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非一般的読解試論 第二回「詩・時間・交換」

 第二回「非一般的読解試論」をお送りします。前回は、この試論の目的を説明しました。この連載の目的とは、タイトル通り、非一般的な読み解きをおこなうこと。非一般的読解とは、「何か作品についての感想を文章化する」ときにあらわれる個別的な欲望を読み解くことです。そしてわたしは、文章に個別的な欲望があらわれることを、泥濘みに脚をとられてバランスを崩し奇妙な身ぶりをしていることに例えました。奇妙な身ぶりが繋がって踊りに見える。つまり、感想文とは踊りなのです。(詳しくは第一回をご参照ください)

 さて今回は、わたしの友人でもある、同人小説家の「ごひにゃん(@gohi_nyan)」の作品を取り上げます。ごひにゃん氏は、ラブライブや艦これの二次創作をしており、作品は複数あります。今回は、その中でも2019年6月から12月にかけて販売された『Sabbath』、『INSOMNIA』、『PARAISO』の3冊について感想を書こうと思います。

 ではさっそく、始めましょう。まずは、わたしがごひにゃん氏の作品を読むたびにどう感じるのか。以下は、その感想文、わたしの踊り。

1.陸酔い

 わたしは、ごひにゃん氏の作品を読むといつも「詩(=ポエム)のような小説だな」と思います。独特の空気感。ゆったりとした音楽が、しずかに流れているような小説。読み終わったあとに、時間感覚がズレてしまう感じ。昨日までの生活リズムとは全く違うリズム。特に、わたしはサラリーマンなので、普段の仕事で流れるリズムとは全く違うリズムを感じます。
 
 例えるなら、これは「陸酔い(おかよい)」なのかも知れません。船に乗って沖に出る。大洋は凪いでいる。心地よい凪ぎのリズム。静かな揺れではあるのだけれど、最初はその揺れに驚く。しかし次第に身体はそのリズムに慣れてしまい、船から降りるときには、「揺れがない」ことに驚く。身体に刻まれたリズムが陸で反復する。そんな読後感。そして、この読後感は「詩=ポエム」を読んだ後の感覚に似ているのです。

2.詩の時間、進まない時間

 詩を読むときに似た、時間の流れ。「陸酔い」を生む、詩の時間。では、この「詩の時間」とは何でしょうか。

 時間とはまっすぐ進むものだとされています。時間の直線性です。矢印で表現されたりもします。例えば、「過去→現在→未来」みたいに。タイムパラドックスなどのSFネタは、時間の直線性という性質を前提にしているとも言えます。

 そして小説などの物語にも、当然、時間があります。やはりそれもまた、直線的な時間なのです。なぜなら、物語には「始まり」があって「終わり」があるからです。一言でいえば起承転結。起承転結は、直線的な時間です。(例えば、涼宮ハルヒの放送順序に驚くのは、物語の直線性を無視しているからです。)

 物語の中では、タスクがあってそれを解決して、時間が経過し、主人公は成長します。これを逆転させて考えましょう、つまり、時間の経過する過程を読んで(見て)、ひとは物語を感じるのだと。映画『ブレイブ・ストーリー』は、もうタイトルがそのまんまです。主人公がブレイブ(勇敢)になる時間経過があって、それがストーリー(物語)になるのですから。他には、いわゆる「修行編」があって、主人公が強くなる『幽遊白書』、『ドラゴンボール』、ゲームでいうなら「レベルアップ」がある『ドラゴンクエスト』や『ポケモン』。もうこれ以上の例は要りませんね。

 つまり、わたしは、「物語」と「直線的な時間の進行」は相互に密接にかかわっていると言いたいのです。

 では、詩の時間はどうでしょうか。結論を先に出しましょう。詩の時間は「進まない時間」です。つまり、「詩=ポエム」は「物語」とは違う時間を表現しているのです。

 「時間が進まない」ということを、物語の時間=直線的な時間との対比で考えましょう。「物語」と「詩」の対比です。先ほど、物語において時間が進むのは、主人公の成長を描くからだという説明をしました。

