非一般的読解試論 第十九回「現実と言葉のあいだで」
こんにちは、デレラです。
非一般的読解試論の第十九回をお送りします。
今回も、ものごとに対して、ひとが抱く「感想」について考えていきます。
わたしは、過去に、第十四回「言葉にできない」や、第十五回「感想空間で踊ろう」で、現実の出来事や、感情は、言葉で言い尽くせないのだ、ということを書いてきました。
たとえば、小田和正さんの詩にもあるように、「うれしくて うれしくて 言葉にできない」ということ。
わたしは、感情を言葉にできない、青空の美しさを言葉にできない、世界を言葉にし尽くせない。
そして、言葉にできないことを、あえて、言葉にして表現しようするときに、ひとは感想文を書くのだ、と。
つまり、感想文とは、言葉にできないことを、あえて言葉にしようとする営みである、と結論付けてきたのでした。
さて、この結論は、次のようなに図式化できるでしょう。
【現実】
↑
感想空間
↓
【わたし】
「わたし」は、「現実」の出来事を言葉にし尽くせない。
だから、「現実」と「わたし」は対立している。
そして、そのあいだには、「感想空間」が広がっている、ということ。
でも、この関係性、「現実とわたしの対立」では、まだ考えが足らないんじゃないか。
この関係性では、「感想」ということを、うまく捉えられていないのではないか。
そう思いはじめました。
わたしの疑心暗鬼は進み、終には、そもそも、「現実」と「わたし」は対立していない、のではないか。
さらには、「現実」は「わたし」ではない「別のもの」と対立しているのではないか、と思うようになりました。
端的に、この図式には、「足らない視点」があるのではないか、と。
だから、今回は、「現実」と「わたし」が対立する図式を見直し、それとは別の新しい図式、について考えてみたいと思います。
以前の図式とは違う、別の図式。
「感想」を抱くことについて、理解を深めるための新しい図式です。
では、さっそくはじめましょう。
よろしくお願いします。
1.現実は、言葉より、奇なり
まずは、この図式の「足らない視点」について考えましょう。
【現実】
↑
感想空間
↓
【わたし】
「現実は、小説より、奇なり」という箴言があります。
現実では、小説の世界には無いような、不思議な出来事が起こりうる、という意味です。
小説は、たしかに不思議な世界かもしないが、現実の方がもっともっと不思議な世界だ、ということ。
たしかに、そういうことがあるかもしれません。
たとえば、物語はハッピーエンドになるけれど、現実はハッピーエンドにならない、だとか。
わたしは、この箴言を、すこし言い換えたいと思います、次のように。
「現実は、言葉より、奇なり」
「小説」を「言葉」に置き換えました。
ここで言う「言葉」は、とても広い意味で考えたい、と思います。
それこそ、記号や絵、写真、小説、詩、音楽、表現されたありとあらゆるもの。
表現されたもの、つまり創作物です。
表現された創作物 = 言葉
もう少し説明を追加しましょう。
創作物とは、「何か」を表現したものです。
つまり、「何か」を、別のモノで表現すること。
あるあは、代理させること、それが創作するということです。
たとえば、美しい庭を、絵具をキャンバスに塗りつけて表現すること。
「美しい庭」を「キャンバスと絵具」という別のアイテムを使って表現すること。
このときに使う「別のアイテム」それを、まるっとまとめて、「言葉」という一言で考えましょう。
文芸作品、芸術作品とは、たとえば、現実に起きた出来事や、人物、感情などを、「別のアイテム=言葉」を使って表現することです。
さて、話を戻しましょう。
「現実は、言葉より、奇なり」
わたしたちは、何か現実の出来事を、言葉(=別のアイテム)を使って表現するわけですが、
「別のアイテム=言葉」は、十全に、完璧に、パーフェクトに「何か現実の出来事」を表現できているでしょうか。
たとえば、この空の写真。
この美しい空のグラデーション。
夕方、マジックアワーの少し手前。
スカイツリーの隣に、独りぼっちで浮かんでいる、雲の塊。
わたしは、どれだけ言葉を尽くしても、
この空を、パーフェクトに表現することができない。
言葉にできない「何か」がそこにはある。
このように「現実の空」を、わたしは「言葉=別のアイテム」で表現し尽くせない。
