非一般的読解試論 第十四回「言葉にできない」
こんにちは、デレラです。
非一般的読解試論の第十四回をお送りします。
非一般的読解試論は、文芸作品について感想文を書いたり、「そもそも感想とは何か」ということについて考える、わたしのワイフワークです。
いろんな作品について感想文を書きたいですし、また、その時々の「感想とは何か」という考えを更新したりするために連載という体裁を取っています。
連載とは言え、各回は独立しておりますので、ぜひ目の止まったところから読んでいただければ幸甚でございます。
さて、今回は「感想とは何か」について考えたいと思います。
感想。つまり、何かを見て、感じた思い。
その思いを言語化すれば、それは感想文です。
何かを見て、聞いて、感じることは、もちろん、あなたも経験があるでしょう。
空を見て綺麗だなあ。今日はあったかくて気持ちがいいなあ。
ゴミが道端に捨てられているのを見て、気分が悪いなあ。
この映画、とても感動した。この音楽、とても心地いい、踊りだしちゃう。
しかしながら、言語化、となると急に難しくなります。
小田和正さんの詩に「うれしくて うれしくて 言葉にできない」というものがありますが、全くその通りです。
この映画を見た感動を言葉にできない。
あの空の美しさを言葉にできない。
わたしは、気持ちよさを体感している。
その気持ちよさを、わたしは言葉にしたい。
でも、その気持ちよさを言葉に変換して表現しようとしても、何か零れ落ちてしまう。
あなたは、そう感じることってありませんか?
わたしは気持ちよさによって、強く突き動かされます。この感想を言葉にしたい、と。
今回は、この「言葉にできない、けど言葉にしたい」ということについて考えてみたいと思います。
では早速始めましょう。
1.生活空間について
言葉にしたいけど、なかなか言葉にするのは難しい。
では、逆に簡単に言葉にできることってあるでしょうか?
たとえば?
「ティッシュペーパー取ってください」
「切符を改札機に入れてください」
「こちらの商品は100円です」
「この依頼の納期は来週の月曜までです」
「今日はハンバーグを食べよう」
このように、簡単に言葉にできることもある。
当然でしょうか?(笑)
「鼻をかみたいからティッシュが欲しい」という気持ちは、「ティッシュペーパー取って」という一文で十分に表現されているように感じます。(わたし花粉症なんすよね、花粉症の皆様に幸多からんことを)
言語化が容易にできること。その事柄が満たされた空間。
これを「言語空間」とでも呼んでみましょう。
では、この空間は、どの辺までひろがっているでしょうか?
朝起きてから、仕事に行って、仕事して、帰りにスーパーによって、家についてご飯作って、風呂入って、寝る。
うーん、、、どうやら、この日常のルーチンは、ほとんど全てが「言語空間」と言って良さそうですね。
じゃないと、生活に支障をきたします。
職場への行き方が言語化できず分からない、仕事が分からない、誰かにやってほしい依頼事項が言語化できない、となると、本当に困ります。
少し話がそれますが、わたしは目も見えるし、耳も聞こえるので、日常では不便ないですが、日常の言語空間について考えてみると、目が見えなかったり、耳が聞こえない、ということはとても大変なことだと実感します。
さて、わたしの日常の空間、これを「生活空間」と呼びましょう。
生活空間は、高度に言語化された空間です。何度も何度も、一年で365日繰り返し、分からないことが少なくなっていく。
つまり、「生活空間」は、およそ「言語空間」であると思われます。
2.生活空間の外側
では、生活空間の外側はどこにあるのでしょうか?
行ったことのない旅先。
これは確かに日常の外側のように思われます。旅先は「非日常」でしょう。
バスの乗り場はどこだ?宿までの距離は?どこにコンビニあるだろう?
いつもは、分かり切っていることが、分からない。
でも、それも束の間、スマートフォン大先生に従えば、すぐに「言語空間」に様変わり。
マップを開けばすぐに解決です。
言葉の違う海外旅行ですらマップによって、「非日常」は「言語」によって侵食されていきます。
この旅先の例で分かるように、日常に翻訳できるような事柄は、全て「言語空間」に飲み込まれてしまうことでしょう。
では、外側はどこに?
言語化できない非生活空間はどこにあるのか?
