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『数分間のエールを』美大中退の私が観て思ったこと
『数分間のエールを』を観ました。
大好きな菅原圭さんの歌が劇場で聞けた感動だけでなく、美大を中退し今美術教員免許を取ろうとしている私にはガン刺さりで当然ボロ泣いてたわけですが…
美術の道に進もうと決めて10年、挫折ばかりをしてきた自分にとっては、色々なことを思い出したり考える映画でした…ね……
(とはいえ私はまだ始まってもいないうちから挫折してしまったという感じなのだが)
終始「トノーーーーーッッッ!!!!美術やめるなーーーーーッッッ!!!!!がんばれーーーーーッッッ!!!!!!」のデカ感情に襲われていました。がんばれトノ!!!!美術やめるな!!!!(デカ感情)
観終わって一番に思ったのは、「やっぱりもう一度本気でモノを作りたい」だった。
5年前にうつ病になって以来、絵を描くと涙が止まらなくなり、数年間絵を描けずにいた。多分「作ること」に付随するプレッシャーに耐えられるメンタル状態ではなくなってしまったんだと思う。
最近になって、ようやくギリ泣かないくらいに回復してきたので、少しずつ描いている。が、また心が壊れるのが怖く、なるべく心を揺らさないように、自分に期待せず、7割の気持ちで描いている。それが今ギリギリできるレベルかなと…
そうしていると、深く落ち込んだり傷ついたりはしないで済むけど、やっぱり深い喜びもない。
今一番強く願っているのは「絵を描くことを続けること」なので、続けるためにしばらくは「本気」を制限するが、いつかまたモノづくりに本気でぶつかれるようになりたいと改めて思った。
本当に身に沁みて実感しているけど、モノづくりにはめちゃくちゃ精神力と体力が要る。
モノづくりというのは、全力で丸ごと裸の自分を全て込めてぶつからなければいけない世界で、でもそれを結果だけ見て判断されてしまう世界で、でも全力でぶつからなければ評価の土俵にすら立てない世界…なんですよね…
いつだったかこれに気づいたときには絶望した。当然と言えば当然のことかもしれないけど、なんて残酷なんだろうと…。
そして、恐怖と戦いながら丸ごとの自分を出してみたところで、自分がものすごくチンケで浅くてしょうもないんだってことを目の当たりにさせられて、さらに絶望するという。
外崎くんが「何を作りたいかすらわからない」と言ったのは、丸ごとの自分を出してみようとしたけど、出すべきものすら見つからなくて、自分がいかに空っぽなのかと気づいてしまったということなのかもしれない。
作中の朝屋くんや織重先生は「自分の作ったモノで誰かの心を動かしたい」という動機でモノづくりをしているけど、私は「誰かの心を動かしたい」と思ったことが全然ないなということにも気づいた。いや、昔はそう思っていたのかも…。
昔は、とにかく評価されたくて認められたくて仕方なかった気がする。誰かに評価されることで「お前はモノを作っていていいんだ」と許されたかった。
私の場合はそれが大学受験だった。この大学に受かればきっと胸を張って作品が作れるなという動機で、とある大学を目指していた。
第一志望の大学に全力でぶつかったけど、自分なりにこれ以上できないってくらいのことをしたつもりだったけど、受からなかった。受からなかったし、うつ病になった(受験だけが理由ではないけど)。今でも「モノを作ることを許されてないな」という感覚がある。
そんなこんなで挫折して、うつ病になって、絵が描けなくなって、2年引きこもりをして、美大に行ったけどうつが再発して、さあどうしようとなって、色々考えた。
「私が一番したいことは何だろう」と。
め〜〜〜〜〜〜ちゃくちゃ考えて、最終的に残ったのは「絵と共に生きていきたい」だった。
絵で食っていけなくても、どんな仕事をしていてもいい。私は絵を描く人生を生きたい。絵と共にあることが私の人生の目的だと。
思えば、引きこもっている間、死にたくてしょうがなくて、目に映るもの全てが自殺の道具に見えていたけど、なぜだか「私は絵を描いて生きていく」と確信していた。
じゃあなぜ絵を描きたいんだ?とも考えた。
多分、私にとっては「『なにか』に触れるため」だった。
