小説『オールド・クロック・カフェ』 3杯め「カマキリの夢」 (6)
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<あらすじ>
『不器用たちのやさしい風』で明るい脇役として登場した松尾晴樹。茨城県から夜通しバイクで駆けてきた晴樹は、『オールド・クロック・カフェ』にたどりつく。長刀鉾の形の柱時計に選ばれ、時のコーヒーを飲む。「時のコーヒー」が見せてくれたのは、恋人の由真との別れのシーンだった。由真は、「祇園祭のカマキリ」という謎の言葉を残して去って行く。泰郎に背中を押されて向かった蟷螂山町で、偶然、由真との再会を果たした晴樹は、由真に「ひろ」という子どもがいることを知り落胆する。
<登場人物>
茨城のライダー:松尾晴樹
晴樹の元恋人:由真
由真の子:ひろ
由真の父:孝蔵
由真の母:文子
カフェの常連:泰郎
カフェの店主:桂子
晴樹の元同僚:森本達也
* * top secret * *
「あとで、も一回、バイクに乗せてね」
ひろが、晴樹の耳もとに口をつけて囁く。
秘密を打ち明けるように告げると、晴樹の腕からすり抜け,駆けていく。いちご飴の甘い香りが耳もとに残った。
「それで、結婚はしたの?」
「いや。今、絶賛、婚活中だよ」
晴樹はラムネを飲みながら、答える。干あがりそうだった喉の奥で炭酸が跳ねる。これで、ケリをつけられたかな。
「ふーん」
由真は飲み終わったラムネの瓶を振る。ビー玉が鳴る。
「今夜はどこに泊まるの? 日帰りじゃないよね」
「ああ、さすがにもう40だから。茨城までの日帰り往復はキツイな。ビジネスホテルを探すよ。最悪、ネットカフェでもいいし」
「じゃ、ウチに泊まれば?」
カラカラカラ。
ビー玉を鳴らしながら由真が、さらっと言う。
「いや、それは、マズいだろ」
晴樹はラムネを吹き出しそうになって、あわてて口を腕でぬぐう。
「どうして?」
「どうしてって。俺は元カレだぞ。お前のダンナにどんな顔して会えばいいんだよ」
なんの罰ゲームだよ。そりゃ、そもそも、俺が悪かったんだけど。いやいや、それとこれとは関係ないか?
晴樹はひとり芝居さながら、ブツブツ、つぶやく。
「ママ―、おっちゃーん。早くぅ」
ひろが新町通りの角で手を振っている。
「あの子の名前ね、ひろきって、いうの」
由真が、我が子に手を振り返しながら言う。
「大きな樹って書いて、ひろき。4歳よ」
由真はときどき、話が飛ぶ。昔から変わらない。そして、そんなときは、たいてい突拍子もないことを言いだす前触れだったりする。
「へぇ。そうなんだ」
晴樹は気のない返事をする。
人懐っこい、ひろはかわいい。でも、見知らぬ男との間にできた子どもの名前なんて、晴樹にとってどうでもいいことだ。それよりも、今夜泊まるところをさっさと確保しよう。由真のダンナとの鉢合わせだけは、何としても避けなければ。スマホを開ける。
「あのね」
宿泊サイトの検索に忙しい晴樹をちらりと見てから、由真は前を向く。
「ひろきの『樹』は、晴樹の『樹』から付けたの」
ふーん、へぇ、そうなんだ。と、言いかけて、画面をスクロールさせていた指が止まった。
「えっ、今、なんて言った?」
「大樹の樹は、晴樹の樹からとったの」
「なんで、俺の名前から‥」
晴樹はスマホを落としそうになる。
「ハ行つながりでも、あるんだよね。ひろきの『ひ』は、『は』の次でしょ」
由真は、晴樹の疑問と動揺をスルーして続ける。
「ね、いい名前でしょ」
由真の切れ長の目が、晴樹の目を射程にとらえる。
いや、まさか、そんな。
晴樹は脳裡に浮かびかけた考えを、全力で打ち消す。消しても、消しても、またすぐに都合のいい淡い夢が、しゃぼん玉のようにふくらんではじける。屋台の呼び込み、見物客のざわめき。通りに充満していた雑多なノイズが、勝手にミュートして聞こえない。新幹線がトンネルに入ったときのように、鼓膜の奥がきーんと緊張する。あるはずの風景がゆらぎ、白く無機質な空間に由真と対峙していた。しゃぼん玉が浮かんでは、はじけて消える。思考も動作もフリーズしたまま、動悸だけが高まる。
どのくらい続いたのだろう。おそらく、ほんの1秒か2秒だった。
突然、何かがどしんと晴樹の右脚に突進してきて、結界がはじけ飛んだ。風景が動き出し、音が耳にもどった。
「おっちゃん!」
ぶつかってきたのは、大樹だった。両腕で晴樹の脚をつかまえている。
「あっちに、すっごい鉾があんねん」
晴樹の手を引っ張る。
「ママも、ほら」
右手に由真、左手に晴樹を引き連れ、大人ふたりを小さい体が引っ張る。波を散らす船の舳先のようだ。この小さな手が、もしかすると、俺の‥‥。
「由真‥‥この子は‥‥」
胸にある考えを確かめるように、晴樹は隣の由真を見つめる。
由真がうなずく。
そうなのか? そうなのか、そうなのか!
