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柄谷行人『トランスクリティーク』解説(3)

 今回は、第2章の綜合的判断の問題の解説を行っていきます。


数学の基礎

 カントの画期性として前回はコペルニクス的転回を紹介した。柄谷はそれに加え、プラトン以来の形而上学を支えている数学の分析的性格を疑ったこともまた一つの画期的な出来事だったとする。

 分析的判断とは、ある概念を分析することで必然的に導かれる判断のことである。例えば「未婚男性には妻がいない」という判断は、未婚という概念にすでに妻がいないことが含まれているため、必然的に帰結される。

 これと同様に「すべて三角形の内角の和は180度である」ということは、三角形という概念にすでに内角の和が180度であることが含まれているとするのが分析的判断である。

 しかし、これに対してカントは、公理を経験的実在から独立したものであり、なおかつ概念(悟性)だけによるものではないと考えた。

 「すべての三角形の内角の和は180度である」ということは、現実にある三角形を観察して得られたものではない。というのも、実際に存在する三角形の内角の和を足してもほとんどの場合ぴったし180度になるということはないからだ。かといって、経験を経ずにその公理が分析的に導かれたわけでもない、というのがカントの考えの奥深さなのである。

 では公理は真であることはどのように保証されるのだろうか。柄谷は次のように言う。

全称命題の成立の根拠は「他者」に求められるのである。普遍的ということが「他者」を導入せずにはいられないのだ。

柄谷行人『トランスクリティーク』岩波現代文庫、p.90

 「すべての人間が死ぬ」という全称命題を真と本当の意味で認めるなら、今後現れるすべての人間を含め観察して、すべての人間が死ぬことを確かめないといけない。しかし、そんなことは不可能である。この全称命題が真と認められるのは、それを自分だけではなく他者も真であると合意しているからである

 同様に、「すべての三角形の内角の和は180度である」という命題が真であるには、ただ三角形を分析しただけでは真であるとは言えない。それが真なのは他者の合意があるからなのである。

 分析的判断とは、この他者なしに全称命題を真であると言おうとした試みであったのである。それに対し、カントは他者を導入せずに全称命題を真であるということはできないと主張したのである。

言語論的転回

 数学の証明について疑いをもち、カントの考えをさらに発展させたのがウィトゲンシュタインである。

 ウィトゲンシュタインが最初影響を受けたラッセルは、数学を集合論を利用し形式的に基礎づけようとしていた。それは一つの規則体系によってすべてを説明してしまおうとする試みであった。

 ウィトゲンシュタインはラッセルに対して、ある規則体系とは異なる規則体系で同一の定理が出た時、それを同一の規則体系として翻訳することは可能であるが、同一の規則体系に還元することはできないと考えた。つまり、彼は数学が多数の体系からなっていると考えたのである。

 そして、数学の証明は自動的ではなく、自らのいる体系の規則に従うことによってなされることを強調する。

 数学は主観を超えた強制力をもっており、それ故に特権化される。しかし、主観を超える力は数学そのものが持っているものではなく、規則を守るという同意によって成し遂げられたものに過ぎないのだ。

彼(ウィトゲンシュタイン)が否定したのは、「証明」というかたちをとる共同主観性あるいは対話それ自体の独我性なのだ。

同上 p.107

  数学の証明が独我性を持っているのに対して、綜合的判断が普遍的であるのは違った規則をもった他者の反証を予測するからである。

 ウィトゲンシュタインが言う「言語ゲーム」とは、異なる規則体系にいる人同士がなぜか意思疎通ができる不思議さを意味している。

 外国人が日本語を話すときに、何か言い間違えに気づき違和感を覚えたとする。それを、多くの人は間違ったことは指摘できても、なぜ間違いなのかを説明することができない。ただ、私たちはそう言わないとだけなのだ。

 しかし、そこには明示することができない規則があるのは確かなのである。規則を教えるー学ぶということには、何か「合理的に」解明できない何かがあるのである。

超越論的統覚

 「合理的に」解明できない規則、それが綜合的判断である。
 カントは認識がこの総合的判断が基盤となっていると考え、それが成立するために必要なものとして、超越論的主体(統覚)を持ち出す。

 超越論的主体とは、概念と経験を綜合するものである。
 これは言語を越えているものであるため、言語論的転回以後の哲学者によって批判されたきた。
 しかし、柄谷は思考や主体を言語の側から見ることによって、超越論的主体を消し去ることはできないとする。

 ソシュールは、言語がシニフィアン(感性的なもの)とシニフィエ(超感性的なもの)の綜合であるとしているが、そのような綜合が成立するためには、カントの言う超越論的主体が必要である。
 また形式(シニフィアン)が一つの示差的な関係体系を為すとするとき、その差異を見出しそれを統合する体系を作りだすために、超越論的統覚が暗黙に前提とされる。

 ヤーコブソンは、音そのものの差異ではなく、言語が利用する慣用上の差異に注目し、音そのものの差異を成り立たせる上位レベルの差異性として存在する「形式」を見出す。
 その「形式」の証拠としてゼロ記号なるものを考案したが、それは超越論的主観の言い換えに過ぎないと柄谷は考える。

 そもそもソシュールは、言語には差異しかないと言うが、それはたんに一つの関係体系を意味するのではなく、複数の関係体系を前提としていると考えられる。つまり、言語に外部性として他者を見出しているのである。

 なので、柄谷はソシュールが言語が社会的であると言ったことに対して以下のように述べる。

言語が「社会的」であるのは、、それが他者、すなわち、別のラング(規則体系・共同体)に属する者とのコミュニケーションにおいてみられるときである。

同上 p.115

 本当の言語論的転回とは、主観を消し去ることではなく、異なる規則をもった体系に移動することによる視差を見出すことなのである。
 それこそ、批判の「場所」となっていくのである。

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