言葉が上滑りし、脱臼してしまう。
どこかズレてしまう。
【現実=空】
↑
ズレ
↓
【わたしの言葉=空の表現】
しかし、言葉では表現し尽くすことはできないのだけれど、
どうしてもズレてしまうのだけれど、
この美しさ、この感情を何とか表現したい。
そう思ったとき、「感想文」は書かれる。
つまり、この「ズレ」の場所にこそ、「感想空間」が広がっている。
【現実=空】
↑
感想空間=ズレ
↓
【わたしの言葉=空の表現】
これが、わたしが過去の「非一般的読解試論」で考えてきた「感想の図式」なのでした。
この図式では、現実とわたしが、対立しています。
【現実】
↑
感想空間
↓
【わたし】
「現実」と「わたし」が対立している、という関係性です。
さて、復習はここまで。
今回わたしたちは、この図式の「足らない視点」について、考えるのでした。
では、この図式に足らない視点とは何か。
それは、「現実は、言葉より、奇なり」とは逆の視点です。
そう、「言葉は、現実より、奇なり」ということ。
どういうことか。
章を変えて考えましょう。
2.言葉は、現実より、奇なり。
現実は、言葉より、奇なり。
言葉では、感情は表現し尽くせない。
言葉では、空の美しさは表現し尽せない。
言葉では、現実の出来事を表現し尽せない。
あなたも、そう感じることがあるのではないでしょうか。
たしかにそうだと思います。
わたしは、この視点を否定したいのではありません。
ただ、この視点とは、逆の視点を考えたいのです。
逆の視点。
つまり、「言葉は、現実より、奇なり」ということ。
わたしは、これまで、ずっと、言葉では現実は言い尽くせないなあ、とばかり考えていました。
でも、いろんな文芸作品を観たり読んだり聞いたりしているときに思ったんです。
逆のこともある、と。
それは、言葉でしか表現できないことがある、ということ。
現実には「存在しないもの」を言葉は表現できる、と。
そんなことあるかい!とお思いでしょう。
ここからは、現実より奇な「言葉」の例を列挙します。
まず最初の例は幻獣です、たとえば「ペガサス」。
頭に角を持ち、羽の生えた馬。
ペガサスは、言葉では表現できますが、現実には存在しない動物でしょう。
ホルヘ・ルイス・ボルヘスという、アルゼンチンの幻想小説家は、
『幻獣辞典』で、幻獣や、それにまつわる短い文章を120項目も紹介しています。
(ホルヘ・ルイス・ボルヘス『幻獣辞典』,河出文庫,2015年)
現実には存在しない生き物、わたしたちは、それを言葉で表現することができる。
こんど本屋さんで見かけたら見てみてください。面白いですよ。
さて、もっと身近なよく聞く例もあります。
たとえば、「丸い四角」や、尾田栄一郎氏の有名なマンガ『ワンピース』に登場する「ゴムゴムの実」なども、そうでしょう。
また、少し意外なもので言えば「半分」という概念。
言葉では、100を、50と50の半分にした、と表現できますが、
現実のモノを完全な「半分」にすることはできるでしょうか。
具体的には、ケーキを完璧に半分にすることは、じつは現実の世界では、ほぼ不可能です。
0.000000000000000000000000000000000001 の単位でズレていたら、当然、それは半分ではありません。(ゼノンのパラドックスみたいなものですね)
「半分」については、すこし突飛な例でしたね。
さて、つぎは、文芸作品の例を出しましょう。
村上春樹さんの『騎士団長殺し』の一節を引用します。
私の身体は心から冷たくなった。まるで拳くらいの大きさの氷の塊が、背筋をじりじりと這い上がってくるみたいに。雨田具彦が『騎士団長殺し』という絵の中に描いた「騎士団長」が、私の家の ーいや、正確に言えば雨田具彦の家だー 居間のソファに腰掛けて、まっすぐ私の顔を見ているのだ。その小さな男はあの絵の中とまったく同じ身なりをして、同じ顔をしていた。絵の中からそのまま抜け出してきたみたいに。
(村上春樹『騎士団長殺し 第1部 顕れるイデア編』,p.347,新潮社,2017年)
ここでは、『騎士団長殺し』という絵画に描かれる「騎士団長」が、絵画から飛び出し、居間のソファに座っているシーンが描かれています。
絵が絵画から飛び出てくる、こんなことは、現実に起こりえません。
これこそ、村上春樹さんによる、「言葉」の所業なのです。