晴樹は叫び出したい衝動をおさえ、天を仰ぐ。太陽はすでに中天に高くぎらついている。直線の光が目にしみる。熱い滴がひと筋、まなじりから耳の後ろに流れた。はは‥。今日はやけに涙腺がゆるいな。無駄に明るくて軽い松尾晴樹は、どこにいった。
角を曲がると、通りを遮るほどの大きな船の鉾が一艘、新町通りに停泊していた。金色(こんじき)の鳥が両翼を広げ、神々しい姿で船の舳先を守る。近づくほどに混みあう人が波をなす。足もとで大樹が、ぴょんぴょん跳ねている。人波にのまれ、よく見えないらしい。大樹の腰を背中からつかみ肩の上に持ちあげた。
「見えるか?」
「肩車や! やったぁ。じぃじの肩車より、よう見える」
「カマキリもかっこええけど、このお船もすごいやろ!」
肩の上ではしゃぐ大樹を由真が見あげる。
「ひろ君、七夕飾りに、パパができますようにって書いてたよね」
おいおい、何を言いだす気だ。晴樹があわてる。目で制しようとしたが、大樹が頭に手を置いているものだから、顔を動かすこともできない。
「うん! 書いたよ」
「おっちゃんが‥‥パパだったら、どう?」
止める間もなく、由真がストレートの剛速球を投げる。心の準備とか、子どもの気持ちへの配慮とか。そんなものには、おかまいなしだ。
「えっ! おっちゃん、ひろのパパになってくれるん?」
「ほんまに?」
頭の上から晴樹を覗く。目の前に、だらーんと逆さになった大樹の顔が降ってきた。晴樹の髪をわしづかみにして、真剣なまなざしを向ける。危なっかしい体勢に冷や冷やして、晴樹が思わず「ああ」とうなずくと、頭を起こして「やったぁ!」とはしゃぐ。このままでは危ない。晴樹は大樹を降ろした。
地面に降り立つと、大樹はすぐさま晴樹に飛びつく。
「ほんまに? ほんまに、ひろのパパになってくれるん?」
「俺で、いいの?」
大樹を抱きあげる。大樹と由真の間を壊れたメトロノームのように、晴樹の視線が往復する。由真は微笑みながらうなずく。
「あ、おっちゃん、何で泣いてるん? ひろのパパになるの、いややの?」
「違うよ。うれしすぎて、涙も喜んでる」
「よかったぁ」
大樹がいちご飴でベタベタの手で、涙を拭いてくれた。
「ばぁばが、お昼ができたから、帰っておいでって」
由真がスマホを閉じながら告げる。
「俺はこのへんで適当に食っとくわ」
「何言ってんの。父さんなんか、隼の話が聞きたくて、待ってるよ」
えっ、いや。ちょっ、待て。晴樹は、このたった1時間ほどの間に起こった急展開に、頭を整理できていない。混乱するまま由真と大樹に連行され、四条通りを渡った。
「ただいまぁ」
大樹は靴を脱ぎ捨てると、廊下をバタバタと大きな足音を立てて走り、リビングの扉を開ける。
「じぃじ、ばぁば。ひろにも、パパができたぁ」
大樹が大声で報告しているのが聞こえる。「あ、しまった」と由真が晴樹を見る。口止めするの忘れてたわ。うっかりなのか、わざとなのか。由真が確信犯すぎる気がするけど。覚悟を決めるしかない。
「すみません」
リビングの扉の前で、晴樹が直角に体を折る。だが、後の言葉が続かない。まず、何から謝れば、いいんだ。結婚の許しを請うことか? 知らなかったとはいえ、今日まで由真と大樹を放っておいたことか? それとも、5年前に結婚してやれなかったことか?
