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いま、求められる文学とは モロサカタカミ ~漱石の「文芸と道徳」を読む~ 

前文(二ツ池七葉)↓↓


以下、本文です(モロサカタカミ)

寝苦しい夜が続いておりますが、皆さんはいかがお過ごしでしょうか。
同人誌ダフネのモロサカタカミです。
今回は夏目漱石の「文芸と道徳」についてリレーエッセイをすることとなりまして、私が一番手、というか前座を務めることとなりました。「文芸と道徳」は、青空文庫に収録されており、それほど分量もないので、お時間のある方はエッセイを読む前にぜひそちらをご覧ください。以下にリンクを貼っておきます。

「上滑り」の開化

タイトルにあるように、「いま、求められる文学」とは何なのだろう、というのが私が「文芸と道徳」を読んで浮かんだ疑問です。文学と道徳は本当に不可分なのか、もしそうならいまの時代の道徳とはどんなものなのか。その疑問を考える前に、まずは漱石の見た明治維新後の社会について少し考えていきたいと思います。

先ず漱石がいたのだ。これが第一義の問題であり、一人の人間の複雑をきわめた人生に触れるための、第二義的な要因としての明治時代の日本が問題になるにすぎない。 (中略)「文明開化」の日本の社会が、夏目金之助という優れた知性の持主と激しく衝突する時、はじめて彼の精神の劇が生れる。意識するとしないとにかかわらず、作家は自分の生をうけたそれぞれの時代と対決しているのだが、しかしそこから生ずる劇の何と多様であることか!

江藤淳、『決定版 夏目漱石』、新潮文庫、2020年、pp.112-113

上にあげた引用は、弱冠23歳で画新的な夏目漱石論を発表した批評家、江藤淳の「作家と批評」という論文からの引用です。ここで述べられているように、私たちはどのような時代が作家を生んだのか、ではなく、どのように作家がその時代と闘ったのかを考える必要があります。漱石の場合は、「近代化」、「文明開化」の時代と闘わなければなりませんでした。漱石は、講演「現代日本の開化」で、文明開化について以下のように述べています。

一言にして云えば現代日本の開化は皮相上滑(うわすべり)の開化であると云う事に帰着するのである。無論一から十まで何から何までとは言わない。複雑な問題に対してそう過激の言葉は慎まなければ悪いが我々の開化の一部分、あるいは大部分はいくら己惚れてみても上滑と評するより致し方がない。しかしそれが悪いからお止しなさいと云うのではない。事実やむをえない、涙を呑んで上滑りに滑って行かなければならないと云うのです。

夏目漱石、「現代日本の開化」、『私の個人主義』所収、pp.62-63

漱石は近代化に対して、排外主義的なナショナリストでも、進歩主義的な知識人でも、ましてや封建制に戻ろうとする懐古主義者でもありませんでした。自然主義の作家たちのように破滅的な生活を送ることもせず、現実社会に根を下ろす生活者として一生を終えた人物でした。リアリスト漱石の目から見て、外圧による日本の近代化は、決して華々しいものではなく、欧米列強に抵抗するための苦肉の策として映ったでしょうし、事実そうだったのでしょう。

では、この「上滑り」の問題は漱石の生きた明治に特有の問題なのでしょうか。私たちの生きている時代は「上滑り」していないでしょうか。私はどうも怪しいと思います。「涙を呑んで上滑りに滑って行かなければならない」という言葉は、明治人の心情をよく表しているとともに、令和の私たちにも暗い響きを与えているように思います。この「上滑り」の感覚は、もしかしたら明治維新後から今に至るまで、日本社会が抱えている問題なのかもしれません。その問題を論じるのはまた別の機会にしますが、来年戦後八十年という節目を迎えるにあたって、もう一度日本の近現代史を捉えなおす努力が必要なのではないでしょうか。まあ考えてもしょうがないのかもしれないですが、この「上滑り」の感覚の気持ち悪さ、根っこに触れていない感覚がずっと私の中にあって、それは私個人の経験からくるものも大きいと思いますが、もし分かってくださる方がいたら嬉しいところです。

近代化も民主主義も、西洋からもたらされた舶来品で、私たちはそれらの品々を上手に扱っているようで、肝心なところが本当は分かっていないのではないでしょうか。スマホの使い方は知っていても、スマホがどのような構造で、なぜ動いているのかは知らないように。なので、漱石の抱えていた問題意識を知ることは、現代の「上滑り」を考える上で私たちに示唆を与えてくれるものではないかと思っています。二ツ池さんが、今回夏目漱石でリレーエッセイをしようと提案してくださったのも、そうした考えがあったのだと思います。

タテの文学とヨコの文学

ここで少し文学の話もしたいと思いますが、文芸批評家であり翻訳家の伊藤整は、夏目漱石と森鴎外について、次のように述べています。

夏目漱石や森鴎外は、その生活者としての立場が責任のあるものであって、地位や職業や家族を捨てた社会逃亡者となることができなかったから、逃亡もせず、破壊もせずに、生活を調和させようと、その原理を理屈によって考えたのである。その理屈によって人生を考えたという点では、漱石や鴎外は、ヨーロッパの文士たちと同じような社会性を持った文士であった。 

伊藤整、『改訂 文学入門』、講談社文芸文庫、2004年、p.170

漱石が社会性を持った作家だということは、みなさん納得できることだと思います。「文芸と道徳」でも、道徳を離れて超然と生きることはできないと語っているように、彼にとって創作活動はそのまま社会と地続きのものでした。伊藤整は、家庭や恋愛といった他者との関係を描いた文学を「ヨコの文学」、志賀直哉の『城の崎にて』や太宰の『ヴィヨンの妻』などの、生に上昇したり、死へ下降していくタイプの文学を「タテの文学」とし、こうも述べています。

