デレラの読書録:檜垣立哉『日本近代思想論』
このたった28文字の文章に、日本近代思想のエッセンスが凝縮されている。この複雑さを(無限を)文章として今ここに顕現させること。
顕現が「言語」によってなされていること。
ようは、日本近代思想は、何かを言葉で掴み取る営みだった。
「何か」というのは、つまり「無限」である。
日本近代はやはり西洋との関係のなかにある。
西洋という地域で育った「科学的思考」は、無限を理論化しようとしていた。
ようは、無限を「数式化」する営みとして数学があった。(カントールなど)
それを受け取った下村寅太郎から本書は始まる。
さらに、現象学やベルクソンの哲学をすでに受け取っていた日本の哲学は、無限の理論や、新カント派的な微分の理論を経由することで、西洋哲学と共振する。
ドゥルーズと西田幾多郎あるいは九鬼周造の理論が接近する。
水平展開される世界哲学である。
しかし世界哲学が水平に展開する一方で、日本の近代思想は垂直性を追究していた。
ハイデガー的な未来への不安でも、ベルクソン的な過去へのノスタルジーでもなく、現在の深さを見つめていた。
未来や過去の彼方にではなく、多性を、他性を、無限性を現在に垂直に掘り下げること。
現在における身体という物理的な点でありながら、かつ同時に、生ける現在としての意識性でもある。
あるいは、瞬間的な出来事と永遠的な出来事の二重体を日本近代は発見したと言える。
この二重性は自然論に繋がる。
自然を対象としながら、自らもその自然の存在者であること。
自然の自己現出の過程。
この視座でテクノロジーを捉え返してみれば、日本の近代思想はフーコーの生政治や統治の議論に驚くほど符合する。
ようは、テクノロジーは現在において「出来事」を引き起こすためのひとつの賭けなのだ。
吉本隆明は、その賭けから降りなかった。そしてわれわれは細々と賭けを続けなければならないのだ。