非一般的読解試論 第十二回「記号的、象徴的(前編)脱色とメロディ」
こんにちは、デレラです。
非一般的読解試論をお送りします。
何かを見たとき、読んだとき、聞いたとき、ひとは感想を抱きます。
感想は、ひとそれぞれ違う。では、なぜその感想を抱いたのか。
感想とは何か、について考えることからスタートした、非一般的読解試論。
現在は、もはや単なる感想文、あるいはエッセイとなっております。
前回は、神林長平さんの『戦闘妖精・雪風』というSF小説を足がかりに、心身二元論について書きました。
身体と心は、実は世界の捉え方が違う。
その違いについて、ダイヤモンドダストを例にして考えたのでした。
簡単に要約すると、心はダイヤモンドダストを「美しい」と捉えるけれど、身体はダイヤモンドを「生命維持の危機」として捉えているのではないか。
なぜなら、心と身体が、全く違うようにダイヤモンドダストを捉えているからです。
心がダイヤモンドダストのキラキラ光る様子を「美しい」と感じている。
一方で、身体は、ダイヤモンドダスト現象が起きているとき、極寒による体温低下や、湿度の低下に反応している。
身体は、気温・体温・湿度のように、世界を記号的に捉えている。
でも、心は、世界の記号を捨象して、「美しさ」というダイヤモンドダストの象徴的な側面を捉えている。
身体は、記号を。心は、象徴を。こんな対立構造があることが分かりました。
さて、この「記号」と「象徴」という対概念が面白いので、今回から二回に分けて、さらに深めて考えたいと思います。
前後編の二回!
前編の今回は、村上春樹さんの小説『スプートニクの恋人』の引用から始めます。
そして、具体例として、ディズニーランドのアトラクション「イッツ・ア・スモールワールド」ついて言及しようと思います。
では、早速スタート!!よろしくお願いします!
1.スプートニクの恋人
あなたは、「記号と象徴」という言葉を聞いて、何を思い浮かべますか?
記号と言えば、「<」や「!」、あるいは「%」、「@」のような文字列を思い浮かべるかもしれません。
では、象徴は?
平和の象徴といえば「ハト」、ドイツの国民車といえば「フォルクス・ワーゲン」、お金持ちといえば「豪邸」のように、「〇〇といえば△△」というときの「△△」が象徴と言えるかもしれませんね。
さて、日本で大人気の小説家といえば村上春樹さん、といっても過言ではないでしょう。
村上春樹さんの著作に『スプートニクの恋人』(1999年刊行)という小説があります。
その『スプートニクの恋人』の登場人物の会話で、まさに、「記号」と「象徴」の違いについて話すシーンがあります。
それを足がかりに、「記号と象徴」について考えていきましょう。
早速引用しましょう。なお、長くなるので、適宜、省略しながら引用します。
「あなたに教えてもらいたいことがひとつあったのよ。それで、こうして電話をしているの」とすみれは言った。そして軽く咳払いをした。「つまりね、記号と象徴のちがいってなあに?」
(中略)
「たとえば」とぼくは言って、天井を眺めた。すみれにものごとを論理的に説明するのは、意識がまともなときにだって困難な作業なのだ。「天皇は日本国の象徴だ。それはわかるね?」
「なんとか」と彼女は言った。
(中略)
「天皇は日本国の象徴だ。しかしそれは天皇と日本国とが等価であることを意味するのではない。わかる?」
「わからない」
「いいかい、つまり矢印は一方通行なんだ。天皇は日本国の象徴であるけれど、日本国は天皇の象徴ではない。それはわかるね」
「わかると思う」
