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ヨーガスートラ第4章(独存の章)の要点と全体の感想

 ヨーガスートラの面倒くさいところは、最終目的地点まで到達したかのように説明したのに、次の瞬間には全く別の説明が始まったと思ったら以前の話と繋がったり、ということがやたらと現れることでしょう。
 そして第四章はめっちゃ難しい。哲学というよりも形而上学のようなものです。なので今回の記事は普段以上に専門的でマニアックなものになってしまいました。

 それでは一旦これまでの復習をまとめてみます。

 第一章で心の働きを止滅するには『修習と離欲Ⅰ-12』をすれば良いと言って、離欲とはどういう事かを説明し、次いで修習とは三昧に至る実習であるとして「自在神祈念」「慈悲喜捨」「プラーナの制御」「特殊感覚への集中」等により『無種子三昧(ニルビージャ・サマーディ)』という究極の三昧に至る方法が述べられた。

 第二章では『クリヤー・ヨーガ』という三昧へ至る方法と煩悩を弱める方法から始まる。第一章で三昧に到達する方法は説明されましたが、何でここで煩悩の話が出てくるのだろう?第一章から出せば良いのに、と疑問に感じませんか?
 そしてクリヤー・ヨーガとはタパス(熱行・苦行)、聖典読誦、自在神祈念だという。
 自在神祈念は第一章でスートラを七つも使って説明したやんけ、またしつこく繰り返すの?とパタンジャリさんの粘着質な性格が窺えます。
 よく読めば、第二章の記述の大半は、煩悩が有るから苦しみが湧く。その煩悩とは何か、なぜ現れるのかを見極めて分析する一種の心理学のようなものになっています。
 有名な『八支則』は、この煩悩を滅するための修行法で、第二章ではその初めの五支則までが説明されました。さらに言えば八支則二番目のニヤマにはクリヤー・ヨーガのタパス(熱行・苦行)、聖典読誦、自在神祈念が再度記述されていました(パタンシャリさんはよっぽどコレがお気に入りだったのでしょうね)

 第三章では八支則の残り3つの説明から始まります。ダーラナ、ディヤーナ、サマーディを合わせてサンヤマとし、その超常の力によって独存(カイヴァリヤ)に至る方法が述べられました。


 さて、第四章では解脱達成能力(超能力)はサンヤマ状態でなくても使えるようになる。から始まります。
 おそらく大半の読者は「ヨガの根本経典ってヨーガスートラというモノが有るらしい。その肝となるのはヤマ・ニヤマとかいう八支則らしい。ヨガを始めたらそれらを知っておくのがあたりまえのようだ。知らんけど」くらいの感覚で読み始めたものの、八支則なんてなかなか表れず、訳の分からん哲学講座みたいのが続いて、やっと八支則が登場したのに、その途中で章が分かれるわ、次の章でサマーディというゴールかと思ったらさらにその後にサンヤマとかって何じゃそりゃ、からの超能力ってSFですか?スピですか?
からの第四章では、サンヤマしなくても超能力出るよ❤️ですからねぇ。理解が追いつかなくてもしょうがなくないですか?
 その上、超能力発現の方法としてタパス(熱行・苦行)は有るのに第一章でI-23からI-29まで七つのスートラで事細かく説明した自在神祈念はありません、いったいどこへ行ったんだ(笑

 まぁヨーガスートラはパタンシャリ先生の著作というより編集ですから、当時の哲学者、宗教者、ヨーガ行者、呪術師、錬金術師etcから集めた修行方法をまとめ直したモノと考えたら納得です。ただ、もう少しスマートに編集したらどうかとは思います。なので個人的見解として第四章はパタンジャリ本人ではなく後継グループの作なのではないかと思っています。


 さて第四章の要点(というか感想かも)

 解脱(独存)へ至るパワー(能力、シッディ)を得たとして、まだ解脱には至っていないところから話が始まる。
 ということは最終的な解脱までの道筋、最後の壁、最後の心構え、その手の教説が書かれていると予測されます。
 そう思って読むとⅣ-2でプラクリティの転変についてふり返り、五大元素やらマナス(思考)やら感覚器官や運動器官やら自我意識の転変が語られています(Ⅳ-4)
 そういえば第三章の超能力の作用対象は上記の五大元素やらマナス(思考)やら感覚器官や運動器官が相手でした。プッディやアハンカーラ、さらにその大元となるトリグナの働きを明らかにするのがこの章の本筋かもしれません。

