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阿部日奈子詩集『キンディッシュ』

詩集の幕開けとなる「行商人」から、肌触りが違う。

冬のあいだに作りためたボタンを車に積んで
行商の旅に出る
売掛帳に記された仕立屋や洋裁学校を
街道に沿ってまわる
七日間の旅程

「行商人」

外国文学を礎にした前作『海曜日の女たち』とは異なり、モノクロームな日本の情景が浮かび上がる。行商、仕立屋、洋裁学校という言葉からして、懐かしさを覚える年配の女性を眼前に映し出す。女、ではなく、女性。

笑いさんざめくお嬢さんがたは
年々幼くなるように見えてならない
産毛がひかる水蜜桃の頬っぺたでもうじき結婚なんて
心配を通りこして痛ましくさえ思うのだが

「行商人」

第一連では、場面描写。そしてこの第二連では、「すみれ服飾学院」を訪れた行商人の視点で語られる。訪れるたびに女生徒が幼く見えるのは、それだけ年季が入っているから。生徒の若さに対する哀れみにも。

みごとな銀髪の女学院長が含みのある笑顔で目配せするので
行商人は黙って
陽光の溶けこんだ紅茶を啜っている

「行商人」

勝手にモノクロームで描いていた場面に、行商人が飲んでいるお茶が、春の光を帯びてくれない色が浮かび上がる。若葉色した日本茶でもなく、英国のブラックティーでもない。その鮮やかな紅にはっとする。カップを手にする詩人の横顔は、すましている。

   *   *   *

情人を亡くした哀しみをえがいた「ノウゼンカズラ」。

いままで以上に着飾って槍が降っても外出する
つんつるてんのワンピースから
にょっきり突き出たO脚に
静脈瘤の青筋が浮いていようと
ストッキングははかない

「ノウゼンカズラ」

けっして音韻を意識しているのではないのだろう。でも、声に出して読んでも黙読しても、どこか馴染みのある言葉の躍動感がある。ふと思い出したのは、幸田露伴の『五重塔』。

はつよきの音、板削る鉋の音、孔をるやら釘打つやら丁々かち/\響忙しく、木片こつぱは飛んで疾風に木の葉の飜へるが如く、鋸屑おがくづ舞つて晴天に雪の降る感応寺境内普請場の景況ありさま賑やかに…

幸田露伴『五重塔』

何をもって名文か。そんな議論があった気配すら漂うことのない昨今に、巧緻な詩文にほれぼれする。明治も昭和も遠くになりにけり。

昭和かもしれない「ノウゼンカズラ」の女は、哀しみを抑えて顔を出した宴席で飛び交う空疎な会話にあいづちを打ちつつ、おそらく行きずりだろう、先般の情事に思いをはせる。

接吻モ抱擁モナイ性交ハ
一分ガ永遠ノ苦行
(タッタ一分ナノニマダ経タナイ、ドウシテコンナニノロイノ!)
遅スギテ遠スギテ寒スギテ
死ンデイル、二人トモ

「ノウゼンカズラ」

愛のない交わりはある。しかし交合から情が生じることもある。しかし、愛も情もない交わりは「遅スギテ遠スギテ寒スギテ」死に等しい。

詩を書くことで、詩人は感情を放つ。読み手はそこに自分の感情を重ねる。それは共感というよりも、自分がどう感じているかに気づくのだ。たとえ自分が愛のない交わりを経たことがなくても、読み手は、その感情を、追憶する。

「ここにノウゼンカズラを這わせたらいいのに」
あの日のあなたはそう言った
ヴェランダの陽当たりに目を細め
ここで、たしか、たぶん……
うわのそらで聞き流した花の名を手繰る春の闇

震える指は蔓となり、冷えた鉄柵にからみつく

「ノウゼンカズラ」

この最終行で、私の心は大空を舞う鷲にむんずとつかまれ、遠い遠い春の向こうの闇に飛んでいってしまった。

   *   *   *

前作『海曜日の女たち』は、詩人が描いた女たちに、私は会いにいった。本作『キンディッシュ』は詩人が、女たちを演じている。たとえ同じ脚本でも演じる者や演出によって舞台の印象が異なるように、この詩集で詩人は、脚本家や語り手というより、俳優なのだ。その演じる眼差し、息遣い、指先に、読み手は見蕩れ、息を飲み、その手にそっと触れたくなる。

詩集の幕引きとなる「三月の旅」という詩では、海辺の未亡人を都会の未亡人が訪ねていく。二人で浜辺にたたずみ、亡き夫の思い出話をする。ときに記憶違いで美化されたものがあろうと、愉しげに耳を傾けているのは、ついてきた煙色の猫。

二人の関係性は明かされない。亡き夫は誰なのか。同一人物なのか、別なのかも分からない。

もう待つひともいないのだから
最終のバスまでゆっくりしていって
そうね私たちにこんな日が訪れるなんて
そう言い交わしながら
食卓を整える二人
(中略)
前足をそろえて神妙にご馳走を待つ猫の
ばたばた振れる尻尾の先で
こよい
亡きひとの気配が慎ましく踊っている

「三月の旅」

技巧と自意識過剰が混ざり合って難解さに酔いしれている詩。「耳触り」の良い薄っぺらい言葉を並べた結果、生成AIが作ったような、もっともらしい日本語だが耳障りで空疎な詩に辟易していた。それが、単なる感情の吐露には陥らず、子どもじみたキンディッシュ妄想でもなく、詩人の来歴たる文学や芸術を素地に、華やかさも翳をも詩のことばで精緻に語る。そんな詩人や詩集と出会えたことが心うれしい。もっと、読みたい。

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既視の海
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