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今日もかつ丼を食べた。
折につけて、私はかつ丼を食べる。仕事がひと段落したら。試験が終わったら。小説を一篇書き終えたら、かつ丼を食べる。正確には、そうなってしまった。
つい数年前までの私にとってかつ丼は特別好きでも嫌いでもない、ただの料理の一つでしかなかった。今だってそんなに好きかと問われると、語る言葉は無い。
ただ数年前、私の友人が死を選ぶ前に「かつ丼が食べたい。」と言った。彼女はかつ丼が大好物だったのだと。
しかし彼女は美しく痩身でいる為に、何年もかつ丼や炭水化物のようなモノを自分の人生から排除して暮らしていた。そして人生を降りる正にそのときにあっても、もはや数年食べていない食事をストレスで荒れた内臓が受け入れることはなかった。
彼女が荼毘に付された後、私はかつ丼を海に投げた。人は死ねば無になる。そんなことに意味がないことは重々承知していた。しかし私は私のことを救う為に、千円と交通費を払って環境汚染に及んだのだった。
月日が流れ、私はきっと客観的に見れば恵まれすぎているくらい平穏な暮らしを送っている。ただ元来の社会不適合の性質のせいで上手くなじめない。
「やっぱり、そんなに言うほど良いもんじゃないな。」と思う。生きることも、幸福であることも、かつ丼を食べることも、何もかも。
日々、相変わらず日常の些細な小石に躓いては絶望し、小石に向かって怨嗟を垂れ流している。こんなことは何でもない、積み重ねていかなければ毒にならない程度の、気分だけの絶望だ。
だから、今日もかつ丼を食べた。別に大して好きでもないし、手間がかからない割にお店で食べるとまあまあなお値段がするし、胃にもたれて予後に響くし、食べると身体に割り下の臭いがつくし、好きじゃないからどの店のやつも同じような味がして機微も解らない。そういうかつ丼を、今日も食べた。
友人の代わりに食べているわけじゃない。ただ生きることの象徴だ。今日も明日も私は生きて行く。
美しく生きることに拘泥しはしない。健康な内臓を持って生まれ、維持できるくらいには正常な生活を送っている。幸福な日々を送り、ただ、「ざまあみろ。」と口にしながら楔を刻んでいく。
その得難い価値を思う。
今日まで生きてきたことも、明日も明後日も幸福が続くと解り切っていることも、私にとってはこんなに胃もたれするくらいインパクトのある得難い価値だ。黄金の山を丼ぶり一杯平らげることが容易いわけないじゃないか。
かつ丼が食べられるうちはまだまだ大丈夫だと信じられる。次の楔まで頑張るのは悪くない。
「全部、悪くないぞ。」と自分に言う。
店を出て、午後の仕事をするためにオフィスに戻った。
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