非一般的読解試論 第十六回「あなたの視界を想像したい」
こんばんわ、デレラです。
非一般的読解試論の第十六回をお送りします。
非一般的読解試論は、いろんな文芸作品(映画・本・アニメなど)について感想文を書いたり、そもそも「感想」とは何だろうか、と考えるために始めた、わたしのライフワークです。
いろんな作品について感想文を書きたいですし、また、その時々の「感想とは何か」という考えを更新したりするために連載という体裁を取っています。
連載とは言え、各回は独立しておりますので、ぜひ目の止まったところから読んでいただければ幸甚でございます。
さて、今回は「世界を見るときの視点」について考えてみたいと思います。
世界を見る、だなんて大言壮語でしょうか?
なんてことはありません。単に、この目で外を見るときの、その視線です。
いろんなものを見て、いろんなことを感じる。
感想について考えることは、視界について考えることと、とても近いことだと思います。
あなたは、世界をどのように見ているでしょうか。
あなたの目には、世界はどのように映っているでしょうか。
同じものを見ても、わたしとあなたは、まったく違う感想を抱くこともあるでしょう。
もしそうなのだとしたら、わたしとあなたの「視界」が、そもそも違うのかも知れません。
不思議です。たとえば、目の前にバナナがあったとして、あなたが美味しそうだと感じているとき、わたしはしかめっ面をしている。(注:わたしはバナナが苦手)
こんな風に考えるのは変でしょうか?
わたしはいつも、ひとと視界が違うと感じます。
別にそれで寂しい思いをしているわけではありません。(笑)
むしろ、仕方がないと思っています。
自分が面白いと感じる作品が、他のひとには不評だったりすることってあるじゃないですか?
このように、「視界の違い」が露わになるたびに、わたしは、誰かの視界を見てみたいと思ってしまいます。
あなたの見る世界が見たい。
踊ってばかりの国というロックバンドの曲にそういう歌詞があります。
アナタになって 世界を見てみたいよ
今のボクは 人を妬んでばかり
ミソもクソも 一緒にするなよ
まじりっ気のない アナタとアナタに
ー踊ってばかりの国「世界が見たい」より
まじりっ気なしの「あなたの視界」をわたしは体験することができるのでしょうか?
きっとできないでしょう。どうしても「わたし」がまじってしまう。
わたしが消えた視界は、まじり気のないアナタの視界だけれど、それじゃあ、もはや「わたし」ではない。
難しいですね。
では、無理なのだとするなら、どこまでなら「あなたの視界」に近づくことができるでしょうか?
今回はこのことについて考えてみましょう。よろしくお願いします。
1.身体の視界
わたしとは違う視界。
わたしは、あなたの目で世界が見てみたい。
わたしとは違う、あなたの視界。
わたしはいま、あなたの視界に近づくための方法について考えています。
そこで、ある漫画を参考にしてみましょう。
あなたは、『ガンバ!Fly high』という漫画をご存じでしょうか?
1994年から2000年まで、少年サンデーコミックスで連載されていた、体操漫画です。(from Wikipedia)
主人公の藤巻駿が、体操部に入部し、努力を重ねて、様々な体操の技を体得し、オリンピックにまで昇り詰める、スポコン漫画です。
わたしは、中学生の時にこの漫画に出逢いました。
出逢った当時、すでに漫画は完結していて、友人のお兄さん?が持っていたのを、同級生の間で回し読みしておりました。
体育の授業が体操のときには、みんなでとんぼ返りやバク転などを練習したものです。(わたしはバク転は体得できませんでした笑)
さて、この体操漫画では、「視界」について面白い表現が出てきます。
体操漫画なので、様々な体操の技が繰り出されます。
体操の技ってご存じですか?
あなたも一度は鉄棒やマット競技の映像を見たことあるのではないでしょうか?
もしなければ動画サイトで見てみて下さい。面白いですよ。
体操の技は、身体を縦に回しながら、さらに身体を捻って横回転する、とにかくすごい動きなのです。
もう、ぐるぐる回るわけです。
この漫画の面白い表現というのは、体操選手がぐるぐる回るときに見える「視界」を、主人公の藤巻駿は見ることができる、ということです。
どういう仕組みなのかは分かりません。(笑)
ただ主人公は他人の視界が見えるのです。(うらやましい)
そして、主人公は、別の選手が見た「視界」を手がかりに、同じ技を体得します。
主人公が演技するとき、別の選手が見た「視界」を真似するように動くことで、主人公は同じ技を成功することができる。
さて、これをどう考えたらよいでしょうか?
つまり、「身体が同じ動きをすれば、同じ視界が見れる」ということです。
言い換えれば、同じ視界が見たければ、同じ動きをする必要があるということ。
わたしが、あなたの視界を見るためには、わたしの身体が、あなたの身体と同じ動きをする必要があるのです。
端的に不可能でしょう。
同じ身長、同じ視点、というだけでは足らないように感じます。
わたしが、あなたの身体にならない限り、同じ視界は見れない。
なぜか?
