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捨て去ることと生きること 『マッドマックス:フュリオサ』論

 昨今、これまでよりもはっきりとフェミニズムを表明する映画のムーブメントが起こっている。昨年の『バービー』のグローバルな評価を筆頭に、『哀れなるものたち』など多くのすぐれた映画が評価されメインストリームを席巻し、そこでは男性性の問題点を暴き女性をエンパワーするような様々な表現が試みられている。もちろんこのような映画はこれまでも数多く発表されてきており、今に限ったことではないが、現在のムーブメントを大きく特徴づけるのは、なんといってもあくまでメインストリームの中で堂々とエンタメ性を発揮しながら大衆に向けて正面から表現するという傾向にあるように思う。

 実はこうしたメインストリームの動きは約10年前に発表されたある作品にも既に表れている。それは当時から大きな話題を生んだ『マッドマックス:怒りのデスロード』(2015)である。ジョージ・ミラー監督の「マッドマックス」シリーズの続編にあたる本作は約20年の時を経て制作された。荒廃した世界のリアルな描写、激しいカーバトルシーンなど熱狂と興奮で一気に駆け抜ける豪快で爽快な内容は多くのファンを魅了した。こうした高いエンタメ性もさることながら、そこで歪にも誇張するように描かれた男女の格差は、その解消にむけて物語そのものを激しく駆動し、マイノリティーである女性たちをエンパワーする形で醜悪な男性性や社会を破壊し、その権利を勝ち取るという、まさにフェミニズム映画としての完成度の高い作品としても高く評価された。

 そして約9年の時を経て『マッドマックス:フュリオサ』(以下『フュリオサ』)が公開された。『デスロード』に登場した女性戦士フュリオサの前日談を描いた本作は、フュリオサの幼少期から『デスロード』までの時系列に連続する間の物語であり、『デスロード』での怒りに燃えたフュリオサがいかにその闘志を形成してたのかがドラマチックに描かれている。前作『デスロード』ではフュリオサが独裁者であるイモータン・ジョーのもとから、彼の子を産むことを強要された女性たちを連れ、フュリオサの生まれ故郷である緑の地を目指して脱走するという物語だった。今作『フュリオサ』は幼いころに緑の地から連れ去られ、助けに来た母を本作の悪役であるディメンタスに殺された復讐を果たすため、イモータン・ジョーの元で身を隠しながら機会を狙っていく。

 二作を通じて描かれている二人の悪役が纏う父権性から見えるものは果てしなく続く所有の欲望であり、その方法として収奪と抑圧と洗脳が男たちの社会を駆動している。イモータン・ジョーは主に『デスロード』において収奪と抑圧と洗脳を思いのままにする特権的男性/カリスマ的存在として描かれている。彼は圧倒的な統率力と決定権を持ち、すべてをわが物にすることができる絶大な権力を握っている。彼を取り巻く側近たちの多くが彼の実の息子であり、偉大な父の元に集う父権社会のなかで、母たちはただの子供を産む機械として、健康な遺伝子を残すという機能以外には人格など与えられることはない。女たちはただ「美しく」「健康」な生物であればよいのだ。一方、今作の悪役ディメンタスはイモータン・ジョーの洗練された暴力/権力と比較するに、矮小でカリスマ性に欠けた感情的でハリボテの男性性が強調される。しかし今作におけるこのような矮小な悪しき男性表象は、復讐を狙うフュリオサと我々に感情移入を促す恰好の対象となり、徹底的に憎たらしいディメンタスをどうにか懲らしめたいと感じる我々観客の感情をうまくコントロールしている。

 これら二作で描かれる悪役としての男性たちはただ一つの欲望にとらわれている。それは先ほども言ったように所有の欲望である。それは必然的に何も失うことができない主体を形成する。イモータン・ジョーやディメンタスは権力欲、所有欲、性欲に駆動され領土、家臣、物資、武器、食物、水を奪い合い、少しでも多く我が物にすることに全てを費やしている。まさに利己的な原理のみで動く存在だ。一方でウォーボーイズたちは簡単に命を失うことができるように見える。しかし彼らは自らの命を失っているように見えて、実は自らの生をより大きなもの(イモータン・ジョーへの忠誠、栄光など)により過剰に意味づけしようとしている。それは決して無駄死をしてはならない(無駄死にできない)という、自らをただ捨てるということができない。より大きなものの養分になる、役に立つことでしか生きられないウォーボーイズも同様に男性性の欲望から逃れられない。

