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第171回芥川賞(2024年上半期)の候補作の感想

第171回芥川賞(2024年上半期)の候補作が出揃った。私にとっては、小説家を目指すようになって初めての芥川賞候補作の発表である。全作品を読む機会があったので、感想を残そうと思う。賞の予想は控える。
(以下は、読んだ順番で記載した。ネタバレ有り。著者の敬称は省略する)

松永K三蔵『バリ山行』

群像2024年3月号

私は、以前に少しだけ登山を試みたことがある。伊豆大島の三原山を、山行の先輩と二人で登山道ではなく、裏砂漠というマイナーなルートから登った。整備されていない登山道を地図を見ながら歩き、登る。先輩に連れられていなかったら、確実に道に迷っていただろうと思う。あの山行は、いま思うと「バリ(エーション)山行」だったのだ。

この『バリ山行』という作品は、主人公のリストラされるかも知れないという職場の不安感と、それをバリ山行を通して解消していく対比が面白い。自然の中の道無き道を這い回り、時には文字通りの命の危機を感じることで、生きている実感を味わい職場の不安を忘れる。仕事上の不安は心の中で生まれた漠然としたものであり、山行を通してリアルに感じる感激は本物である。

主人公の所属する、経営の傾いた建築会社という場は、ありきたりの設定には感じた。しかし、それと「バリ山行」を組み合わせてプロットをまとめ上げた手腕は上手いと思った。山行のリアルな描写は、山に登ったことのない人にも想像できて、自分も登山したいと思わせる、説得力があった。


向坂くじら『いなくなくならなくならないで』

文藝2024年夏季号

就職間近の、大学四年生の主人公は、高校生の時に失ったと思っていた親友と再会する。住む場所がない彼女となし崩し的に同棲し、就職と同時に実家にも連れ帰る。実家でもある理由があり、親友を快く迎える。主人公と親友と両親の4人ぐらしは、途中までは紆余曲折ありつつも和やかに進む。そこへ存在を隠されていた、主人公の姉が帰ってくることで、場が混乱し、姉の出産に向けて時間が経つにつれて、場の破綻が描かれる。

向坂くじらの描く、主人公の心の中の渦巻くような親友へ感じる相反する思いの描写に惹き込まれた。詩人である著者の言葉の感覚や表現の繊細さは、私の好みである。

一方、話の構成は、いま一歩かも知れない。特に機能不全の両親との関係や、もう離れたいと思う親友への接し方の変化の描き方が曖昧であり、ラストの身体的接触を通したコミュニケーションは、どのような結末へ導きたいのか読めないまま、唐突に終わる。その後の展開を読者に委ねる形のラストだとしても、少々乱暴に感じる。


坂崎かおる『海岸通り』

文學界2024年2月号

介護施設の清掃員として働く少し精神的に偏りのある主人公は、園内の仮のバス停で来ないバスを待つ老婆に何か肩入れしている。職員の増員で配置されたウガンダ人の女性との交流を通して、ウガンダ人のコミュニティに足を運ぶようになる。コロナ禍の中あらぬ疑いをかけられ、職を追われそうになる。ラストは、老婆の願いを叶える描写で終わる。

私は、正直なところ、この『海岸通り』の良さはよく分からなかった。こじんまりとしたプロットの中で、必要なパーツが適切に配置され、意味深な謎を残したまま、謎の一つだった老婆の願いを叶えることで救いのあるラストを描いたものとまでは理解できる。

これも、純文学の一つの形なのだろうか。


尾崎世界観『転の声』

文學界2024年6月号

現役ミュージシャンである著者による、SNSが成熟し、コロナ禍を経て、Web3の技術が静かに浸透する2024年という「今」にしか書けない小説。

テレビ出演するところまでは来たものの、大物ロックバンドに比べると評価のいまいちな中堅ロックバンドのボーカリストが主人公。常にSNSでエゴサーチして、承認欲求を満たし、また傷つけられている。SNS依存症とでもいうべき、病んだ状態。

チケットを売る際に、「プレミア(付加価値)」を付けて販売する転売ヤーの存在を異なる視点から描き、いまの日本を舞台にしながらも有り得そうな虚構の舞台を構築したことは大きく評価できる。

主人公の他者からの承認を求める病んだ状態は、多くの人が共感するところだろう。その主人公が見た「定価」のファンの心配する表情を描くラストは、彼にとって救いなのだろうか。


朝比奈秋『サンショウウオの四十九日』

新潮2024年5月号

こちらも、現役の医師である著者にしか描けない設定だと感じた。「結合双生児」という症状を発展させ、一つの身体に二人の人格が共存する主人公たち。心の中で二人が対話する中で、医学的な説明や思春期の感傷、近親者の死に伴う感情の変化が描かれる。

自我や意識とは何か?という問いについて、哲学や脳科学の見地からの意見が描かれていて興味深い。四十九日というプロットにまとめ上げる手腕も見事。


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