リレーエッセイ 夏目漱石『文芸と道徳』に寄せて 澤田孝平 ~漱石の『文芸と道徳』を読む~
こちらはリレーエッセイの前文となります。
【告知】リレーエッセイ企画第二弾! 夏目漱石の講演「文芸と道徳」を読む|ダフネ (note.com)
以下、本文です🖊
漱石が死んでから百余年が経った。その間に、社会の道徳も、個人の欲する道徳も、ずいぶん変わったことだろう。それでもなお漱石の文学が、生き生きと命脈を保ち続け、僕たちを魅了してやまないのは、きっと道徳の変化とは関係なしに、漱石の描いた、社会と個人の自然の間で引き裂かれる人間の苦悩する姿が、ある普遍性を持って僕たちの目に映じているからである。個人は社会に勝つことはできない。だが近代的個人とは、あたかも川の奔流に抵抗しながら流されていく小石の如きものであり、社会がそこに厳として存在する限り、よろめきながらも自らを立て続けることをやめるわけにはいかないのである。僕たちが漱石の文章に見るのはその苦悩に苛まれた個人の姿であり、漱石の創作の眼目もそこにあったはずだ。漱石は『坊っちゃん』や『猫』のような小説はいくらでも書ける、と言ったそうで、それらは教授職の片手間にもかかわらず、驚くほどのスピードで書かれた。従って、むしろ職業作家として歩み出した『虞美人草』以下の作品群に、漱石の意識的な創作が読み取られるべきはずで、そこに現れるのは、社会や他者と相容れぬ自我の中で鬱々と日を送ることを余儀なくされている寂しい人間であり、少なくとも僕には、単純明快で直情経行の「坊っちゃん」型の人間よりは、彼らの方が漱石の小説の主人公らしいような気がする。
ところで、ここで引用した、文学と社会の不即不離の関係にあるという漱石の認識は当然のことだ。personalとuniversal、特殊と一般の問題、言い換えれば個人的な思索の表現の結晶が、いかにして他者に伝わるか、という問題に無関心でいられる作家はいないのであり、文学は言葉で紡がれた、ある社会の中で生かされてきた人間の表現である以上、社会と没交渉でいられるような文学は存在しないのだから。問題は、その両者の関係、つまり社会が文学に対してとる、あるいは逆に文学が社会に対してとる態度のあり方のはずだ。漱石は文学において、どういう態度を取ったか。また、漱石にとって文学はいかなるものであったか。
よく知られるように、漱石の「文学」の原体験は、幼時親しんだ漢籍の経験だった。
そして、その後進んだ英文学をも、最初この点から理解していた。
江藤淳の言葉を借りれば、「金之助にとって漢学が「身ヲ以テ国ニ徇へ君ノ危急ヲ救フ」ことを教える学問であるならば、英学は明治という新時代においてさらによりよく「国ニ徇」える道を用意するはずであった」(『夏目漱石小伝』)。しかし、英文学は決して漱石に安心を与えなかった。この間の事情については講演『私の個人主義』に詳しい。少々長いが、引用する。
漱石は、別の言葉を引けば、この「英文学に欺かれたる如き不安の念」(『文学論』)を抱いたまま松山・熊本で教師生活を過ごし、いよいよ孤独と不安の淵に沈んだイギリス留学中、ようやく転機が訪れる。
ここまでたびたび「序」から引用してきた『文学論』は、よく知られているように、ここから書かれた試みであった。文学の全体を一望できる根底的な地点を発見すること、個別を超える普遍的一般的な文学論を自らの手で成し遂げるということ。自らが「失敗の亡骸」と呼ぶこの著作の内容が妥当なものであったかはともかく、辻邦夫『「全性格の描写」への道』から引くと、
。そして、たとえ『文学論』が失敗しても、「自己本位というその時得た私の考えは依然として続いて」(『私の個人主義』)いた。
しかし、注意すべきは、漱石は、ようやく掴み取ったこの「自己本位」の孤独や辛さをはっきりと知っていた、ということである。再び『文芸と道徳』から引く。
自己本位というのは孤独なものである。それは、自らを立てることの努力が不断の緊張を強いるだけではなく、自らを立てることによって、他者としての社会と衝突し、それが何か「不安の念」を、茫漠たる「恐ろしさ」を感じさせるからである。その意味で、漱石は「自己本位」を掴み取ったというよりも、むしろ追い込められたとさえ言いたくなる。桶谷秀昭は、『淋しい「明治の精神」』において、漱石の『こころ』を、「明治の精神」の持つ二側面に注目して論じている。「「自由と独立と己れとに満ちた現代」が、先生が殉死したあの「明治の精神」の一面であり、他の二面は、「自由と独立と己れ」の、いわば「自己本位」の精神の犠牲となり、寂莫に襲われざるをえない淋しい「明治の精神」である」。近代的自我のエゴイズムが、否応なしに引き受けざるを得ない他者との、あるいは「社会の道徳」との相克、それから生じる不安や寂しさ。それが漱石の文学を形づけるものの一つである。
僕は「文芸と道徳」について書こうとして、ずいぶんその本筋から外れてしまったような気がする。ここで一応の結論めいたことを書いておく。漱石が「文芸と道徳」で述べたように、社会の道徳と文芸が切っても切り離せないものであることは当然のことだ。だが、個人的な情念の発露としての文芸は、どこかで必ず社会とぶつかる。社会と個人の調和という課題は、最後まで漱石の解決できなかったことだ。武者小路実篤は、「こころ」の評で、漱石がいずれ社会を、個人の側へ調和させていくだろうと言っているが、漱石がその方向へ進まなかったことは言うまでもない。未完の小説『明暗』の津田は永遠に他者と不和を感じたままである。ただ、僕たちの目につくのはその結果ではなく、時代の課題と真摯にぶつかった漱石の姿勢であり、最初に言ったようにそれこそが僕たちを漱石に惹きつけてやまないものなのだ。だから、僕は、文学とはむしろ、その問いの解決を最終的な課題にしているのではなく、その問いとの格闘の形跡に本来の意義があるのだ、と言いたい。
追記
筆者が約束の期日を大幅に超えてしまったことで、二ツ池氏並びに同人諸氏に、大変迷惑をかけました。モロサカ氏が素晴らしいエッセイを書いておられるのに、二の矢三の矢を継ぐ間がこうあいてしてしまっては、せっかくのリレーエッセイの効果が上がりません。読者の皆様には、どうか今後もわれら「ダフネ」の活動を暖かく見守っていただきたく思います。
【参考文献】
夏目漱石「文芸と道徳」,三好行雄編『漱石文明論集』所収,岩波書店,1986
夏目漱石「私の個人主義」,三好行雄編『漱石文明論集』所収,岩波書店,1986
夏目漱石「『文学論』序」,磯田光一編『漱石文芸論集』所収,岩波書店,1986
江藤淳『夏目漱石小伝』,江藤淳『決定版 夏目漱石』所収、新潮社、1979
桶谷秀昭『淋しい「明治の精神」』,『文芸読本 夏目漱石』所収、河出書房新社,1975
辻邦夫『「全性格の描写」への道』,『文芸読本 漱石読本Ⅱ』所収,河出書房新社,1977
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