 ざっくりとまとめてみます。
 自分でも意識していない、潜在意識に刻まれた記憶因子(サンスカーラ)は生物として輪廻転生する大本命の自我と不可分であり、無くすことは出来ない。
 ただし、カルマを超越してサンスカーラを消し去ることによってトリグナの活動も止められる。そのためには深い瞑想でプルシャと同じ『観る力(五感によらない認識能力)』によってプラクリティの活動を知ることである。
 もう少し深読みすると、プルシャとプラクリティという二元論は何故必要だったのか?
 サーンキャ哲学以前(ヴェーダ時代の末期、初期ウパニシャッドといわれる、佛教が始まる前後の時代)は、ゆる〜い一元論でした。世界はブラフマンから成り立っていて、それが我々人類の中核にも存在する。それをアートマンと呼ぶ。
 ちなみに現在の印度哲学の保守本流のヴェーダーンタ哲学による梵我一如思想は、7〜8世紀に作られた(つまりヨーガスートラより後の話)といわれるもので、シャンカラ先生がブラフマン原理主義に戻ろうとして打ち立てた一元論の哲学体系です。なのでヴェーダーンタの言説によって二元論のヨーガスートラを説明することには無理や矛盾が発生するのです。
 さらに言えばアドヴァイタヴェーダーンタにより、一神教的原理主義者の融通の効かないバラモンを増やしましたが、それはまた別の話でなので、今は初期のゆる〜い梵我一如の話に戻ります。

 『サッチダーナンダ(sat + cit + ānanda)』という言葉があります。これはブラフマンの本質を表す言葉で、(真の)実在/善/浄、根源的な知、(解脱の)歓喜とされています。

 サーンキャ哲学では、このブラフマンの一元論を批判しました。

◆「(真の)実在」が真実なら、世界は不浄や悪等の多様性は何処から産まれたのか?真実在だけが有れば良いのに何故この世界は存在するのか?
◆「根源的な知」というモノが有るのなら、無知や無明という煩悩を産み出す根源的な苦しみなどが何故起きるのか?
◆「本質が歓喜で出来ている」のなら悲しみや苦しみが何故有るのか?

 ブラフマンやアートマンという宇宙の根源的な存在と、我々が暮らしている現象界とは本来別物なのではないか?そう考えると、苦しみ多いこの世界は、この世界で実在していて、それとは別に、もっと本質的なアートマン的な存在が有ると考えた方が納得しやすいと考える人々が出てきました。二元論の始まりです。

 悩み苦しみを感じている、この自分という存在は、いつかその肉体を脱ぎ去る時が来る。それは服を着替えるのと同じことで、服が汚れたり破れたりしても、それは私の本質が汚れたりしたわけではない。
 それが理解できていたとしても仮の自分と外界との関わりが苦しみを生み出してしまう。外界との関わり、行動は全てサンスカーラ(潜在印象)に記録されるのだから、最終的には、そのサンスカーラを消し去ればトリグナの振動(活動)も鎮まる。
 ヨーガスートラの哲学的な旅は、深く瞑想することで、サンスカーラを消し去り、この現象世界から抜け出すことが出来る。そう言っているだけです。ただし、そのためには第一章に戻って「実習と離欲」それも「長期間、慎重に継続」することが大切なのです。スートラの文言の一つ一つを常に意識して読誦することが必要なのです。一度や二度の読み返しではなく何度も何度も読み返し、繰り返し実行することが本質に近づく王道なのです。聖典読誦とはそういう意味でしょう。バガヴァッド・ギーターではコレをジュニャーナ・ヨーガと呼んでいます。同様にバクティ・ヨーガは自在神祈念(イーシュヴァラ・プラニダーナ)、カルマ・ヨーガはヤマ・ニヤマに置き換えると分かりやすいかもしれません。そしてヨーガスートラは頭でっかちな理論だけを弄んだ書物ではありません。実習のガイドブック(道案内)なのです。

 この記事の最初にも書きましたが、解脱に至ったように見えても何度も最初の場所に立ち戻る。まさに輪廻(サンサーラ)のような構造であり、真の解脱に至るまでは何度も振り返って読み直す書物なのでしょう。
 それがヨーガスートラの真の姿だと思います(個人的見解です)


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