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デレラの読書録:フィリップ・K・ディック『ヴァリス』
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フィリップ・K・ディック,新訳2014年(原作1981年),早川書房
まさに怪作である。
妄想、スピリチュアル、人格分裂。
グノーシス的なディック独自の神学が全体を覆い隠し、この小説が何を物語っているのか(そもそも小説なのか?)容易には理解できない。
久しぶりに読み返して感じたのは「渇望」である。
この小説(一旦これは小説であると措定する)が分かりにくいのは、まずは各所で挿入される「ディック独自の神学」だ。
その神学を一旦横に置けば、シンプルに、救済を求める主人公の物語である。
主人公はホースラヴァー・ファットという男だ。
しかし語りの主体は「ぼく」である。
この「ぼく」とは誰か。
まず序盤で、語りの主体である「ぼく」は、ホースラヴァー・ファットを俯瞰するもう一つの人格として設定される。
「ぼくはホースラヴァー・ファットだ。そしてぼくはこれを、必要不可欠な客観性を得るべく三人称で書いている」
しかし、中盤で「ぼく」が作家ディックであることが明らかになる。
「『フィリップ』はギリシャ語で『ホースラヴァー』、馬を愛する者という意味だ。『ファット』は『ディック』のドイツ語訳だ。」
ホースラヴァー・ファット=フィリップ・ディック(語りの主体「ぼく」)である。
つまりディックによる『ヴァリス』の執筆自体が物語のなかに織り込まれている。
ホースラヴァーという人格が、ディックから分裂した。
それがこの物語の軸である。
なぜなら、「なぜ分裂しなければならなかったのか」あるいは「分裂が回復するのか、あるいは分裂は安定するのか」という問いが、物語を駆動することになるからだ。
では、なぜ分裂したか。
それは友人の死を受け止められなかったからだ。
友人たちはなぜ死んでしまうのか、なぜ病死や自死してしまうのか、なぜ苦しみがあるのか。
ようは、「なぜ不条理は癒やされないのか」という文学的な問いである。
言い換えれば「神がいるのなら、神はなぜ助けないのだ」という神学的な問いだ。
こういう問いは、まず無神論に向かうだろう。
「救われないなら、つまり神はいないのだ」と。
しかしディックはホースラヴァーを生み出した。
つまり、無神論に向かわずに「独自の神学」を作り出したのだ!
その意味で、この物語は「不条理を癒す神」を探し求める「救済への渇望」の物語なのである。
ディックは物語のなかで、「ヴァリス」という神(?)に出会う。
ヴァリスとは「巨大活性諜報生命体システム」とされる。
この世界はヴァリスが映し出すホログラム(情報)に過ぎない。
しかもそのホログラムは壊れていて不条理が発生する。
なぜならそのホログラムは「非理性の神」によって壊れたまま造られたからだ。
理性の神が壊れた世界を修復しようとしている。
世界は自己治癒プロセスの最中だ。
理性と非理性の「双子の神」というディック作品特有のモチーフである。
そして「ヴァリス」はこれらのことをディックに伝えたのだ、ピンク色の光線によって。
非理性の神、理性の神、自己治癒プロセス。
時間と空間。
言い換えれば、ディックの救済への渇望は「非理性の神を治癒する理性の神」というロジックを作り出した。
物語のなかで、ディックはこの神学を「確信することができるかどうか」ずっと悩み続けている。
ディック自身も、おそらくこんな「ヤバい神学」は信じ切れていない。
しかし「あの神秘体験(ピンクの光!)」は何だったのか。
神秘体験と現実の不条理が結びつき、ディックの妄想がホースラヴァーを駆動する。
物語の結末でディック=ファットは、不条理から救済されたのか。
分裂は回復したのか。
信仰を確信できたのか。
ヴァリス三部作の起点にして最大の怪作である。