも、王子に請われて星の話をしていることも、逐一報告を受けている。偶然にもシキが先に二人の王子と知り合ったことは僥倖であった。シキの曇りなき目を通して、王子たちの人柄と様子を知り得ている。
様々な理不尽も静かに諦める忍耐があり、思慮深いカイル殿下。かたや、自由奔放で才気煥発なキリト王子。陰と陽。真逆のご気質であるが、お二方とも王たる資質の片鱗が垣間見える。うまく導けばいずれも賢王となられるであろう。だが、導くべき周囲の大人たちが、くだらぬ権力闘争を仕掛け、二つの希望の芽を摘み取ろうとしている。ご兄弟に争う意思などないものを。なんと愚かなことか。純粋な魂を汚泥にまみれさせねばならないのか。はつらつと瞳を輝かせている王子を見あげる。
「シキのことでまいったのではないのか?」
キリトがまたラザールに視線を落とす。王妃とラザールのあいだに横向きに構え、キリトは半身を交互に話し手に向ける。
「ラザール殿はそなたの師傅を引き受けるためにまいったのじゃ。賢者として名高いラザール殿について、しっかりと学ばれよ」
王妃が告げると、キリトはいっそう瞳を輝かせる。
「兄上も、カイル兄上もごいっしょですか?」
「なにを馬鹿なことを申す。そなただけに決まっておる。よき王になるには、広く世の中のことを学びやれ」
「それは不公平にございます」
キリトが頬をふくらませる。
「不公平とな?」
「なぜ吾だけが学ばねばならぬのですか」
「王になるために、決まっておろう」
「長幼の順では、次はカイル兄上です」
「カイル殿はサユラ妃の御子である、痴れたことを」
呆れ顔で扇を閉じ、王妃は椅子の背にしなだれる。
「母上の、王妃の子でなければ、王位は継げぬのですか。ならば、なぜサユラ妃やアカナ妃がいらっしゃるのですか」
ゆるりと体を起して王妃はキリトを睨む。
「吾ひとり勉強するなど、嫌でございます。王太子の位をめぐって吾と兄上を競わせるおつもりであれば、公平でなければなりません。どちらが優れているかは同じ師についてこそ明らかになります」
王妃は口を噤んだままだ。理路整然と不平を述べているのが吾子でなければ、「無礼な」のひと言であしらい、即刻、退室を命じていたであろう。幼き反逆者の胆力を頼もしいと、ラザールは目を細める。母后に唯々諾々と従い傀儡でいることに甘んじた父ウル王とはご気質が異なる。
「兄上といっしょでなければ、師傅など要りません」
「我儘もたいがいにしやれ。母の命が聞けぬのであれば、藍宮に通うこともまかりならん」
とうとう王妃が堪忍袋の緒を切らす。
「母上、それは卑怯というものです」
「卑怯と申すか」
がたり、と王妃が椅子の両袖に手をついて立ち上がる。声も手もわなないていた。
しかるにキリトは、母の挙措を意に介することなく涼しい声で続ける。
「武術の鍛錬と勉学を怠らなければ、月に二度、護衛を伴って藍宮に通うことを許すと母上はおっしゃいました。吾はその言いつけを違えておりません。藍宮に通うことと、ラザール殿を師傅とすることは別問題にございます。約束は約束です。お守りください」
「いいかげんにせぬか」
王妃の悲鳴が正殿の空気を震撼させる。
(to be continued)
第59話に続く。
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第15章「流転」をスタートさせます。
第3幕『迷宮』は、この第15章が最終章となります。
レルム・ハン国の王宮を舞台とする話は、これで一区切りです。
お楽しみいただければ、幸いです。