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書けないときは、歩く。

書くことにゆきづまると、歩くことにしている。深い意味はない。なんらかのおまじないでもない。ただ、歩くだけ。

天気がよければ外を歩く。道はとくに決まっていない。自宅や仕事場のまわりを、ただ歩く。時間も決めない。ほんの数分のこともあれば、小一時間をかけるときもある。

音楽を聴きながらは歩かない。仕事や何かの都合で移動するために歩くとき、音楽は欠かさない。街や人の騒がしさからの鎧にすべく聴く。しかし、書けないときに歩くなら、何も聴かない。小鳥のさえずり、木々のゆらぎ、頬をなでる風など、自然の音に耳を澄ます、なんてことも考えない。ただ、素の自分で歩く。

ある作家は、物語が流れなくなると必ず、登場人物を歩かせたという。すると何かに出合ったり、気づいたり、転んだりするだけでも、物語の推進力になるからだという。では、作家自身も歩いたのかといえば、そんなこともなかったらしい。あくまでも歩くのは登場人物なのだ。

さて、そうやって外を歩いてから原稿用紙なりパソコンなりの前に戻ってきて、すんなり書きすすめられるか、といえば心もとない。歩いていると、天からひらめきが降ってくるわけではない。

それでも気分がよくなることは確かだ。少なくとも、書けないことに向き合おうという気になる。それで、言葉を吟味したり、描写を工夫したり、ちょっとした調べものに取りかかったりする。

哲学者のニーチェは、「足で書く」という言葉を残していると聞いた。まさか足指で万年筆をつまんで、あの断章を書いたわけではないだろう。その言葉の出典は何か、そして本意はどこにあるのか。それを確かめるべく、図書館に足を運ぶとするか。んんっ? と思ったが、まさか。

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