人間の業と欲望
人間の業と欲望
夏目漱石『こころ』を読んで次のようなことを考えた。人間がわかりあうこと理解しあうことはとても難しい。誰しも親友と呼べる人がいると思うが二人はわかりあっているようですれ違っているのかもしれない。先生は私と出会って他人にすべてを話す決心をして死んだ。その理由は明治の精神が死んだからだというが本当はKへの裏切りによって悲惨な現実を受け入れることができなくてその中で私というK以上に大切な親友ができたことによって先生は私の思い描くような人間性は背負いきれないと思って死んだのではないかと思う。明治の精神という言葉は作中にほぼ登場せず内容についてもほとんど触れられていない。しかしこの作品にとって明治の精神は重要な意味を持つ。明治天皇の一番近くにいた乃木希典将軍が死んだことによって先生は死を決意した。このすぐ後に夏目漱石は亡くなっている。享年49歳。あまりにも若すぎる死である。夏目漱石は40歳ごろから小説を書き始め吾輩は猫であるという有名すぎる小説によってデビューした。それから朝日新聞社で虞美人草などの小説を書く。彼の生きた時代はほぼ明治と重なる。夏目漱石こそ明治の精神の体現者だと私は思う。今で言えば令和の精神と呼ぶものが生まれるかもしれないが300年間続いた江戸時代が終わり明治になったというのは生前退位が行われた平成から令和にかけてよりも重みを持つものだったに違いない。私はこころを読んで現代人に伝えるつもりで夏目漱石はこの本を書いたのではないかと思う。夏目漱石は作家を志す前建築家を志していた。彼は数学が最も得意で数学を使う仕事の最高峰として建築家を選び東京大学の建築学科に入ろうとしたところを友人に文学は一万年続くものであると言われて文学部へと志望を変えた。つまり漱石は一万年後の未来に向けて小説を解き放ったのではないかと思う。だからこそ口語体で平易な文章を用いることで誰にでもわかる小説を書き明治の国民作家となったのである。彼は癇癪持ちだったという噂があり、私の勘だが統合失調症か癲癇などの精神疾患だったのではないかと思う。虞美人草に藤尾が固まって動けなくなるシーンがあるが彼女は自身の投影ではないか?明治時代は現代ほど精神医学が発達していなかったし統合失調症は精神分裂病あるいは気狂いと呼ばれ忌避されていた。国民作家、それも東京大学、当時の最高学府を出たエリートがそのような病だったと分かったら軽蔑されると夏目漱石は思っていたのかもしれない。以上は私の推測だがこころは現代で言えば精神の病を扱った作品だと思う。Kの自殺する意味もよくわからないし、先生も悩みすぎだし、私は遊び呆けているし、奥さんもお嬢さんも軽薄である。現代人なら全員病院に行ったほうがいい。そのぐらい登場人物たちを心配しながらこころを読んだ。高校三年生の時には気がつかなかったこころの全体像が大人になるとよくわかって人間失格以上に病み切った現代人の諸相なのではないかと思った。こころと人間失格が売上部数2位3位というのは日本はヤバいんじゃないかとちょっと心配になった。窓際のトットちゃんが日本の売り上げ部数1位だがこれもゆく宛のない現代人を描いていて結構危ない。とにかく人間の業と欲望がエスカレートすると事件が起きて人が死ぬ。それは戦争も同じで人間個人間の争いの大きくなったものが戦争であると捉えれば現代は国家と国家の関係を個人と個人の関係に置き換えてみるべきではないかと思う。Kの自殺は日本の自殺かもしれないし私は今で言うアメリカとか他国かもしれない。こころは読み直されるべき傑作であることは変わりなく現代の若者が高校から大人にかけて読むべき本だと思う。まだ無垢な青少年はこの本を読んでショックを受けるかもしれない。身近な人に死人がいない思春期にこの本を読むことで人間は死ぬんだとわかると思うしもっと視野が広がって国家や世界のことを考えるようになるかもしれない。私は本気でこの世の中、現世を信じているし常世も同じく信じている。現代の自分が生きている間に戦争が永久にない世界を作りたいと思っていてそのための行動として文学を捉えている。これから夏目漱石を超える作家が出るとは考えにくいしこころ以上に売れる本ができるとは考えにくい。人間の醜さを暴いたこの小説は現代人の愚かさや業と欲望のままに理性を失って犯してしまった罪への罪悪感を描いている。