「しかし、たとえばこれが〈天皇は日本国の記号である〉と書いてあったとすれば、その二つは等価であるということになる。つまり我々が日本国というとき、それはすなわち天皇を意味するし、我々が天皇というとき、それはすなわち日本国を意味するんだ。さらに言えば、両者は交換可能ということになる。a=bであるというのは、b=aであるというのと同じなんだ。簡単にいえば、それが記号の意味だ」(p.44-45『スプートニクの恋人』講談社文庫)
うーん、難しいこと言ってますね。村上春樹さんらしい、煙に巻くような表現です。
これを何とか、分かりやすくしてみましょう。重要なのは以下の二点です。
・象徴は一方通行(等価じゃない)
・記号は双方通行(等価である)
まだ、分かりにくいですね。
では、こんな例を想像してみてください。
あなたは温泉旅行を計画中です。旅行雑誌を見て、行きたい温泉宿を探している最中。
目の前の雑誌にはいろんな「温泉宿の写真」が載っているでしょう。
雑誌に掲載されている写真は、必ず、その温泉宿にある温泉設備の写真でなければなりません。
じゃないと、詐欺ですね。
この「温泉宿の写真」は、象徴であると言えます。
じゃあ、どういうものが記号であると言えるか。
結論から言いましょう、湯気三本が立つ「♨温泉マーク」、これは、温泉の記号です。
どんな温泉宿でも、このマークを使用することができるからです。
うーん、分かったような、分からないような。。。
もっとシンプルに言いましょう。象徴と記号の違いは「特権性」にある。
どういうことか。
ある「温泉宿の写真=象徴」は、どの温泉宿が使ってもいいわけじゃない。
極端な話、箱根の温泉宿の写真を、草津の温泉宿が使っちゃダメなわけです。
箱根の温泉宿の写真は、箱根の温泉宿だけが使用できる権利を持つ。
つまり、その写真は、箱根にとっての「特権」なのです。
一方で、温泉マークは、どの温泉でも使える。ただ温泉があることを示しているだけですから、草津だろうと、箱根だろうと、登別だろうと、このマークは使える。
つまり、温泉マークは「特権」ではありません。
(ああ、温泉行きたくなってきた)
まとめましょう。
象徴とは、特定の人だけが使用できる=特権である。
記号とは、誰でも使用できる=特権ではない。
無理やりでしょうか。
もう少し言い換えましょう。
象徴とは、特定の人だけが使用できる=特権である=誰も代わりができない
記号とは、誰でも使用できる=特権ではない=誰の代わりもできる
この区別は、村上春樹さんの作品を読むうえで、とても重要な区別だと思います。
村上春樹さんは、象徴ではなく、記号をちりばめるようにして、作品を描きます。
主人公は、何者でもない存在です。王家の血筋、のような特権的な運命を背負っていません。つまり、誰でも代わりができるような存在です。
そして、情景を名詞で埋め尽くします。ほとんどは交換可能な名詞です。
誰でも良い主人公、交換可能な名詞。
それではなくてもよいモノ、代わりがきく記号です。
村上春樹さんは、何もないところに、そこにはなくてもよいモノを沢山、複雑に配置して、風を吹き込むのです。
そして、複雑に置かれた沢山のモノの間を風が通り、風鳴りがする。
村上春樹さんは、沢山の記号で風鳴りを鳴らすように、小説を描くのです。
2.脱色とメロディの「イッツ・ア・スモールワールド」
さて、若干無理やりですが、以下の通りまとめてみました。
象徴=特定の人だけが使用できる=特権である=代わりがきかない
記号=誰でも使用できる=特権ではない=代わりがきく
象徴は特権的なので、他のものでは代わりがきかないし、誰でも使えるわけじゃない。
記号は非特権的なので、どんなものでも代わりがきくし、誰でも使える。
抽象的ですね。ですからもっと話を具体的にしてみましょう。
じつは、「象徴」と「記号」が持つ「特権性」を利用して作られた表現物があります。
あなたは、東京ディズニーランドに行ったことはありますか?
