「批評」の平静と品位こそ「美」である
話を『私の人生観』本文に戻す。
小林秀雄は詩人リルケの言葉を用いて、「美」についての考えを述べる。
美は人を沈黙させる。それなのに、美学者は美の観念、すなわち美とは何かという妙なものを探している。「美」を作り出そうと考えている芸術家は、そんな美学の影響を受けているだけであり、むしろ空想家といえよう。
芸術家は、物を作る。美しい物を作ろうとはしていない。一種の物を作っているだけだ。苦心して様々な道具を作り、完成したものが、作り手を離れて置かれたとき、それは自然物の仲間に入る。物の持つ平静と品位を得るということだ。
この「物を作らぬ人」とは誰のことだろうか。文脈からすれば、「美学者」である。たが、小林秀雄の脳裏にあったのは、「批評家」ではないだろうか。
小林秀雄こそ、批評家ではないか。そうである。自己批判でもあろう。しかし、文芸時評の第一線から退き、己の信じる批評を書くのだという意思はすでに表明している。
詩と批評の近接。フランス象徴主義のシャルル・ボードレールの影響が大きいにせよ、それをわが国で、日本語で挑んだのが小林秀雄だった。詩でも書くような批評を書きたい。批評も芸術だ。だからこそ、批評に美を求めたのだ。
分析している間は論理だ。これは美学者が美の観念、すなわち美とは何かと理屈で考えていることにほかならない。芸術家は、美しい物を作ろうとたくらんでいるわけではない。ただ物をつくるのだ。批評も同様で、うまい批評を書いてやろうとたくらめば、分析中心となる。感動はそこに含まれない。小林秀雄の出発点は、美に感動することだ。もともと感動は分析しがたい。だから褒める。言いたいことを、言っているだけ。それが小林秀雄の手を離れたときに、物としての「批評」となる。自然物の仲間に入る。物の持つ平静と品位を得る。「批評」の平静と品位こそ「美」であると小林秀雄は考えたのだ。
(つづく)