じぃじも、ばぁばも、孫の爆弾発言に面食らった。じぃじ、つまり由真の父親の孝蔵は、鼻先に引っかけていた老眼鏡を落としそうになった。ばぁばの文子は、鱧寿司に添えるお吸い物をこぼしそうになった。
「あのね。大樹の父親は、松尾晴樹さんなの」
由真が、頭を下げたまま不動の晴樹の横に並んで説明する。
あの気さくな孝蔵が、テーブルの向こうで腕を組んで黙している。
「すみません」
晴樹は、直角不動のまま声を絞りだす。
「ぜんぶ俺のせいです。俺が悪いんです。俺が‥、俺のバカみたいな‥ひとりよがりの思い込みに‥‥由真さんを巻き込みました」
そのままリビングの床に土下座する。
まあ、まあ、まぁ。文子が椀をテーブルに置いて駆け寄り、晴樹の斜め前で膝をつく。「パパ、どうしたん?」大樹が晴樹の背にしなだれかかる。
「俺、養子なんです。母は、小1のときに亡くなりました。‥‥‥」
晴樹は泰郎に語ったのと同じ話を、ぽつぽつと繰り返した。
話しているうちに『オールド・クロック・カフェ』に居るような、不思議な感覚になっていく。長刀鉾の柱時計が耳の奥で鳴る。泰郎と桂子が穏やかに微笑んでいる。
「‥‥‥‥、だから、結婚は会社のために見合いでするんだと、思い込んでました」
幻のような残像に励まされ、晴樹は語り終えた。
「わかった。あんたの事情はようわかった。けどな」
「なんで5年も、由真とひろを放ったらかしにしとったんや」
「それは‥‥」
晴樹が絶句する。
「私が隠してたからよ」
隣に立っている由真が答える。
「晴樹は、ついさっきまで大樹の存在も知らんかったし。私が他の誰かと結婚して、大樹が生まれたと思ってた」
由真は父親に焦点を定めて説明する。
ふ――――っ。孝蔵はうつむいて、ひとつ、長いため息を吐くと、椅子から立ちあがった。
「ふたりとも、ちょっと来い。文子、ひろを頼むで」
リビングに続く和室の襖を開けながら、孝蔵はふたりをうながす。「ひろ君、ジュース飲むか?」文子が大樹を抱きあげ、キッチンに連れて行く。
和室のまん中にどかっと陣取って、孝蔵は胡坐をかく。その前に晴樹と由真が正座する。
「お前らがお互いのことを想うあまり、ややこしいことになったいうのは、わかった。せやけどな。ひろは、どないや。アホな親の身勝手な理屈のせいで、さみしい思いをしたのは、あの子やで」
晴樹は膝に置いた拳に力をこめ、両腕をつっかえ棒のように張る。由真は父親を凝視してゆるがない。
「松尾さん。あんた、実の父親を知らん、言うとったな。せやったら、あの子のさみしさもわかるやろ」
晴樹は口を一文字に結んでうなずく。両の目は決壊寸前だ。拳でぐいぐいと膝を押す。
「由真、お前もや。何べん訊いても、ひろの父親が誰か言わんかった。言えんかった事情はわかった。お前が、松尾さんの立場を思いやったのもな。そのうえで、望みを叶えることを考えた。けどな。生まれてくる子のことは考えたんか? じぶんの想いだけで突っ走ったんとちゃうか?」
「今日、松尾さんが来てくれはらへんかったら、この先、どうするつもりやったんや。ひろにも、松尾さんにも、母さんにも、俺にも。誰にも言わんと、お前の胸のうちに秘めとくつもりやったんか?」
由真は父から視線をそらさない。
「大樹が中学生くらいになったら、話すつもりやった。でも‥。七夕飾りにパパができますようにって書いてるのをみて、胸がちぎれそうになった」
「だから‥。今日、晴樹を見つけたときは、息が止まりそうやった。祇園の神様(かみさん)が願いを聞いてくれはったんやと思った」
まっすぐに目を据えて話す娘は、頬をつたう涙を拭おうともしない。孝蔵は腕組みをしてふたりの不器用な愚か者を見やり、「しゃあないな」とつぶやきながら立ちあがった。俺が憎まれ者になるか。
「ふたりとも、立て。このまま赦したら、松尾さんも立つ瀬がないやろ。せやからやで」
孝蔵の右手が、晴樹と由真の左頬に飛んだ。
バシッ。
バシッ。
「ひろを悲しませた痛みやと思え。これで、チャラや」
「松尾さん、由真と大樹をよろしゅう‥‥」
と孝蔵が言いかけたところで、大音量の泣き声が響きわたった。大樹が和室の襖につかまって泣きじゃくっている。
「はは。ひろに嫌われてもたな」
孝蔵が寂しげに笑う。
「さぁさ。早よ、お寿司食べて。お吸い物が冷めるぇ。ひろ君、ほら、泣かんでも。じぃじも、怒ったんちゃうで」
「じぃじ、パパとママを叩いたぁぁあ」
うわーん、と大樹がまた、しゃくりあげる。
「あらあら。殴られたパパもママも泣いてへんのに。おかしいなぁ。そんな泣き虫さんやったら、バイクには乗せてもらわれへんな」
晴樹に抱っこされていた大樹は、最後のひと言にぴたっと泣きやんだ。ごしごし目をこする。
(to be continued)
本作の主人公、松尾晴樹が脇役として登場する、さわきゆりさんの『不器用たちのやさしい風』も、あわせてお愉しみください。
https://note.com/589sunflower/m/me08a78c52363
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