非一般的読解試論 第十七回「ワンダーとポエジー」
こんばんは、デレラです。
非一般的読解試論の第十七回をお送りします。
非一般的読解試論は、いろんな文芸作品(映画・本・アニメなど)について感想文を書いたり、そもそも「感想」とは何だろうか、と考えるために始めた、わたしのライフワークです。
いろんな作品について感想文を書きたいですし、また、その時々の「感想とは何か」という考えを更新したりするために連載という体裁を取っています。
連載とは言え、各回は独立しておりますので、ぜひ目の止まったところから読んでいただければ幸甚でございます。
今回は、感想文ならぬ、わたしの反省文です。
反省とは、自分の行動を顧みて、内容を吟味し、良し悪しを考えることです。
そこで今回は、自己反省的に、わたしの書いてきた文章について考えてみたいと思います。
反省とは言え、単に自虐的な文章を書きたいのではありません。
自分の文章の可能性について考えてみたい、と思います。
さて、わたしの感想は、身勝手な飛躍があります。
そのことは自覚して書いているつもりです。
飛躍とは何か。
それは、特に根拠を示さずに、連想で何かと何かを結び付けて考えること。
「根拠を示す」という態度を飛ばしているから、飛躍。
簡単に過去の非一般的読解試論を振り返ってみましょう。
わたしは第十二回と十三回で、「村上春樹」と「東京ディズニーランドのアトラクション」と「モネの絵画」を並列に語りました。
作家とアトラクションと画家、時代もジャンルも国も、てんでバラバラ。
これらを根拠なしに繋ぐのには無理があります。
第十四回では、「小田和正」と「BUMP OF CHICKEN」を並列に語りました。
同じ日本の歌手とは言え、わたしはそれ以上の繋がりを、わたしは知りません。
第十五回では、「まんがRenta!のCM」と「千と千尋の神隠し」と「ジョーカー」です。
ごった煮もいいところ。
第十六回は、漫画の「ガンバ!Fly high」とロックバンド「踊ってばかりの国」とロック歌手の「デヴィッド・ボウイ」です。
もう、、、なんと言ったら。。。
おかしな話。わたしの感想文は、まるでパッチワークのよう。
ちょっと引っ張れば千切れるような、個人的で、非一般的な、か細い糸で繋がれたパッチワーク。
あまりに身勝手で雑な繋ぎ目に、本来のファンの方が見たら怒ってしまうかもしれない。
そう、ファンが怒るかもしれない。
そう思います。
ファン、とはどういう存在でしょうか。
ファンとは、特定の作品や、作品の制作者を愛好するひと。
特に、自分の解釈より、作品自体を尊重し、作者の意図を尊重するひとたちのことです。
ファンにはファンの矜持というものがあり、身勝手な解釈は好まれません。
また、長く愛される作品だと、「正しいとされる解釈」がある。
例えばガンダムのような作品は、すごく長く愛されているがゆえに、「正しい歴史」や「正しい知識」があるようで、身勝手な解釈は忌避されるでしょう。
正しい解釈、と言うと、何か「堅物的で、抑圧的なイメージ」を持たれるかも知れません。
でも、それは一面的なイメージです。
作品に対して、ファンの間で「正しい解釈」が共通認識として生成する、ということは、
たくさんのファンが、作品自体を尊重し、尊敬し、愛してきた、という実績があるということです。
たくさんのファンが、長い時間を掛けて醸成した「ファンの共通認識」がある。
この「共通認識」は、ある一面では参入障壁ともなりえますが、やはり、簡単に一朝一夜で作られるものではない、かけがえのない価値です。
こう考えてみると、個人が作品を見るとき、「ファン」という層が間にあるように感じます。
個人が単に作品を楽しむ。だけではなくて、その間に「ファン」がある。
ファンとは、作品を尊重し、作者の意図を尊重する、中間的な存在、規範にして、ルール。
『個人→ファン→作品』という風に、ファンという層は、個人と作品の中間に位置していて、
その中間層を通じて、個人は作品に接し、楽しむことができる。
だから、わたしのように、気軽に、ある作品とある作品を、勝手に結び付けたり、自分の興味関心に近づけて、作品について語ることは、「ファンという中間層」を無視する行為なのです。
つまり、ルールを無視することで、わたしは、ファンに怒られるのです。
うーん。抽象的な図式ですね。例を出しましょう。
例えば、アイドルのファンを想定してみましょう。
アイドルのファンは、アイドルのステージパフォーマンスの際に、一斉に「掛け声」を叫んで、推しのアイドルを応援します。
このとき、まさに「掛け声」は、上記で言うところの「ファン=中間層」と言えるでしょう。
この掛け声を通じて、「ファン」の人びとは、アイドルを応援し、ファン活動を楽しむことができるのです。
さらに、別に掛け声を掛けなくても、後ろの方で、推しのアイドルの一挙手一投足を見守るファンだっているでしょう。
掛け声は知ってるけど、あえて掛け声をかけないひと。
このひとを、ファンではない、ということは出来いでしょう。
つまり、ファンの層は二つある。
A 「掛け声」という共通の形式を通してアイドルを推す。
B それとは別の形でアイドルを推す。
Bさんについてもう少し考えましょう。
たしかに、Bさんは、「掛け声」には、直接的には参加しない。
Bさんは、アイドルのライブに行っても、掛け声には参加せず、後ろの方でじっと推しを見守っている。
Bさんは、推しのブログを読み、インタビュー記事を読み、握手会に行き、グッズを集めている。
掛け声を掛けないという点で、Aさんたちとは、一線を置いて、Bさんは個人的にアイドルのファンであると言えます。
だからと言って、Bさんは、Aさんたちのルールを批判したり、喧嘩を売ることはしない。
ましてや、掛け声をやめさせようとするわけでもない。
ということは、掛け声を否定しない、という形で、掛け声に参加している。
つまり、やはりBさんもまた、ファンの層に間接的に参加している、と言えそうです。
また、何より、アイドルを尊重し、尊敬しているという点では、AさんたちとBさんは共通していると言えると思います。
さて、一旦、まとめましょう。
わたしは、わたしの書く文章について、反省文を書いているのでした。
わたしは、非一般的読解試論において、飛躍した文章を書いている。
作品と作品の繋がりについて、根拠を示さずに、並列に語っている。
その振舞いは、たぶん、ファンに怒られる。
そしてファンは二層に分かれます。
A ルールに直接的に従って、作品に接している。そのルールは、自分勝手な解釈ではなく、作品自体や作者の意図を尊重するためのもの。ファンというコミュニティがある。
B ルールに間接的に従って、あくまで作品自体や作者の意図を尊重し、自分の勝手な解釈をしない。個人としてのファンである。
わたしの非一般的読解試論における振舞いは、Aさんたちとも、Bさんとも違う。
では、何が違うのか?