・物語=時間が進む 主人公の成長

 これを、詩の時間との対比のために次のように言い換えましょう。物語は、主人公におきる出来事(=言葉)の意味を確定させていくこと。

・物語=時間が進む 出来事(=言葉)の意味が確定

 出来事(=言葉)の意味を確定する、とはどういうことでしょうか。言葉の意味は、文脈によって決まります。例えば、誰かに「すごいね」と言うとき、「すごいね」の意味が、「すばらしい」という賞賛の意味か、それとも「わたしなら、そういうことはしません」という批難の意味かなのは、文脈によって決まります。

 例えば、「村の若者が魔王を倒して勇者になる」、という出来事を考えてみましょう。まず言葉の意味を確定させます。

「魔王」は村を襲い、村長の娘を誘拐した悪い奴。
「村の若者」は未だ何者でもなく貧しい生活をしており、幼馴染の娘が誘拐される。
「勇者」は魔王を倒して、村長の娘を救い出した勇敢でいい奴。

 このように、言葉の意味を確定することで、「村の若者が魔王を倒して勇者になる」という出来事から、何者でもない「村の若者」が勇敢な「勇者」になるという物語が生まれます。

 一方で、「詩」は、意味を確定させません。むしろ、一つの言葉の「多義性」を解放します。例えば「氷」という言葉には、様々な意味があります。「氷」の意味は、水の温度が融点より下回り、固体化したものです。しかし、この「氷」は様々な文脈で様々な意味を持ちます。例えば、氷の冷たさを使って何か刺激的な記憶を植え付けることも可能です(『Sabbath』の「Curse」参照)し、硬さという性質を使って殺人の凶器にしたり、溶けるという性質を使って喧嘩しているひとの和解をも意味することができます。

 詩は、出来事(=言葉)の多義性を解放することで、意味を不確定にし、様々なことを表現するのです。意味が不確定になる。つまり、主人公は成長したのか、成長していないのか、そもそも成長とは何か、魔王は悪い奴なのか、悪とは何か、主人公とは何か、言葉の意味が多義性に開かれてしまうと、このように、物語は成立しません。物語が成立しないと、時間は進みません。

・物語=時間が進む 出来事(=言葉)の意味が確定
・詩=時間が進まない 出来事(=言葉)の意味が不確定
 
 「時間の進行」は、出来事の意味が確定するのか、それとも確定しないのか、に関係しています。わたしが、ごひにゃん氏の小説を読んだ後で、「陸酔い」を感じる原因は、ごひにゃん氏の小説が、物語を描く小説でありながら、詩の時間を生み出しているという点にあるようです。

3.交換の失敗、返送される手紙

 意味を確定することで、時間が直進し、物語が生まれます。一方で、意味を不確定にすることで、時間は直進せず、詩が生まれます。では、どのようにして、意味は確定するのでしょうか。

 結論を先取しましょう。意味は「交換」によって確定します。前章では、意味は「文脈」によって確定すると述べましたが、「文脈」は「交換」によって作られるのです。
 
 例えば、お金による交換。ある饅頭一個の値段が100円であること。じつは、値段は交換によって確定しています。つまり、ひとが100円を出して買うから、饅頭は100円という意味を持つのです。

 また「文脈」は、会話という交換行為によって作られます。例えば、前章の勇者の話。魔王の意味は、「村長の娘をさらった悪い奴」でした。この意味は、村長との会話によって確定します。つまり、襲われた村長が悲しい顔をして、村の若者に「ワシの娘が攫われてしまったんじゃ、、、」と話すから、魔王=悪い奴、という意味が確定するのです。

 このように、意味は、交換(売買や会話など)によって確定します。交換は、言葉(魔王)と意味(悪い奴)を「いち対いち」で対応させることで、意味を確定します。意味が確定すると、物語は進みます。つまり、直進する時間には、交換が必要なのです。

 逆に、詩は「交換の失敗」によって生まれます。詩は、言葉の意味を一つに確定させません。詩は、様々な文脈で、様々な意味で読めるように書かれます。詩は、言葉ひとつに対してたくさんの意味を対応させます。詩は「いち対多」なのです。言葉の多義性を解放する、というのは、そういうことです。

 さて、ごひにゃん氏の小説における会話表現はどうなっているでしょうか。ごひにゃん氏の小説には、「問い返し」、「迂遠な返答」、など、交換=会話を脱臼させる会話表現がたくさん出てきます。極端な例だと、質問されたあとで答えずにタバコに火をつける表現なんかもあります。(『Sabbath』「Dawn」p57」)
 
