「命」「可哀想」について考えてみた~近藤康太郎の多事奏論
新聞をめくって朝日新聞編集委員、近藤康太郎氏の記事が載っていると、「わっ」と喜びの声をあげます。「またお会いしましたね」
私は勝手に「師匠」と呼ばせていただいています。(何回も書いている)誰にも言われていませんが、弟子であれば、その感想を書かないといけません。(毎回書いている)
2023年12月9日(土)朝刊
多事奏論が載っていました。
見出しは「熊の殺処分 『可哀想』人間だけの心の矛盾」
今回のキーワードは「可哀想」だと思います。
4,000字になりました。お時間があれば・・・。
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はじめに
まずは、どんな内容なのか。紙面を。
今回は、僭越ながら、このコラムをもう少し深く読み解いていきたいのです。全く無謀なことをしようとしている。見当違いかもしれない。自己満足で、誰も読んでくれないかもしれないけど、いいのです、私なりに掘り下げてみる。レポートを書くつもりで。挑戦です。
まず「可哀想」とは。
かわいそう【可愛そう・可哀想】
あわれで、人の同情をさそうようなさま。ふびんなさま。
(コトバンクより)
①草の根を分けても探し出すのは「可哀想」だから
最初はここから始まります。
近藤氏の田んぼの師匠も、猟をしていることについて、「シシも可哀想」と言いながら、その肉を持って行くと喜ぶ。矛盾している。
近藤氏は、言います。
【獲物は、早く見つけないといけない。それは、撃たれてまだ生きているかもしれない。狸や猛禽類に見つかったら息したまま食われるかもしれない。いずれ死ぬのだけど、それは『可哀想』だ】(コラムより)
確かにその状態は「可哀想」と思えます。死に損なっていたり、息しているのに食われるのは苦しいだろう。猟師は命を狙ったのだから、命を奪るのは「可哀想」ではないが、苦しみを与えるのは可哀想である。そこは納得できるような気がする。以下のようにも言っていますが。
②志賀直哉『城の崎にて』
コラムに志賀直哉の短編「城の崎にて」の話が出てきます。これは読まねばと思って、急いで買ってきて読みました。その理由の一つに、自分が先日城崎を旅したからということもあります。街の状況も頭に浮かべながら読むことができました。
『城の崎にて』はこの中に入っています。
なかなか面白かった。宿の屋根にあった蜂の死骸。他の蜂は見向きもしない。そして雨に流されてしまう。子どもにいじめ殺される鼠。そして作家自身が何気なく投げた石が、蜥蜴に当たって死んでしまう。
志賀直哉は電車に跳ねられて、城の崎に湯治に来ています。死に損なった自分が目にした蜂や鼠や蜥蜴の死。死は静かであり、その静かさに親しみを感じたと書かれています。寂しさも。
近藤氏は、「生き物の淋しさ」という言葉に共感しています。コラムの最後に「生き物の、淋しさを感じるだけだ」という文章が出てきます。
命あるものはいつか死ぬ。偶然に左右されることもあり、それは無情でもある。寂しい。「そうだよなあ」と余韻が残りました。人間の死が偶然だったらたまったものじゃないが、そういうこともある。
③『アロハで猟師、はじめました』
もう一冊買った本があります。近藤康太郎著「アロハで猟師、はじめました」近藤氏の「死」や「命」に対する考えを理解するには、この本を読まないとダメだと思ったのです。急いだので、アマゾンで買いました。
近藤氏は最近、命と死について書き続けています。それは氏が猟を始めた頃からでしょうか。必然的に命や死に直面せざるを得ないからだと思います。
前回の多事奏論も、バービー人形の映画の話から、「死について」でした。
死を自覚できるのは人間だけだ。だから、死に近づいていくいま、「お前はどう在るのか」と自分に問い続けるのだ。そう書いていました。感想も書きました。
④壮絶な猟の現実
『アロハで猟師、はじめました』には、銃で鴨を撃ったり、仕掛けを作ってイノシシや鹿を捕獲する様子、そして息を止めて皮を剥ぎ、精肉にするまでがリアルに描かれています。それは刺激が強すぎるほどの描写です。
生から死へ。厳しいが、あえて引用してみます。
そして精肉へと作業を進める。スピーディーに無駄なく。
イノシシを罠で捕らえてからの記述も、こちらの心臓にドクドクと響きます。
⑤牛とトナカイの命の生かし方
ここで思い出すのが、先日投稿した、映画『ある精肉店のはなし』です。この映画でも、牛の息の根を一瞬で止め、そこから見事にさばいて精肉にしていく様子が描かれます。皮も内臓も一つも無駄にしません。「命を生かす」という話でした。
『アロハで猟師、はじめました』の中で、近藤氏は言います。