 またマッドマックスの世界観の根幹となるものは車やバイクなどの乗り物である。これらは端的には身体の拡張の一部だと考えることができる。自らの肉体が持つ力を、こうした乗り物が大きく増幅してくれる。まさに男性的な力の拡張を意味するこれら乗り物を、この世界の男たちはこぞって開発し、手に入れ、乗りこなしていく。それはむしろこうした外部器具の力を借りなければ、己の力そのものでは何もできない自らの弱さを覆い隠す必然的条件でもあるかのようだ。乗り物による身体拡張における男性的特権性が隠喩的に表現されている場面が二作を通して反復されている。それは大きいタイヤのバギーを使ったシーンだ。『デスロード』ではイモータン・ジョーが谷間の閉ざされた道をバギーで乗り越える。また『フュリオサ』ではディメンタスが、これも閉ざされた門をバギーでこじ開けて突破するシーンがある。ここで示されているのは「ショートカット」の特権性である。彼らは自らの力ではなく、あくまでも所有するマシンの性能を特権的に使って、困難を「ショートカット」してしまうのだ。

 このような男性の所有の欲望と対象をなすのは、本作『フュリオサ』において主人公フュリオサが選択する「失う」「捨てる」という行為であり、ここに女性としてのフュリオサの大いなる抵抗が明示されている。フュリオサは自らの身体の一部を捨て去る(欠損)ことによって、その場(男性社会)の隙間から軽やかに身を返し、見事に突き進む。今作ではフュリオサが捨て去った身体の一部をいくつか見つけることができる。

 印象的な損失は「左腕」だろう。ディメンタスからの逃走の際に運転する車とトレーラーの間に左手を挟まれ負傷する。その後ディメンタスにつかまり左腕をつるされた状態で放置されることになるが、隙を突いたフュリオサは自らの左手を切断して逃走する。『デスロード』では既に左腕の無いフュリオサが登場するが、ここでその理由が明らかとなる。『デスロード』でのフュリオサは義手を付けているとはいえ、左腕を欠損しているとは思えないほどの身体能力を見せ、むしろその欠損こそが彼女の確かな生きる存在の証のように見える。

 ビジュアルとしての欠損ではないが「声」を捨て去るという選択も重要なシーンである。イモータン・ジョーの配下で身を隠し働きながら機会をうかがうフュリオサは「喋れない」ことを装って、女性としての声を隠す。声を失ったフュリオサはさながら小さな男子のようであり、ビジュアル面ではさることながら音としての女性的特徴をも隠すフュリオサは砦の男たちの欲望の対象からもうまくすり抜けていく。

 そして本作で印象的に描かれる2度の剃髪である。イモータン・ジョーの砦から逃げ出すために長い髪を切り落としかつらを作ったフュリオサは、髪に触れる家来の行動を欺き見事逃亡に成功する。その後も男性にとってロングヘアーが女性の象徴であることは印象的に反復される。そのことが最も明示的に描かれるのはディメンタスを追い詰めたラストシーンだろう。自らの顔を晒しながらディメンタスに私は誰か問いただすも、ディメンタスは一向にフュリオサを「リトルD」として認識することができない。これは女性=長い髪としか認識することができない男性を批判的に描いたシーンだが、はたしてこれはディメンタスに限った話だろうかと自問してしまう。また数少ない男性の仲間として登場するジャックとの関係性も髪が関係しているように見える。初めてフュリオサとジャックが出会い、そこからジャックがフュリオサを同志として認め共闘していくその期間のみフュリオサは髪を持つ。ジャックとは異性でありながら明確な恋愛関係とまでは捉えられない、むしろ師弟関係やバディ、しかしそれ以上でもあるような微妙な関係性を保つが、その死別までの間、フュリオサは女性の象徴ともいえる長い髪を持ち続けるのである。その他にも本作の男性でも長い髪を持つ人物が二人登場する。それはイモータン・ジョーとディメンタスである。彼らは男性でありながら長い髪を保有することで特権的存在であることを誇示しているように見える。

