歴史は、上手に「思い出す」ことだ。その人物ならどう考えたか、どのような言葉を発したか、それが自分の内にありありと姿を現し、声が聞こえてくるまで、考える、想像する、思い出す。それを「歴史を知る」ことだと小林秀雄はいう。
『私の人生観』は講演録である。もし音声が残っていたならば、わずかに語気を荒げただろうところがある。
この講演の行われる3年前、敗戦直後の1945(昭和20)年8月28日、東久邇宮稔彦首相は記者会見で「軍官民、国民全体が徹底的に反省し懺悔しなければならぬ。一億総懺悔をすることがわが国再建の第一歩だ」と述べた。戦争責任をあいまいにし、国民の側にまで反省させる発言をうけて、人々は戦争を賛美し煽った文化人や芸術家に対して、いわゆる「戦犯」探しが始まった。
翌1946(昭和21)年1月、小林秀雄は雑誌「近代文学」同人6名との座談会『コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで』に臨んだ。その内容は翌月に「近代文学」第2号に掲載されたが、文学や批評をテーマにしながらも、どこか小林秀雄のつるし上げのようにも感じる。
座談会で、同人に名を連ねる評論家の本多秋五は、第一声からして「小林さんの歴史感覚というものに疑問がある」と絡む。小林秀雄を批判的に論じる「小林秀雄論」を同誌に発表することを直前に控えた本多は、小林秀雄が戦争に対して、日本がこのような状態なのに戦争が正義かどうかと言うのはどうか、国民は黙って事態に処した、それが事変の特色だ、それを眺めているのが楽しい、あとは詰まらないといった発言をしたが、事変は必然だったのかと問いかけた。確認のような物言いだが、どこか挑発的にも聞こえる。それに対する小林秀雄の返答が、後々にも尾を引いた。
一億総懺悔や文化人に対する「戦犯」探しに対する本音とも皮肉とも言えるこの発言は、小林秀雄の「開き直り」と解釈されることになり、さらなる批判も招いた。それが直接の原因ではないとされているが、同年8月、小林秀雄は明治大学教授を辞任している。
座談会「コメディ・リテレール」から3年、『私の人生観』の講演が行われた半年ほど後、戦艦大和の出港から沈没までを描いた士官の体験談であり戦記文学の書評において、小林秀雄は次のように語った。
座談会「コメディ・リテレール」においては、あくまでも放言であり、用意周到に行われた発言ではない。とはいえ、それは小林秀雄の本音であることには違いない。
単行本『私の人生観』が刊行された1949(昭和24)年10月の直前、座談会「コメディ・リテレール」で小林秀雄に絡んだ本多秋五は、やはり批判的に論じた自身初の著書『小林秀雄論』を出す。
そして座談会から28年後、CD化されているこの講義を聴くと、なぜか小林秀雄の「放言」を思い出す。
(つづく)