差異が認識されないまま周縁化される人々について
こんにちは、D&Iアワード運営事務局の堀川です。
8月からスタートした本連載では、ダイバーシティ&インクルージョン(D&I)に関連した社会学などの学術文献を紹介いたします。
前回はこちら。
前回は「差異」や「排除」、「包摂」が社会の中にどのように存在しているかという視点で、社会学的なD&Iの考え方の代表的なものを整理しました。
そこでは、「差異」がどのように見出されたり意味づけられたりするかが単純には捉えられないことを説明しました。
それに対し、「差異」を見出されることなく、「排除」のように周縁化される人々に注目したのが、松浦優先生による「抹消の現象学的社会学――類型化されないことをともなう周縁化について」です。
連載第3回である今回はこの論文を紹介しつつ、前回紹介したのとは異なる視点から、D&Iについて考える足がかりを探ってみようと思います。
1. 「抹消の現象学的社会学」の概要
本節では、典拠を明記していない引用箇所の丸括弧内は松浦(2023)からの引用ページを示します。
抹消とは「類型化されないことをともなう周縁化」
従来の差別研究をふまえ、松浦はまず、差別とは「特定の属性や集団を劣位におく仕方で差異化すること」と定義し、差別が生じている状態を「社会的に周縁化され劣位におかれているマイノリティがマジョリティから差異化されている」ことと整理します(158)。
これまでの差別研究の多くは、人種や病気、障害など、「すでに社会で有意味化している特定の差異」に注目するものでした(159)。
これに対し近年では、「これまで明確に差異化されてこなかったカテゴリー」に関する研究がなされています(159)。
このカテゴリーの例としては、健常者/障害者のいずれにもアイデンティファイできず困難に陥る軽度障害者(秋風 2013)や、既存の性自認カテゴリーでは不可能な諸実践をしているXジェンダー(武内 2022)などが挙げられます。
松浦の問題関心は、「これまで明確に差異化されてこなかったカテゴリー」に関して、「当事者がある種の問題的状況におかれており、その問題的状況に、カテゴリーがなく認識されないということが大きく関係している」のではないかというものです(159)。
言い換えると、「排除の対象としてあからさまに名指される差別とは異なる仕方での周縁化があるのではないか」という問題です(159)。
このような「類型化されないことをともなう周縁化」を松浦は「抹消」と概念化し(159)、この概念について論じていきます。
ところで、「類型化されない」つまり差異化されないというのは、差異を否定・否認することとはどのように異なるのでしょうか。
松浦が想定している「類型化されないことをともなう周縁化」とは、「社会的にカテゴリー化されておらず、嫌悪の対象としてイメージされることすらない」ものです(161)。
他方、差異を否定したり否認したりするためには、その前提として差異が認識されている必要がありますので(159-60)、この点が「抹消」とは異なります。
抹消つまり「類型化されないことをともなう周縁化」を説明するために松浦が挙げるのが「どの性別の人にも性的に惹かれない人々」の例です(161)。
こうした人々は「一方で異性への性的関心を表明しないことから「同性愛者」とみなされ」、他方で「まだ性愛を経験していないだけの「異性愛者」とみなされる」場合もあります。
しかし「いずれの場合も、他の人へ性的に惹かれないというあり方は理解されず、その存在は不可視化」されています。
こうした状態が「類型化されないことをともなう周縁化」です。
「類型化されないことをともなう周縁化」は、「特定の図式(たとえば異性愛/同性愛)以外の仕方で人々を分節化する可能性を予め締め出すこと」をとおして、「その図式にもとづいたマジョリティ/マイノリティの二項対立図式」での排除を維持してしまうことにつながる可能性を有しています(松浦 2021)。
抹消とは「非類型化をともなう周縁化」
松浦は「抹消」概念を、アルフレート・シュッツという現象学的社会学者の研究を軸にして説明していきます。
シュッツが論じた概念のうち、差別に関して鍵になるものとして松浦が挙げるのが「レリヴァンス」です(162)。
レリヴァンスとは、ここでは「個人が表明し、行なう具体的な諸々の選択、態度、決定、関与を説明するなんらかの規定的な選択の原理」(Schutz 1962=1983: 38)と説明されます。
「レリヴァンス」(relevance)または形容詞の「レリヴァント」(relevant)は、松浦の論文で何度も登場する概念です。