東京ディズニーランドには「イッツ・ア・スモールワールド」というアトラクションがあります。ランドで、最も古いアトラクションの一つです。
ウォルト・ディズニーの理想を表現するアトラクションとも言われております。
簡単にアトラクションの説明をします。
「イッツ・ア・スモールワールド」は、ボートに乗って、小川を流れながら、演出を観覧する、いわゆるライドと呼ばれるモノです。
ボートは、たくさんの人形が「世界中誰だって、微笑めば仲良しさ」の歌詞で有名な曲、「イッツ・ア・スモールワールド」を歌って踊る中を進んでいきます。
いくつかのゾーンに分かれており、ゾーンによって、人形の衣装と、歌の言語が変わります。
例えば、日本語で歌うゾーンでは、人形は十二単や袴を着て、スペイン語のゾーンでは、フラメンコの衣装を着て、ロシア語のゾーンでは、サラファンを着ているわけです。
つまり、ゾーンごとに、国の象徴である、言語と衣装を人形がまとうわけです。
いろんな言語で歌われる「イッツ・ア・スモールワールド」を聞きながら、国々の衣装を着て踊る人形を見る。
「イッツ・ア・スモールワールド」とは、そういうライドなのです。
さて、「イッツ・ア・スモールワールド」は、ウォルト・ディズニーの理想を表現するアトラクションでもあるのでした。
ウォルト・ディズニーの理想とは、要約すると、「小さな世界」の言葉の通り、「国は違えど、地球という小さな世界で生きる住人同士、手を取り合って助け合おう」、「戦争のない平和な世の中を目指そう」というモノです。
超簡単に言えば、「国の違いなんて関係なく仲良くしようぜ」です。
しかし、このアトラクションの人形たちは、国の衣装を着て、国の言語で「イッツ・ア・スモールワールド」を歌っているのでした。
言い換えれば、特権的な、象徴を身にまとって歌っているのです。
さらに言えば、「衣装」と「言語」で「国の違い」強調さえしているように思えます。
「国は関係ない」という理想なのに、「国の違い」を強調する。
なんか、矛盾する演出です。
しかし、この矛盾は、一番最後のゾーンで解決します。
最後のゾーンに船が入ったとき、そこには「真っ白な世界」がひろがっているのです。
どういうことか。
人形たちの着ている衣装が、形はそのままに、色だけが白くなるのです。
真っ白な衣装を着た人形が、それぞれの言語で同時に「イッツ・ア・スモールワールド」を歌います。
衣装から、色をはぎ取ることで、同時に、象徴性を剥ぎ取り、「白」という記号に統一化します。
さらに、各国の言語で同時に歌うことで、「言葉=歌詞」が聞き取れなくなり、「イッツ・ア・スモールワールド」のメロディだけが、強調されます。
重ねて歌うことで「言葉=歌詞」という象徴性が打ち消され、メロディという記号だけが残る。
脱色とメロディ。
このように、象徴性をはぎ取り、記号化することで、ウォルトの理想「国の違いなんて関係ないぜ」を、表現しているのです。
よくできた演出だと思います。
しかし一方で、「国の違いなんて関係ない」という理想の難しさも痛感します。
確かに、演出上、象徴性をはぎ取ることには成功してますが、本当にこれで良いのでしょうか。
当然、脱色とメロディだけでは、国家間の歴史的な問題は解決しません。
それは理想であり、夢です。夢の国の小さな理想。
わたしは、その理想の儚さをかみしめるため、来園した際は、必ず、このアトラクションに乗るようにしています。(もっと楽しめよ。。。笑)
3.おわりに
今回はここまで。
象徴と記号。
わたしは、今回、村上春樹さんの小説から、象徴には特権性、記号には非特権性という性質を読み込みました。
その「特権性」を使った例として、ディズニーランドの「イッツ・ア・スモールワールド」というアトラクションを取り上げました。
次回は、また別の側面から、象徴と記号について考えてみたいと思います。
そのために、モネの絵画に言及する予定です。
そして、モネの絵画を足がかりに、最後に挑戦的な文章を書いてみたいと思います。
わたしは、ある世界にアクセスするような文章が書きたい。
うまくいくかは分かりません、きっと失敗するでしょう。でも挑戦です。
緊張してきた。。。
では、また次回!!