あなたの身体は、あなたの人生と切っても切り離せないはずです。
あなたの身体は、あなたが歩んだ人生と並走している。
うーむ。。。
わたしは、あなたの目で世界が見てみたいと思った。
でも、それはやはり難しいようです。
あなたと同じ目、同じ身体で世界を見なければ、同じ視界は得られない。
そして、あなたと同じ人生を歩まなければ、同じ身体にならない。
そうでないと、同じ動きはできない。
したがって、わたしは、わたしの身体である限り、あなたの視界は見られない。
つらいです。
でも、これは重要なことでしょう。
わたしたちは、自分の身体を持つ限り、身勝手に、誰かの視界を理解することはできないのです。
誰かの視界を否定することはできない。
あなたは間違っている、だなんて、気軽に言えない。
あなたは正しい、だなんて、気軽に言えない。
身体の違い、歩んだ人生の違いを、簡単に乗り越えることはできない。
だから、あなたが感じること、あなたの視界を、わたしは決して否定したくない。
そう思うのです。
2.身体を超えた視点
前章では、ひとの視界は、身体から切り離せない、ということを考えてみました。
でも、本当に切り離せないのだろうか?
身体から解放された視点はないのだろうか?
そう考えてしまいます。
そこで、あるロック歌手の歌詞を引用しましょう。
あなたは、デヴィッド・ボウイをご存じですか?
デヴィッド・ボウイについて説明することは大変困難です。
彼は、変化を続けるカルトスターです。
常に新しい世界観を、新しい表現を求めて変化をし続けました。
さまざまな表現を追求した結果、さまざまなアーティストに影響を与えた、ロック歌手。
それが、デヴィッド・ボウイです。
わたしは、彼の曲が大好き。彼の曲には何度も救われました。
彼が他界した2016年1月10日、わたしは丁度、繁忙期で日曜に休日出社していました。
訃報の知らせを聞いて、わたしは帰りの電車で人目の気にせず号泣したのを覚えています。
彼の曲に「Starman」という曲があります。
名盤『ZIGGY STARDUST』に収録されています。
わたしが最も好きなアルバムの一つです。
この曲から、少し長いですが引用します。
スターマン 彼が宇宙で待っている
僕たちに会いたがっている
けれど彼は僕らの心を狂わせまいと思っている
スターマン 彼が宇宙で待っている
彼は僕らの心を吹き飛ばすまいと言ったんだ
心がとっても大切なものだと知っていたからさ
彼は言った
子どもたちの心を熱狂させよう
子どもたちの心を使わせよう
子どもたちにブギーを踊らせよう
ーデヴィッド・ボウイ「Starman」より
(北沢杏里さんの対訳を筆者が一部変更しました)
スターマンとは、ロックンロールの化身と考えてください。
スターマンは、スーパーヒーローなのです。
さて、子どもたちを踊らせてしまう、このスーパーヒーローの視界は、どのようなものでしょうか?
この視点は、身体の限界を突破した、「超越的な視点」だと思います。
個々の身体は物理法則、新陳代謝、寿命があります。
そんな物理的な条件を「超越」した視点。
そういう視点があるのではないか。
遙か上空から、わたしたちを見降ろすような視点です。
世界を丸ごと見つめる視点。
わたしと、あなたの違いを悠に超えてしまう視点です。
この視点は、身体を超越しています。
なぜ、デヴィッド・ボウイはこの視点を描き出せたのでしょうか?
わたしは、新しい世界観を追求し続けることで到達した視界なのだと思います。
それは、身体を超越した、想像力の世界。
新しい世界観を追求する想像力が成しえる視界。
わたしの身体は経験したことはないけれど、誰かの身体は経験しているかもしれない。
そういう想像力の極点にして極地。
わたしは、あなたの視界は見れないけれど、それを超越した、誰かのものでありえた視界。
その視界を想像できたときに初めて、わたしたちは、誰かに共感することができるのかも知れません。
3.おわりに
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
誰かの視界が見てみたいだなんて、気軽に言うことはできません。
誰かの視界は、そのひとの人生と等価です。
簡単に理解したり、否定したいすることができない。
わたしにできることは、「そういう視界があるかも知れない」と想像することだけ。
それはあくまで「想像」であり、完全な理解ではない。
その超越的な前提に立って、初めて、誰かの視界に共感する可能性が開かれるのかもしれません。
あなたのnoteを読ませていただく度に思います。
きっとあなたの視界は素敵だと。
わたしとあなたは身体が違うから、わたしはあなたの視界を見ることはできない。
でも、その視界に触れたい。だからわたしは、それを想像するのです。
あなたの視界が見てみたい、あなたの視界を想像してみたい、と。
わたしには、それしかできないから。
おわり