シュッツ理論におけるレリヴァンス概念は多義的で、それに即して論じられる松浦の議論も複雑なのですが、ここではさしあたり、語義どおり「関連性」または「関連のある」と読み換えても差し支えないでしょう。
シュッツは「没類型的であること」(atypical)と「類型化されていないこと」(untypified)を区別しており(Schutz 1964=1991: 317)、ここに松浦は注目します。
前者の「没類型的」なものは、「これまでの生活史のなかで作り上げてきた類型のどこにも当てはまらない異質なもの」です(164)。
そのため、没類型的なものに直面した人々は「戸惑い、解釈を余儀なく」され、その解釈によって「その人のもっている既存の類型化とレリヴァンスの体系は、多かれ少なかれ変容を被る」ことになります(164)。
これとは異なり、後者の「類型化されていないこと」は「主題化されない地平におかれること」です(164)。
これについては、次のような具体例によって説明されています(164-5)。
たとえば私が道を歩いているときに向こうから犬が来たとします。私は、それが過去に見てきた犬と同じような特徴であることから「犬」であることを理解しますが、その犬は私の知らない犬種です。
しかし犬が苦手な私にとって重要なのは、その犬が私に襲いかかってこないかどうかであるため、犬種はレリヴァントではない状態です。
このように、レリヴァントではなく注意を払われないことが、「類型化されていないこと」だと言えます。
「類型化されていないこと」が注意を向けられ主題化されるためには「さらなる気づき」(Schutz 1962=1983: 54)が必要です。
「さらなる気づき」のない状況では、「対象は既存の下位類型に当てはまるものとして認識され、そして類型化とレリヴァンスの体系は変容を被ることなく温存」されます(165)。
松浦はここに、異質なものとして排除される事態とは異なる、「類型化されないことをともなう周縁化」つまり抹消を考える手がかりを見出します。
松浦は「類型化されていないものが類型化されないままとなる現象」を「非類型化」(untypification)と名づけています(165)。
先に、抹消を「類型化されないことをともなう周縁化」と定義していました。
これを、非類型化という概念を使って改めて述べると「抹消とは非類型化をともなう周縁化」だと言えます(165)。
非類型化の存続は、差異がレリヴァントにならないことによっても、レリヴァントになった差異が「隠蔽」されることによっても起こります(166)。
たとえば「異性愛者」である「われわれ」から、「同性愛者」である「あなたたち」を排除することが行われるとき、それに先行して、たとえば「どの性別の人にも性的に惹かれない人々」は「われわれ」にとってレリヴァンス体系の相違が無視できる程度のものとみなされ、「異性愛者」である「われわれ」との差異が有意味でないものとして「抹消」されます(167)。
これが、「差異がレリヴァントにならない」例です。
後者の「隠蔽」は、「以前の主題的レリヴァンスが新たに現れた主題的レリヴァンスの背後に隠れて視野から消滅するという現象」です(Schutz 1970=1996: 165)。
「新たに現れた主題的レリヴァンス」が他者から賦課されたものであると、「自分自身の内在的レリヴァンスの体系を表明してそれを追求していく自由」が制限されるということになります(Schutz 1970=1996: 166)。
すべての類型化が差別であるわけではないのと同様に、すべての非類型化が抹消であるわけではありません(165)。
ではどのような非類型化が抹消といえるのかというと、非類型化を被った人が、自身の主観的意味連関を否定されるとき、その非類型化は抹消と呼べます(169)。
「自身の主観的意味連関を否定される」とはここでは、先述の「自分自身の内在的レリヴァンスの体系を表明してそれを追求していく自由が制限される」と同様の事態を意味しています。
抹消を被る人々は自らの意味づけや認識のあり方を他者から否定され、それによって問題を経験します(169)。
マジョリティの解釈図式や価値や規範が自明のものとして普遍化されることによって、抹消を被る人々は自身のレリヴァンスを社会的に軽視されているのです(169)。
上記で述べた「主観的意味連関の否定」は、「抹消」と「排除」に共通する現象です。ただし抹消の場合は、周縁化が間接的になされるという点に特徴があります(169)。
「マジョリティの解釈図式や価値や規範のもとで、直接的に名指されて排除されるのとは異なる仕方で、いわば間接的な貶価を被る」のが抹消だといえます(169)。