言葉は、現実を越え出た「何か」を指し示すことができる。
この絵画から飛び出した「騎士団長」は、自分が「イデア」であると自称します。
あたしはただのイデアだ。
(村上春樹『騎士団長殺し 第1部 顕れるイデア編』,p.352,新潮社,2017年)
「イデア」とは、古代ギリシャの哲学者プラトンの概念で、
現実の世界ではなく、イデア界に存在するものです。
現実を超越するものであり、英単語「idea(アイデア・想像)」の語源でもあります。
村上春樹さんは、『騎士団長殺し』という作品で、まさに、言葉を使って、現実を超越した「騎士団長=イデア」を描いて見せたのです。
こうして、わたしは、気がつきます。
「現実」は、「わたし」とではなく、「言葉」と対立しているのではないだろうか、と。
「現実」は「言葉」で言い尽くせない、と同時に、「言葉」は「現実」には存在しないものを指し示す。
【現実】
↑
↓
【言葉】
「現実」と「言葉」が対立している。
さて、ここで気になることがあります。
この関係性において、「わたし」はどこにいるのでしょうか。
3.わたしの場所、感想空間はどこにあるのか
どうやら、わたしたちは、新しい図式を手に入れました。
それは、「現実」と「わたし」が対立する図式ではなく、
「現実」と「言葉」が対立する図式です。
いままでの図式
【現実】
↑
ズレ(感想空間)
↓
【わたし】
新しい図式
【現実】
↑
↓
【言葉】
この新しい図式において、「わたし」はどこに位置するのでしょうか。
まず第一に、「わたし」は、「現実」の世界に生きているでしょう。
わたしは、ペガサスもいないし、丸い四角もないし、ゴム人間もいない、騎士団長もいない、「現実」の世界に生きている。
ということは、「わたし」は「現実」の側にいるのでしょうか。
【現実(わたし)】
↑
↓
【言葉】
一方で、「わたし」は、ペガサスや、丸い四角、ゴム人間、騎士団長、という「言葉」を使うことができる。
ときに「わたし」は、「言葉」の想像力で、「現実」の世界を越え出る「何か」を指し示すことができる。
では、やっぱり「わたし」は、「言葉」の側にいるのでしょうか。
【現実】
↑
↓
【言葉(わたし)】
うーむ。
わたしは、どちらも違う、と同時に、どちらも正しいと思います。
つまり、「わたし」は、「現実」の世界に生きながら、同時に、「言葉」を使うこともできる。
ということは、「わたし」は、「現実」と「言葉」のあいだにいて、両端を行ったり来たりしているのではないでしょうか。
【現実】
↑
わたし
↓
【言葉】
「わたし」は、「現実」と「言葉」のあいだを動いている、「現実」と「言葉」のズレとして。
そう、つまり、いままでの図式における、「ズレ」つまり感想空間とは、「わたし」のことだったのです。
第一の図式
【現実】
↑
ズレ(感想空間)
↓
【わたし】
だから、この第一の図式と、新しい図式を組み合わせましょう。
新しい図式
【現実】
↑
わたし(ズレ=感想空間)
↓
【言葉】
「わたし」とは、「現実」と「言葉」のズレであり、感想空間とは、そのズレを表現しようとする「わたし」のことである。
つまり、「わたし」というのは、すなわち「感想空間」である。
わたし = 感想空間
4.さいごに
今回、わたしたちは、次のような図式にたどり着きました。
【現実】
↑
わたし(ズレ=感想空間)
↓
【言葉】
つまり、「わたし」とは、「感想空間」である、と。
あらゆる、文芸作品、あらゆる、芸術作品、
自然、青空、海、風、匂い、
日の光、味、肌の温度、
映画、絵画、小説、詩、
音楽、声、音。
ペガサス、イデア、丸い四角。
地球外生命体、地底人、人魚。
現実の世界と、言葉の世界。
これらが交わり、ズレが生じたとき、
そこには「わたし」がいて、「感想空間」が開かれる。
その感想空間に浮かんできた「何か」を、また言葉に変換する。
そうして、わたしは「感想文」を書くのです。
さて、今回は、ここまで。
読んでくれて、本当にありがとうございます。
かなり、抽象的な話になってしまいましたが、わたしとしては、非一般的読解試論で考えている「感想とは何か」という問いに対して、一歩先に、進むことができたのではないだろうか、と感じています。
あなたが思うことがあれば、コメントいただけると嬉しいです。
では、また次回。