ポリコレ批判はポリコレによって守られている

ポリティカルコレクトネス(通称ポリコレ)はしばしば批判される。特に多いのは、表現の自由に関する文脈である。

例えば、あるゲームの表現が変化した。ユーザーは表現の変化は悪手であり、その理由としてポリコレを挙げる。「ポリコレによってキャラの魅力がなくなった」などだ。

ポリコレと言う言葉は語義から言えば"政治的妥当性(政治的正しさ)"という意味である。ある表現が特定の人々を揶揄したり貶めたりしないようなことを目指している。例えば、障害のある人と言う表現を障碍と言い換えたりハンディキャップのような比較的柔らかい表現に変えるといった選択肢がある。

ポリコレがさす意味はかなり多義的ではあるが、私の思うポリコレとは全ての発言・表現が適切でかつ自由の尊重されたものであることを保証する措置である。

だから、ポリコレ批判はあまり的を射ていないと感じる。というのも、その批判もポリコレによって尊重・保護されているからだ。ヘイトスピーチのような極端な誹謗中傷を除けば、表現に関する様々な要望は自由に交換・議論され、深められていく。したがって、表現の自由をもポリコレは包含しているはずだ。

となると、ポリコレ批判とは何か。ポリコレ批判とは、表現の自由が狭められたと感じるときに使う雑な言葉だ。つまり、問題の真の本質を適切に表現していないのである。

例えば、ゲームの女性(男性)キャラクターのデザインがなんの面白みもない場合。それはポリコレではなくゲームデザイナーや制作陣の技量不足に非がある。自由が多少制限されていても、それを乗り越えて秀逸なものを作るのが芸術の仕事である。少しの制限で甘ったれた言葉を使ってはいけない。

また、文化理解の浅さも同様だ。日本を題材にしたテーマで多くの間違いが見つかったとき、それはポリコレ企業の末路ではない。それはゲームの背景に真摯に向き合わなかった愚かな無能企業の末路である。加えて、デザインの西洋化なんかは植民地主義やオリエンタリズムなどの文脈で哲学でも多く議論されている。批判するための材料はすでにそろっているのである。あとは思考を研ぎ澄ませ、丁寧に言語化するだけである。

言葉は正しく使わなくてはいけない。ポリコレという言葉はかなり意味がぼやけているが、それに乗っかった批判は自らの首を絞めることにもなる。真の理由をキチンと言語化しないと自らの思考範囲も狭まってしまう。

世の中にはあまりにも意味がぼやけすぎて、何の意味もないような言葉が山ほどある。ポリコレやツイフェミ、左翼・右翼などがその例である。正しく言葉を使う努力をしないと、いつしか自己批判能力も失われ、自分が何を言いたいかさえ自分で理解できないようになってしまうだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?