本当の色
われわれが普段これはこの色と思っているものは単に光が反射し、拡散しなかった色が目に届いているからその色に見えるのだ……ということを認識しているだろうか。
つまり、光源が変われば物質の色は変化するということなのだ。
しかし、現代において、物をみるときに蛍光灯を光源として見ていることがほとんどである。これは、茶道家としてはいささか情けないと思っていた。
何故かといえば、それがここ半世紀ほどの最近のことで、我々の見ている色と、昔の人たちが見ている色が異なるからである。
自然光は白くない
こう言うと、何を言っているのか?と、思う人がいるかも知れない。しかし、光は温度によって色が変わることをご存知だろうか?
光は最も高い温度で初めて純白となる。我々が見ている蛍光灯の色はやや青味を帯びていて、自然光との比較で白く感じているに過ぎない。
コンピュータではRGBという光の三原色を合成し、それぞれ256階調で構成して、256×556×256=1677万7216色を表現する。その中で自然光はややBが弱く、黄色みがかって表現される。
しかし、この自然光下の白が人類史上本来の白として認識されてきた色であることに注意が必要なのだ。
つまり、自然光で道具をみなければ、本当に見たことにはならない。極論ではあるが、利休らが、鈍翁らが見た色とはそれなのだ。
だが、我々は本当に自然光の下で物を見なくなってしまった。
闇を恐れ、闇に抱かれた人類
人の歴史とは闇に光あることの歴史でもある。
松明に始まり、焚火、篝火、蠟燭、菜種油、灯油、ガス燈、電球そして蛍光灯。それらは闇を切り裂き、任意に闇に戻った。そう、人類は闇を支配しようとしてきたのだ。
人は眠るときに明るいことを望まない(偶に明るくないと眠れないという人が居るがそれは例外である)。闇を支配したが故に安心して闇の中に身を投げ出せるようになったのだろう。
文明人に撮って、闇は恐怖の対象ではなく、安心して眠れる象徴になったことを示したのが、利休の昏い茶室ではなかったか。
待庵の闇さは他の茶室と比べても群を抜いている。そこに微妙に異なった黒い道具が並ぶと、案外浮き立って見える。
完全な闇ではない昏さなだけに、黒という色の違いがはっきりとしてくるのである。
そして、距離感の喪失によって狭い茶室が広々と感じられ、闇に抱かれるのだ。
利休の目指したのは、物質本来の色を見よという試みであっのかも知れない。
本当の色とは
利休の考えた闇の帳の中で物を見るというのは、物の本質を目に頼らず「みる」――すなわち五感で味わうということではなかろうか。
心で見るからこそ、物の価値の軽重が分かり、触れるからこそ目で見ただけでは分からないものが看てとれて、研ぎ澄まされた空間の中で本質を見極められると考えたのではなかろうか。
虚飾を剥いで無駄を極限まで省いた利休らしい内面性の追究である。しかし、これは非常に分かりにくい。
いわゆる内面世界の具象化であり、外面世界の抽象化でもある。それは即ち、具体的な図案を用いない言葉の内側にあるイメージを引っ張り出すものである。
言われてみれば、近年の道具は蛍光灯の下で映える道具ばかりだ。それ故、分かりやすい明示された季節感が図柄となって道具を飾っている。
これらを自然光の中で見たとしたら……毒々しくならないだろうか?
茶人も茶道家も作家も職人も問屋も道具屋もそろそろ蛍光灯の下から這い出たほうが良いのではなかろうか。