絵を描くとき、なにかに手を伸ばしている感覚がある。なにかを渇望している。これだ!というものを掴めたとき、「なにか」に触れられた気がする。
この感覚がたまらねえもんで、ものを作ることをやめられない。
それが作中で言われている「暗闇の中の星」なんじゃないかな〜と思った。
そんなわけで、私はどんな形でも絵を続けていこうということになった。具体的には、生活の為のお金を働いて得つつ、傍らで絵を描けたらと。
傍から見れば趣味レベルなのかもしれないけど、別に構わないなと思う。こちとら承認欲求のバケモンなので、そりゃあ認められたいし受け入れられたい気持ちは大いにあるけど、一番やりたいことが「私は絵を描きたい」だと気づいた今、昔ほどは承認されたいと思わなくなった。
こういう、私の「モノづくりのはじまり」を思い出しながら観ていた。
そんな私にとって、『ナイトアンドダーク』の歌詞、「消極的な理由で未来を選んでもいい」という歌詞にはめちゃくちゃ救われました。
それから「才能」についての話。これも色々思い出した。
もちろん私は才能ない側の人間で、それを何度も思い知った。というか絵を描くたびに思い知っている。「俺才能ね〜〜」と思っている。
でもそれは私にとっては絵をやめる理由にはならないし、「才能がない」ということをやめる理由にしなくていいと思う。
私は美術の予備校で働いているのだが、生徒の子に相談されたことがあった。
「先生は才能って存在すると思いますか」と。
その子は、「とにかく一番になりたい」と強く言っていて、一番になるために今まで勉強、スポーツ、音楽など色々なことを頑張ってきたらしい。そのどれでも一番になれなかった。そして美術も、一番になるためにやっていた。
才能というものがあるかどうかと聞かれて、私は「あると思う」と答えた。
私は、才能とは運だと思っている。
才能は間違いなく存在する。同じことでも努力せずポンポンできる人もいるし、努力してようやくできる人もいるし、そもそも努力することが難しい人もいる。
ではそれが何で決まるかといえば、遺伝や、生まれつきの性質や、育った環境や、与えられたものや、与えられなかったものや、経験や、何と、誰と出会うか。自分ではコントロールできないもので決まる。
だから才能とは運だと思う。というより、自分ではコントロールできないものによって決まる能力差を才能と呼ぶのだと思う。
「才能がある成功者」が努力していないわけではない。彼らは潜在的な能力もあった上で、きっと人一倍努力している。ただ、人一倍努力できるというのも才能で、運だ。
そういう意味で言えば、私は間違いなく才能がない。技術が上手いわけでも発想がずば抜けているわけでもない、見たものをそこそこ描き写せるようになっただけの平凡以下だ。その上メンタルがバカ弱く、すぐ泣く。ガガンボ並のヒョロガリで体力もない。社会不適合者で、まともにアルバイトもできない。どう考えても先生と呼んでもらえるような人間ではない。
だけどそれが、絵をやめる理由にはならない。なぜなら私が絵を描きたいから。
私はこの先、絵で食っていけることはないかもしれないし、全然絵とは関係ない仕事をするかもしれないが、それでも私は自分のことを「画家だ」と思っていると思う。
だから、どうか「才能がない」「一番になれない」という理由で絵をやめないでほしい。絵じゃなくてもいい、なんでもいいから、「自分はこれだ」というものを探してほしい。
というようなことを話した。
彼に刺さったかどうか分からないし、刺さってないかもしれないし、むしろ「は?」と思われたかもしれないが、それならそれでいい。
私の本心は伝えたので、あとは彼が自分で納得できる人生を送ることを願うばかりだ。
『未明』の歌詞、「なんだっていいんだよ ああしたいとか こうなりたいの旗さえあれば」を聴いて、そんなことを思い出した。
ほぼ自分語りになってしまったが、『数分間のエールを』、本当にモノづくりへのエールを貰った作品でした。
これからも、ぼちぼちでもいいから絵を描くことをやめたくないし、いつかはまた本気でモノづくりがしたいと思わせてもらった。
旗を掲げて、行進をやめずにいようと思う。
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