 この独特の会話表現。会話を脱臼させて、意味を宙づりにする。交換の失敗。主人公の質問に対して、答えを返さない。むしろ様々な意味で捉えることができる「問い返し」で返答する。わたしは、この「問い返し」の大ファンです。なかでも最も分かりやすい例を引用しましょう。

「僕は扶桑の考えていることはわからないよ」
「わからなければ、知れば良いだけよ」
「それじゃあ教えてよ。僕はどうしたかったのさ」
「嫌よ、教えてあげない」
 苛立ちが扶桑い気付かれないよう、時雨は机の下で手を強く握った。
(『PARAISO』「楽園」p53)

 なんと、質問に答えてくれないどころか、拒否されるのです(笑)。このような交換の失敗表現を、「返送表現」と呼びましょう。送り返される手紙、手元に戻ってくる手紙。文通の失敗。

 以下、恣意的ですがデータを示します。

『Sabbath』小説部45ページ中 返送表現9回
『INSOMNIA』小説部54ページ中 返送表現11回
『PARAISO』小説部63ページ中 返送表現11回

 この数値が多いか少ないかは分かりません。ほかの作家より多いか少ないかはわたしには興味がありません。わたしにとって重要なのは、3冊のうちどれを読んでも、10回前後の返送表現に出会い、そして、交換の失敗により、物語の進行が止まり、すこし不安で、でもどこか優しい、読書体験が得られることです。

 交換を失敗させること。返答をしないこと。意味を確定させないことは、一面的には不安を煽ります。なぜなら、読んでいるわたしに判断が委ねられるからです。しかしこれは、同時に自由を生みます。意味を確定させる力からの自由です。

 現実のわたしは、常に意味を強要されます。国、性別、職業、年齢、配偶者有無、住所、年収、血縁。わたしは意味に溺れるのです。わたしはサラリーマンという意味も持っていて、会社での役割が確定しています。わたしが平日に毎朝聞く「目覚まし時計の音」は「出社」を意味しています。わたしは、直進する時間を生きています。

 ごひにゃん氏の小説を読むと、その生活とは全く異なる時間を体感します。それは、交換の失敗から生まれる詩的な時間であり、この直進的な時間からの救済なのです。

4.読み解き、図式からの逃走
 
 以上がわたしの感想文です。この感想文には、わたしの欲望が現れています。わたしは今回、「物語」と「詩」、「直進する時間」と「直進しない時間」、「意味の確定」と「意味の不確定」、「交換」と「交換の失敗」という図式を提示しました。

 わたしは今回の感想文を書いてみて、わたしは図式を先行して小説を読んでいるのではないか、と思うようになりました。

 つまり、著者の意図に関係なく、わたしの中にある図式を勝手に当て嵌めているのではないかと。この事実は、非一般的読解試論として、とても重要なことです。

 わたしは、この試論の中で、わたしの欲望を読み解くことを目的としています。

 つまり、図式を先行して読んでいる、ということは、図式はそのまま欲望をあらわしているのではないか。

 欲望を知るということは、自分の使う図式を知ること、自分の思考の枠組みを知ること。何かを読むときにわたしが前提としていることを知ることなのかもしれません。

 次回の非一般的読解試論は、わたしの思考の枠組み、前提、図式について考えることになるでしょう。

 今回、わたしはごひにゃん氏に許可をいただき、わたしの関心のなかで、好きなように作品を読み、好きなように書かせてもらいました。ごひにゃん氏の度量の大きさに感謝します。

 ごひにゃん氏は、上記に述べた通り、返送表現を用いて、言葉の意味を脱臼させ、ごひにゃん氏らしい意味を付与することで、独特の雰囲気を作ります。それが顕著に出ているのが、『Sabbath』の「Curse」という作品です。「Curse」とは、日本語で「呪い」のことです。「呪い」と言えば、何か怖い響きがあります。呪いは、一般的には恨みのある人に災いをもたらすことを意味します。しかし、ごひにゃん氏はその意味を脱臼し、「災い」とは真逆の「救い」の言葉として描いて見せます。

 「呪い」を多義的に、詩的に解釈すれば、それは「救い」にもなりうる。

 今後もごひにゃん氏の作品は、物語を脱臼させ、詩的な「救い」へと導くでしょう。

 では、次回。

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