 自ら捨て去ったものではないが、フュリオサが失ったものの中で特に重要なもの、それは「母」と「故郷」ではないだろうか。フュリオサを救うために単身でディメンタスに挑む「母」は本作に登場する戦士の中で最も崇高な存在であり(崇高な存在が貼り付けて処刑されている)、フュリオサが初めて失ったものはこの偉大なる「母」である。「母」とは私の存在、そして身体と切っても切れない関係であり、この切れないものこそが原体験としての身体とその欠損という戦略に繋がるのではないだろうか。というのも、ここでフュリオサは失いながら状況を切り抜けていくという後に確立する自らの戦略を選択することができない。それは最も初に経験する捨て「去る」(母を置いて逃げる)ことの失敗である。この一番最初の捨て去りの失敗の経験を乗り越え、逆に捨て去りの戦略化まで昇華することがフュリオサを生かしていくようにも見える。次に「故郷」だが、これは自分の生きてきた環境や慣習、言葉、食べ物、水など現在の身体を作る要素であると考えられる。故郷を失うことは、自らの身体の根源、ルーツを失うことであり、それは身体的アイデンティティの揺らぎにもつながる大きな喪失である。実際に故郷を喪失したと知ることになるのは『デスロード』で緑の地が失われたことを知る場面であるため、『フュリオサ』の時点ではまだ故郷は向かうべき理想郷として存在している。緑の地の喪失を経験したフュリオサは何もかも喪失した存在に見えるが、ここでイモータン・ジョーの砦を目指し「戻る」選択を取る。これは唯一残されていた自分の一部である故郷を「失う」経験、その深い悲しみの底からもあえてその無念さえも捨て去り、悪しき男性性に支配された土地に戻るという戦略とも見える。

 このように所有することでしか自らを成り立たせることができず決して失うことができない男たちに対して、フュリオサは見事にその身体を欠損させながら突き進む。そうしてフュリオサは男性社会とルールから抜け出し遂に復讐を果たすかに見えた終盤、ディメンタス自身からの苦言として「復讐こそ悪しき男性性の連続のなかにある」ことが示され動揺することとなる。ここでディメンタスの頭を打ちぬくことは果たしてフュリオサの戦略の成果なのか、そしてそれは復讐を果たしたことになるのだろうか。長く引き伸ばされたフュリオサとディメンタスのラストシーンは、そのような自問自答の時間へと重ねられていく。フュリオサが取った最終的な選択はありきたりな復讐劇を抜け出し、悪しき男性性そのものすらも養分に変換するという見事な選択だった。他者から食べ物を収奪することしか考えていない(それでしか生きられない)男たち、一方で食べ物を種から育てて身体の一部にしてきた緑の大地の民フュリオサ、そこから導き出される最終的な選択はもう一つの大きな抵抗の証となっている。

 私を含め『デスロード』『フュリオサ』に熱狂したものたちは、はたしてこの映画をどの様に見ていただろうか。私はこの二作に置いて男性として徹底的に否定されている存在である。ならば私はこうした女性の活躍により、悪しき男性性が滅ぼされる物語になぜ熱狂しているのだろうか。この映画がそのような映画であると知れば知るほど、私はこの映画を楽しんで見ているという特権性を暴かれたようで非常に居心地が悪いのも事実である。このシリーズはマイノリティである女性が悪しき男性性を倒して尊厳を取り戻すという感動的な物語ではない。少なくともそのように痛快に消費されてしまうような映画であってはならない。私は冒頭にマッドマックスがあくまでもメインストリームのただ中で、その圧倒的エンタメ性なかにとどまりながらフェミニズムを打ち出したことを強調した。フュリオサはあくまでも一つの抵抗の痕跡でしかない。物語化されエンタメ化され可視化されたものの外に、あらゆる不可視の抑圧された存在、そしてそこから様々な抵抗が生まれ無数に存在している。だからこそ特権的な目線で映画を消費するだけでは見えてこない、細かな抵抗の痕跡を発見していくこと、『マッドマックス』はそうしたマイノリティをエンパワーし、特権的に映画を楽しむ我々一人一人を別の主体へと変化させる力を持った映画であることを忘れてはいけない。映画を見つめる我々はいったい誰なのか。イモータン・ジョーもディメンタスも物語の外にいる。まだ死んではいない。


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