【約100万年前から、定住の始まる1万年前まで、人類の歴史のほとんど大部分は旧石器時代で、粗末な石器で巨獣に立ち向かい、殺し、食った。けものの死こそ、自分たちの生であり、私たちは例外なく、殺生をして生きている】
北極圏では、クジラや海獣やトナカイを捕り、これも一つも無駄にすることなく、自分たちの食料や生活用品にしていると聞きます。かの地の人々は、トナカイを「可哀想」と思うのだろうか。
日頃私たちは、牛肉や豚肉や鶏肉を「おいしい」と言って食べています。その時に、生きていた牛や豚や鶏を想像しません。
だから、近藤氏の田んぼの師匠のように、「生き物を殺すのは可哀想」と思いながら、おいしく食べる。それは、やはり矛盾なのでしょう。
福岡伸一氏(生物学者)は「生きることは命を交換すること」と言っています。
⑥意味なき死
少しテーマを変えて、「意味なき死」について考えてみます。
新聞のコラムには、ビニール紐に引っかかった真鴨を救出しようとして果たせず「可哀想」だったという文章があります。『アロハで猟師、はじめました』にも、近藤氏が子どもの頃に、捕まえた鼠が可哀想で、父親と逃がしに行った話が出てきます。
子どもの頃から、いけすの魚は殺されると分かっているので見るのが苦痛だったそうです。命を奪い、奪われることに多感で繊細だったと書いています。かなりのナイーブさです。その繊細さがありながら、猟をしてけものを捕まえる。平気なわけはない。そこに、近藤氏のナイーブさと優しさと覚悟を感じます。
私はゴキブリを新聞紙で叩けない。「殺生したくない」「可哀想だから」というより、勇気が出ない。命を奪うという行為に、怖れを感じるのかもしれない。単に「恐い」からという気もするけど。でも、蚊は叩ける。
ここで思うのは、「意味なき死」ということです。
鴨の命をいただいて、立派な精肉にして贈りものにして喜ばれる。熊は人間の命を危うくするので、駆除する。こちらの命を長らえる。イノシシや鹿は畑を荒らすので、捕らえて、無駄なく命をいただく。
しかし、単におもしろいからと、虫や生き物を殺すのは「可哀想」(子どもは平気でする)
「意味なき死」
それが「可哀想」と「可哀想でない」を分けているのではないか。近藤氏の基準の一つはそれではないかと思いました。どうですか。違いますか。
⑦「可哀想」は人間だけ
だらだらとつなげて来ましたが、そろそろまとめに入ります。
近藤氏は、コラムの最後に書いています。
近藤氏は猟を通して、生き物の命と対峙しています。鴨はいまわのきわまで逃げようとし、罠の中の猪は猟師の目をじっと見る。そこにある命を、とる。命と真剣に真摯に向き合うしかない。とことん。それが礼儀というように、身体で、心で、実感として。
だから、「死の淋しさ」も感じるのだと思います。
これも、ズシリとくる表現です。私はこんな感覚は味わったことがありません。「可哀想」などと甘いことを言っていられない、という気持ちになります。
⑧最後に
「可哀想」と思うのも、言ってみれば、これは人間の優しさでもあると私は思うのです。感情がある人間だからこその優しさ。
でも、「可哀想」と思いながら肉(野菜も)食べるのは矛盾しているし、自然の節理から言っても思い上がりで、不自然。
それが、人間の思い上がりにも繋がるのでしょうか。
ここから学びたいのは、「私たちは命をいただいていることを忘れない」ということだと思います。人間だからとエラそうにしてはいけないと。
毎回、近藤氏の、「生きる」ということに、自分の意思で徹底的に向かっている姿に、感銘を受けます。『アロハで猟師、はじめました』を読んで、なおさらその思いが強くなりました。
『アロハで田んぼ、はじめました』はこれから読みます。
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<書いた後で>
何でこんなに時間をかけるのか!誰がこんなの読むのか!と思いながら書いてしまった。整理できていなくて、自分には分かっていても、読む人はわかりにくいだろうなと思います。
何か感じていただければ幸いです。
この多事奏論のあと、12月18日(月)の紙面に「アロハで猟師してみました シーズン10」が載りました。それは田んぼの話なのだけど、それを読んでいたら、
「えーっ?!近藤さんを訪ねていった人がいるの?」
どこかに、ファンレターをたくさんもらったと書いてあった。
「えーーっ?!手紙って出していいの?」と驚いています。
そして、どうにかしてこれを師匠に読んでもらいたいなどという、恐れ多いことを考え始めています。こんなこと書いて、怒られたらどうしよう。
「アロハ米1キロを10名様」にも応募した。
当たれ!