最後に松浦は、抹消を問題化する可能性について言及します。
ひとつは、抹消によって被る不利益に気づくことをきっかけにして、マイノリティ自身が新たな自己執行カテゴリーを創出したり、反対にマジョリティを有徴化する類型を創出したりすることで、既存の解釈的レリヴァンスの体系を変容させることです(170)。
もうひとつは、「他者の主観的視点を尊重することによって、既存の類型では表現できないあり方についても理解を放棄しないこと」で、これは抹消を被る当人以外にも可能な問題化の実践と言えます(170)。
2. 抹消を被る存在としての「フィクトセクシュアル」
以上が松浦(2023)の概要です。
この論文は理論的なものなので抽象度が高いのですが、著者の松浦はこれより先に、抹消についての事例分析を行った「日常生活の自明性によるクレイム申し立ての「予めの排除/抹消」(松浦 2021)という論文を書いています。
本節ではこの論文を参照して、第1節で紹介した論文の内容を振り返ります。
松浦(2021)が取りあげているのは「フィクトセクシュアル」(fictosexual)というカテゴリーです。
この言葉は、日本語圏では2017年ごろからウェブ上で用いられるようになった造語で、①架空の性的表現を愛好しつつも実在の他者には性的惹かれを経験しないこと$${^{\textsf{*1}}}$$、②「性愛」や「恋愛」として一般的に想定されるような営みを架空のキャラクターと行いたいと感じること、という2つを表す言葉として用いられています(松浦 2021: 69)。
この言葉は現時点で人口に膾炙したものではないため、「類型化されないことをともなう周縁化」の事例として分析されています。
$${\scriptsize{\textsf{\text{*1 この意味で用いられる「フィクトセクシュアル」は、しばしばアセクシュアルに近いものと}}}}$$
$${\scriptsize{\textsf{\text{ 認識されます(松浦 2021: 69)。}}}}$$
①周縁化のされ方
フィクトセクシュアルは、どのような点で周縁化されていると言えるのでしょうか。関連する既存の解釈図式について、松浦の整理を見ておきます。
セクシュアリティに関する解釈図式としてまず挙げられるものは「性的指向」ですが、これは異性愛、同性愛など、性的に惹かれる相手の性別に基づくカテゴリーです。
フィクトセクシュアルは相手の性別に基づくカテゴリーではないため、一般的な意味での「性的指向」からこぼれ落ちてしまいます(松浦 2021: 70)。
他には、架空のキャラクターを用いた創作物を愛好する営みに関連して、「オタク」や「ファン」といったカテゴリーがありますが、これらは概念的にはセクシュアリティとは無関連なものです(松浦 2021: 70)。
このように、フィクトセクシュアルとして表現される「架空の性的表現を愛好しつつも実在の他者には性的惹かれを経験しないこと」や、「『性愛』や『恋愛』として一般的に想定されるような営みを架空のキャラクターと行いたいと感じること」は、既存の図式に当てはめることができません。
この事態をフィクトセクシュアルの立場から見てみると、「フィクトセクシュアル」という言葉がなければ、自分のアイデンティティを表明することが困難であると言えるでしょう。
②非類型化の存続
フィクトセクシュアルではない人々が偶然この言葉を知ったときの反応についての分析(松浦 2021: 77-8)は、非類型化の存続の事例$${^{\textsf{*2}}}$$として位置づけることができると思います。
ここでは非類型化の存続は、「現行の解釈図式を揺るがしうるもの」すなわちフィクトセクシュアルを、既存の解釈図式へと回収することによって行われています。
$${\scriptsize{\textsf{\text{*2 この論文では堀(2015)を参照して「『出会い損ない』の看過」と表現されています}}}}$$
$${\scriptsize{\textsf{\text{ (松浦 2021: 77)。}}}}$$
「回収」の仕方のひとつは、「架空のキャラクターを性的・恋愛的対象とすること」を「普通」と見なすことです(松浦 2021: 77)。
フィクトセクシュアルを自認する人を「単に『普通』のことをあたかも特異なことであるかのように表明しているだけ」(松浦 2021: 77)と解釈することにより、差異がレリヴァントにならず、非類型化が存続しているといえます。
もうひとつは、恋愛という解釈図式への回収です。
