日想観と中将姫につらなるものは
小林秀雄は「観」という言葉の語感から、仏教思想を思い浮かべる。そして浄土宗における重要な経典である「浄土三部経」のうちの一つ、『観無量寿経』をとりあげる。人々が極楽浄土に往生するために踏む16段階の修行である「十六観」の流れを説明し、「文学的に見てもなかなか美しい」と語った。
なぜ、小林秀雄は最初に『観無量寿経』を選んだのだろうか。ただ、お経の名称に「観」の字があるという理由だけで紹介したとは、まず考えられない。
小林秀雄が『観無量寿経』について述べている別の作品がある。『私の人生観』の単行本が刊行された翌年である1950(昭和25)発表の『偶像崇拝』だ。
小林秀雄が和歌山県の高野山を訪れ、かねてから願っていた仏画『赤不動』を初めて鑑賞したものの、どうもピンとこない。むしろ鑑賞経験のあった『阿弥陀二十五菩薩来迎図』の方が、まるで新しい絵を見るかのように感激したという。このような宗教美術を観るには、単なる審美眼だけではなく、礼拝的態度も必要ではないかと語る。
そして「来迎図」ならば、やはり「山越しの阿弥陀像」ではないかと考える。その仏画が描かれた動機、すなわち画因は『観無量寿経』の教義をも超えていると、民俗学者で詩人でもあった折口信夫が指摘していることを語る。彼が中将姫を題材とした小説『死者の書』で描いた日想観の思想が、いかに日本にしみ込んでいるかということを、その『偶像崇拝』で述べている。
日想観。中将姫。
ここで一度整理しよう。
日想観は「にっそうかん」「じっそうかん」とも読み、『観無量寿経』において、極楽浄土に往生するために修練を積む「十六観」のうちで最初の観法だ。
西にあるという極楽浄土を想うならば、まず日没の光景を見よという。そのうで修練では、姿勢を正して西に向いて坐り、はっきりと夕陽を思い浮かべることから始める。それに心が集中できるようになったら、沈みゆく夕陽が、まるで太鼓のように西の空に浮かんでいる様子を見る。それから、目を開いていても閉じていても、その沈みゆく夕陽をはっきりと思い描けるようにする。このような修練を日想観という。
これを小林秀雄は『私の人生観』では、「日輪に想いを凝らせば、太陽が没しても心には太陽の姿が残るであろう」と要約する。
日本では昔から、日輪、すなわち太陽を拝む信仰が見られる。西には浄土があり、日が沈むのは往生を想わせる。つまり日想観である。そんな山の端に沈みゆく夕陽に阿弥陀仏を重ねた仏画が「山越しの阿弥陀像」だと折口信夫は『山越しの阿弥陀像の画因』という論考で指摘している。それについて小林秀雄は『偶像崇拝』で触れたのだ。
ただ、『偶像崇拝』が書かれたのは『私の人生観』よりも後だ。『私の人生観』の講演や加筆のときには、すでに『観無量寿経』や日想観について、思いをめぐらせていたのだろう。というのも、この日想観と中将姫は、強く結びついている。そして中将姫といえば、小林秀雄の名作『当麻』である。
『当麻』といえば、どうしてもこの一文を思い浮かべてしまう。
阿弥陀如来を拝みたいという中将姫のために、観音菩薩の化身が織り上げたのが、当麻曼荼羅だといわれている。このことを題材にした「能」の曲目が『当麻』であり、それを鑑賞した批評、いや、むしろ随筆が小林秀雄の『当麻』である。
(つづく)