それは、意外と近くにあるでしょう。
そもそも、旅先とか、生活圏は関係ないのかもしれません。
わたしの住んでいる部屋のベランダに出て、空を見上げてみる。
青空に浮かぶ雲。
空気は適度に乾燥し、少し肌寒い。
陽の射す角度は、丁度わたしの目を痛めない程度。
近所に住む野良猫の鳴き声。公園の喧騒。
ベランダの柵に手を置いた。少し冷たい。
どうでしょうか。わたしは、いま、ベランダに出て空を見上げたときの気持ちを言語で表現しようと試みました。
でも、どこか足りない。あの気持ちよさに突き動かされて、わたしは85文字を使いましたが、やはり足りない。
このように、非言語的な非生活空間は、すぐここにあります。
つまり、わたしは、こう考えます。
この空間は、言語化可能なものと、言語化不可能なものが併存している。
3.詩とか、音楽とか
言葉にしたいけど、言葉にできない。非言語的な非生活空間はどこにでもある。
だって、言語化可能なものと、言語化不可能なものは併存しているから。
そんなの当然じゃないか、何を偉そうに!と思うでしょうか。すいません。
さて、わたしは、感想について考えているのでした。
この詩はとても感動する。この音楽はとても心地いい。
感じた思いを言葉にできない。それが出発点でした。
なぜ言葉にできないのでしょうか?
なぜなら、そもそも、詩や、音楽や、様々な表現物は、「言葉にできないこと」を表現しているからかもしれません。
詩や音楽は「言葉にできないこと」を表現している。どういうことか。
冒頭で取り上げた小田和正さんの「うれしくて うれしくて 言葉にできない」という詩は、まさに「言葉にできないうれしさ」を何とか言語化しようとした試みと考えられます。
「表現できないうれしさ」を、「うれしくて うれしくて 言葉にできない」という形で表現しようとする。
「うれしくて うれしくて 言葉にできない」という言葉は、この言葉自体が「言語化不可能性」を表現している。
言語化不可能性を表現することで、かえって、言語化不可能な「うれしさ」を表現する。
詩は、そういう力があるでしょう。
他の例もあげてみましょう。
BUMP OF CHICKENというバンドをご存じでしょうか?
彼らの曲に「Ever lasting lie」という曲があります。
この曲の詩は、物語になっています。
主人公が長い時間、砂を折れたシャベルで掘り続ける。
そして、この曲には、砂をシャベルで掘り続けるという「言葉にできないほどの徒労感と、悲しみと、長い時間」を表現するために、「長い間奏」が用意されています。
曲自体が8分半。そして間奏は約2分間続きます。
日本のロックバンドの曲としては、曲自体も長く、そして間奏自体も長いと言えるでしょう。
さて、これをどう考えるか。
確かに、この曲を聞くと、間奏が長いなと感じます。
しかし、その長さはせいぜい2分間です。
この曲では、「言葉にできないほどの徒労感と、悲しみと、長い時間」を表現しようとしているのでした。
そして、実際に聞いてみると長く感じる。でも、実態は2分間です。
2分間って普通の感覚では短くないですか?決して言葉にできないほどの長い時間ではありませんよね。
これは、批判をしているのではありません。
むしろ、たった2分間なのに、「言葉にできないほどの徒労感と、悲しみと、長い時間」をうまく表現いる、とわたしは思います。
上記リンクの公式YouTubeで聞いてみてください。きっとあなたもそう思うでしょう。
さて、この曲は、言葉にできないほどの長い時間を、「2分間」という短い時間で表現している。
日本のロックミュージックは3分から5分程度です。
そもそも、ロックミュージックは、あるいは音楽は、「言葉にできないほどの長い時間」を演奏するような表現物ではありません。演奏時間にも限りがあります。
ここに、小田和正さんの詩と似た構造があります。
言葉にできないうれしさを、「言葉」で表現する。
とてつもなく長い時間を、「演奏時間に限りがある音楽」で表現する。
このように、非言語的なものを、その不可能性で表現する。
詩や音楽に限らず、表現物は、この不可能性が基礎にあるのではないか。
詩や音楽は、言葉にできない何かを表現している。
だからこそ、わたしは、これらに触れたときに感じた思いを、感想として言語化しようとしても、なかなか上手くできないのかもしれません。
(自分の言語化能力の低さを作品のせいにしたわけじゃないよ!!笑)
4.おわりに
さて、いかがだったでしょうか?
今回は、感想が書けない!という思いを、「感想が書けない」というエッセイにして表現してみました(笑)。
しかしながら、この「感想が書きたいけど書けない」という現象を、もっと深く考えることはできないだろうか。
「感想空間」とでも名付けて、それについて考えてみるのも面白いかもしれません。
それは、次回以降の課題として。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
では、また次回。