そういった意味で日本的罪と罰かもしれない。私は作家でもサラリーマンでもない。しかし同じような境遇だから私の言葉がよくわかる。人間には結論、何もできず則天去私の言葉のままに自然に成り行きを任せるしかないのではないかと思う。動かざること山の如しと武田信玄は言った。武将たるもの強くなくてはならない。貧弱ではならない。侍魂は皆の胸の内に燃えている。こころと真逆にも思える思想は実は重なり合っていて表と裏だ。先生も私も強くなろうとしていた時期があるはずで明治という武士がいなくなってしまった世界に対する日本の近代化への戸惑いが小説の奥にテーマとしてあると思う。言葉の端々に明治明治とやたら出てくる。僕らは文明開花の申し子だよという意味や近代になったんだよという夏目漱石の訴えが出てくる。夏目漱石自身も明治の精神について分析できていないところがあるのではないか。なぜなら当事者だから。その試みとしてKを殺し、先生を殺し明治の精神をこころの登場人物に仮託したのではないか。彼は恐らく江戸に憧れと侮蔑を抱いていた。もしかしたら明治は敗戦後の高度経済成長の日本と似ているのかもしれない。前の思想を否定して(アンチテーゼ)新しい思想を打ち立てて(ジンテーゼ)文明を再興する(アウフヘーベン)。江戸時代はペリーによってこれが起きたが昭和時代は二つの原子爆弾によって起きた。太宰治や三島由紀夫の悩みと夏目漱石の悩みはもしかしたら似ているのかもしれない。それほどの衝撃を現代人である私達は味わっただろうか。否、味わっていない。と、するとこれからパンデミックを超える衝撃が起きて日本の構造が根本から変わった時偉大な作家は出てくるのかもしれない。そういう気がする。こころとは関係のない話題かもしれないが私は大学時代ほとんどバイトをせず大学を出てからもほぼ働いていない。能をやったりエキストラをやったりしていた。つまり先生と私の気持ち両方を体験していることになるのかもしれない。その経験から言うと働くことは辛いが働かないことはもっと辛い。無間地獄のような気もしている。世の中の役に立っている勉強ができていない世の中の役に立っていないというのは普通の暮らしができる人からしたら不思議かもしれないけれど尋常じゃない苦しみが伴う。財産があってもなくても普通の人と違うというのは十字架のように身体にダメージを与える。これこそ業すなわちカルマかもしれない。こころに描かれているのはカルマを背負った人間による恋欲の話だ。恋は相手から必要とされない時点で終わる。恋は長い人生から見たら一瞬だ。恋は罪悪ですよと言える先生は恋の痛みを知っている。私は恋の痛みを知らない。この矛盾がこころのキーポイントになっている。恋は小説のテーマになりがちだがこころには恋という言葉が30回以上出てくる。明治や明治の精神よりダントツに多い。ではこころ=恋の話かというとそうでもない。他にも人間の葛藤の教科書のようなことがたくさん出てくる。親の死や相続、親友との別れ、美しい景色、墓参り、先生の謎の言動。このひとつひとつに人間のこころの揺れや自我のよろめきが出てくる。読んでいて辛くなるのはやはり高校二年生で習った先生と遺書のKの自殺の方法だ。首を切って一思いに死んだということが描写されていてこころの中で一番リアリズムを持って書かれている。Kの死と明治天皇の死と乃木希典将軍の死はいびつに重なり合う。僧侶になろうとしていたKは先生によって変革され別人のようになっていく。遊びを覚えたわけではない。高等遊民になりきれなかった夏目漱石の残像のような人物がKだ。Kと先生と私は夏目漱石の中で複雑に絡み合い時に分裂しながら彼の小説家としての代表作こころに投影されていく。その時の光景を想像すると、美しげと儚げという対極の言葉が浮かび上がる。夏目漱石の不安定な精神がこころという曖昧にも鮮やかに見えるタイトルの小説に昇華したのではないか。私達現代人はこころを超える作品を作らなくてはならない。不安にも絶望にも立ち向かえる強靭な小説を作らなければならない。私は決意を新たにするとともに次の小説を開いた。私は何者かになりたいのではない。この世界を少しでも自分だけの色で塗りたいのだ。夏目漱石や世界中の小説家が描いてきたように。