「美」は解るものではなく、求めるもの
小林秀雄が「美」という言葉を持ち出すと、途端に心が慌ただしくなる。
美しさ。美学の萌芽。美学。たたみかける美しさという言葉の解釈に戸惑うのは、今も昔も、高校現代文の教科書で『無常という事』を読まされる高校生だけとは限らない。
小中学生に向けて書かれた文章だけあって、もっとも響いてくる、染み込んでくる。「美の問題」で最後に行き着くところは、『美を求める心』の文章であることに疑いはない。しかし、もっとも根本である「美とは何か」という疑問に対しては、『美を求める心』であっても答えてくれまい。述べていないから、というより、答えるつもりがないからだ。
この「絵」という言葉を、「美」に置き換えて考えてみたい。「美」が解るとか解らないとかいう言葉を用いるのが、そもそもずれている。「美」を理解することとは全く別種な認識を得ることが大切だ。それが「美を求める」ことである。「美」は解るものではない。「美」は求めるものだ。
ともすれば空想や夢想に入り込む感覚をともない、「夢」そのものと考えても構わない。しかし、「美」は観念でも通念でもなく、眼の前にあるものを求めてこそ「美」なのだ。だから現実の思想として、その生々しい感じ方を持ち帰ればいいというわけだ。まさに、美は経験である。
(つづく)
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