性愛規範や恋愛伴侶規範という、マジョリティにとって「当たり前」と見なされ理解されやすい枠組みによって「セクシュアリティとしてのフィクトセクシュアル」が解釈され、「『恋愛』や『パートナー』という語彙で説明可能な」フィクトセクシュアルが、その典型として想定されるようになります(松浦 2021: 77)。
このように異なるカテゴリーに回収されて周縁化されると、その当事者は「自身の属性にもとづく排除として語ることが難しくなる」(松浦 2023: 161)という問題を経験することになりえます。
③抹消の問題化
松浦がその分析で注目しているのは、抹消を被っている立場の人が、「対人性愛」という造語を用いてマジョリティを名指していることです(松浦 2021: 74)。
その説明によると、対人性愛とは「生身の他者に対して性的に惹かれるセクシュアリティであり、生身の他者に対する性的な要求を伴うもの」です(松浦 2021: 74)。
私たちが日常的にふれる様々なコンテンツや話題、たとえばテレビドラマやポップスの歌詞などの創作物も、街中で聞こえてくる会話も、「生身の他者に対して性的に惹かれるセクシュアリティ」が自明視されているのではないでしょうか。
自明視されていたためにあえて言語化されていなかったマジョリティを有徴化し、再発見を促すための問題提起が、「対人性愛」という造語によってなされています。
これは第1節の最後に述べた、抹消を問題化する実践のひとつだと言えます。
3. 結び
第1節で引用した箇所を繰り返すと、抹消という概念によって松浦が指摘した問題のひとつは、「特定の図式(たとえば異性愛/同性愛)以外の仕方で人々を分節化する可能性を予め締め出すことによって、その図式にもとづいたマジョリティ/マイノリティの二項対立図式の自明性を支え」(松浦 2021: 78)、その図式に基づく排除を維持してしまうのが抹消という現象だということです。
この指摘は、抹消がそれを被る一部の人々の問題ではなく、社会構造に関わるものとして捉えるべき問題であるということを含意しているでしょう。
抹消という周縁化は、類型化されていない状態、差異が「差異」として認識されていない状態で生じます。
ですから、抹消を被る人にとって「いわく言い難い問題経験」(松浦 2023: 169)であるのはもちろん、もし自分が抹消の状態を維持しているマジョリティであったとしても、それを自覚することは難しいはずです。
今回の文献紹介が、排除や抹消を内包している社会構造をどう自覚し、変えていくかを考えるための、何らかの足がかりになっていましたら幸いです。
D&Iを社会の「あたりまえ」に。
4. 書誌情報
$${\textsf{\underline{\text{今回紹介した文献:}}}}$$
松浦優、2023、「抹消の現象学的社会学――類型化されないことをともなう周縁化について」『社会学評論』第74巻第1号: p158-73。
$${\textsf{\underline{\text{本ページで引用・参照した文献:}}}}$$
秋風千惠、2013、『軽度障害の社会学――「異化&統合」をめざして』ハーベスト社。
堀真悟、2015、「クレイム申し立てとしての認識論と「出会い損ない」――カミングアウト/クローゼット論を手がかりとして」『Gender and Sexuality』第10号: p33-60。
松浦優、2021、「日常生活の自明性によるクレイム申し立ての「予めの排除/抹消」――「性的指向」概念に適合しないセクシュアリティの語られ方に注目して」『現代の社会病理』第36巻: p67-83。
Schutz, Alfred, 1962, $${\textsf{\textit{Collected Papers I: The Problem of Social Reality}}}$$, The Hague: Martinus Nijihoff.(渡部光・那須壽・西原和久訳、1983/85、『アルフレッド・シュッツ著作集第1巻 社会的現実の問題 [I]・[II]』マルジュ社)
Schutz, Alfred, 1964, $${\textsf{\textit{Collected Papers II: Studies in Social Theory}}}$$, The Hague: Martinus Nijihoff.(渡部光・那須壽・西原和久訳、1991、『アルフレッド・シュッツ著作集第3巻 社会理論の研究』マルジュ社)
武内今日子、2022、「未規定な性のカテゴリーによる自己定位――Xジェンダーをめぐる語りから」『社会学評論』第72巻第4号: p504-20。
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