それは、わたしは、わたしの興味関心に基づいて、作品を扱っている、ということです。
作品が第一にあるのではなく、わたしの興味関心が第一にあります。
とは言え、わたしは作品を尊重していないわけではありません。
あくまで、わたしの感想は、「非一般的」である、という自覚があります。
そう宣言することで、尊重の意を示しています。
「ファン」という中間層を通してもいないし、作者の意図や作品自体を無視しているところがあるけれど、わたしの感想は、勝手で個人的なこじつけである、と自覚している。
だからこそ、「非一般的」というタイトルを掲げているわけです。
わたしの感想は、ファンには通じない、あくまで非一般的なものである。
では、わたしは、なぜ、そんなことをしているのでしょう?
いったい何が、「ファン」という中間層を無視させるのでしょうか?
わたしは、これを「ワンダー」と「ポエジー」という言葉で表現したいと思います。
「ワンダー」とは驚きです。
「ポエジー」とは詩情です。
何を見たとき、聞いたとき、出逢ったとき、体験したときに感じる「驚き」と「詩情」。
これは個人的な体験です。
まさに非一般的な体験と言うやつ。
でもあまりに個人的過ぎて、「ファン」という中間層からは、それは正しくない、デレラの欲望を押し付けているだけだ、と言われるでしょう。
ある意味では、その通りなのです。
わたしは、わたしの興味関心を中心において、いろんな作品を享受しております。
モネの絵画を例にしましょう。
はじめて生でモネの絵画を見たときに感じた「ワンダー=驚き」と「ポエジー=詩情」。
わたしは世界を認識してみたい。
でも、わたしは視神経、あるいは網膜から向こうの出来事を、直接的に認識することはできない。
そう感じているわたしが、モネの絵をはじめて見たとき、
モネは、わたしが「直接的に認識できない世界」をそのままキャンバスに写し取ろうとしているのではないか、と驚いてしまった。
自分の関心をモネが実現しているかもしれない!という驚き、それが「ワンダー」です。
そして、わたしが世界に感じていること。
どこまでも美しく、でもどこまでも近づけないと感じるこの感情。
例えば、わたしが公園の池を観に行ったときに感じる、その感情。
池の中心に浮かぶ花、孤独さと静謐さ。
青空を望む花が、誰の目も気にせず生きているのではないか?
モネの睡蓮もまた、同じ詩情によって描かれたのではないか?という「ポエジー」。
わたしがある日に公園の池で感じたワンダーとポエジー。
わたしの個人的な記憶。
個人的なワンダーとポエジーの記憶を、モネの絵画に看取ってしまう。
わたしが、世界に対して、日頃から感じる「ワンダー」と「ポエジー」を、モネの絵画に看取ってしまうのです。
モネともなれば、あまりに有名な画家なので、学会などで「モネについての研究」が成されているでしょう。
そんな研究を、わたしは無視しています。
また、ファンの中では、モネについて語るなら、あの絵とあの絵とあの絵は当然見たうえで、伝記を読んでなければ語ることはできない、というルールがあるかもしれません。
つまり、わたしは、モネの「ファン」や「研究」という中間層を無視しているのです。
なぜなら、わたしは自分の感じた「ワンダー」と「ポエジー」を第一にしてしまっているから。
わたしは、「ワンダー」と「ポエジー」を言葉にしたいのです。
わたしのパッチワークをつなぐ、か細い糸は、「ワンダー」と「ポエジー」によって、その張力を保っている。
わたしは、常に細い糸を探している。
わたしの感じる「ワンダー」と「ポエジー」に触れるような糸。
ファンに笑われても、可笑しいと言われても仕方がない。
わたしの「ワンダー」と「ポエジー」を言葉としてアウトプットしたい。
パッチワーク的な飛躍だけが、それを可能にしてくれる。
こうして、わたしは、非一般的読解試論を書いています。
ああ、なんだか、ただの自分語りになってしまった。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。
今回は、ここまでにします。
よければ、あなたのご意見を聞かせてください。
ではまた次回。ごきげんよう。
おわり
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