この後者の下降と上昇による生命認識の関心は、人間の存在の仕方から言えば、昇るか下るかする上下運動によって生命そのものをとらえるもので、実存的意識を追求したものと言ってよい。しかし、上昇と下降意識が生きて働くのは、生活の極限的な場であって、実生活をする人間にとっては、その日常生活の意識は、社会的関心というものになってヨコに拡がっているのである

伊藤整、『改訂 文学入門』、講談社文芸文庫、2004年、p.212

であれば、漱石の文学はヨコの文学と言えそうです。先ほども少し述べましたが、漱石は社会性のある作家であったため、すぐに生か死かを問うような文学や、破滅に突き進んでいくような要素は少ないように思います。『こころ』の先生は自殺をしますが、それはKに対する悔恨からくるもので、自然主義の作家たちのような芸術至上主義的要素はあまり見当たりません。漱石の関心は、人と人とがどう調和するか、そしてどうして人は調和しえないのか、というところにあったと思います。自然主義の作家たちや後の作家たちのように、芸術至上主義から自殺をしたり家族を犠牲にしたりすることもなく、社会常識に沿った生き方をしたというのは、漱石の文学史上の特質であり、その常識感覚こそ、私たちが彼から学ぶべき点ではないでしょうか。

1914年12月に撮影された夏目漱石

いま、求められる文学

今までの内容をまとめますと、漱石は「上滑り」の開化の時代にあって、他者との調和を目指すヨコの文学の作家でした。その漱石がなぜ文学と道徳の関係を論じたかと言うと、両者が不可分な関係にあり、文学の潮流が、その時代の道徳、社会通念に沿ったものであると指摘するためでした。そして、今後の道徳がどのようなものになるのか、考えさせるためでした。「文芸と道徳」では、浪漫主義と自然主義の二つが取り上げられ、漱石は今後の道徳について以下のように述べています。

物は極まれば通ずとかいう諺の通り、浪漫主義の道徳が行きづまれば自然主義の道徳がだんだん頭を擡(もた)げ、また自然主義の道徳の弊が顕著になって人心がようやく厭気に襲われるとまた浪漫主義の道徳が反動として起るのは当然の理であります。歴史は過去を繰返すと云うのはここの事にほかならんのですが、厳密な意味でいうと、学理的に考えてもまた実際に徴してみても、一遍過ぎ去ったものはけっして繰返されないのです。繰返されるように見えるのは素人だからである。だから今もし小波瀾としてこの自然主義の道徳に反抗して起るものがあるならば、それは浪漫派に違いないが、維新前の浪漫派が再び勃興する事はとうてい困難である、また駄目である。同じ浪漫派にしても我々現在生活の陥欠を補う新らしい意義を帯びた一種の浪漫的道徳でなければなりません。          

夏目漱石、「文芸と道徳」、『私の個人主義』所収、講談社学術文庫、2020年、p.118

この箇所は現代においても非常に示唆的ではないでしょうか。世間では「~を取り戻す」という類の言説で溢れていますが、昔の価値観をそのまま現代に移し替えただけでは必ず齟齬が生じます。多少の改良が無ければいけません。私は明治~昭和前半の文学を読むことが多いのですが、彼らの口調をそのまま真似して文章を書くと、やはり古くさく見えると思います。

では、本題に入っていきたいと思いますが、現代においてどのような文学が求められるのでしょうか。まず、現代の道徳はどのようなタイプのものなのでしょうか。私にはどうもはっきりしないというのが正直なところです。現代は漱石の時代より複雑になり、多様な価値観が出てきています。「みんな違ってみんないい」という相対主義が流行し、多様性という言葉の裏に隠れて、人と人の分断が加速してしまっています。単に分かれるだけなら問題ないのですが、今は互いが互いの主張を一方的にするだけで、双方向の議論が行われていないように思います。道徳がない、というと悲観的ですが、なにか大きな流れとして、ひとつの道徳はないような気がします。

では、そんな社会において、どんな文学が求められるかといえば、私は教訓も社会性もない、情緒のみの文学です。漱石の意見に反していると思われるかもしれませんが、最後まで読んでいただければ、このタイプの文学も重要だと理解していただけると思います。

このタイプの文学の代表が、私は俳句や短歌だと思います。そうした文学は、社会的メッセージがない、独立した文学です(もちろん例外はあると思いますが、大体の傾向として)。それは社会性に乏しいので、一見閉じられた、俗世から離れた文学のように見えますが、情緒のみであるため読みの余白がある文学だと言えます。

読みの余白があるということ、それはあらゆる解釈を受け入れる余裕があるということです。どんな政治的主張を持った人でも、どんなバックグラウンドがある人でも、俳句や短歌を楽しむことは、比較的容易です。俳句や短歌の内容だけを見れば、たしかに道徳とは無関係でしょう。しかしもう少し俯瞰して見てみると、短い言葉で綴る詩は、短いからこそ様々な解釈を生み、そのどれが優ってるとか劣ってるとかは判断のつかないものです。そして、曖昧な言葉だからこそ、他者の解釈も容認しやすい。なるほど、そういう意見もあるのか、と柔軟に対応できます。社会性が無いゆえに社会性を生む、という逆説がここでは成り立つように思います。

アイルランド出身の作家オスカー・ワイルドは、『ドリアン・グレイの肖像』の序文で、「すべて芸術とは、まったく無用なものである」という言葉を残していますが、文学を含めて芸術作品は、なにかの役に立つものではありません。出版社やギャラリーが儲かるという点では有用ですが、読者や鑑賞者にとっては、その作品を体験すること以上に、作品は役には立ちません。あるのは作品を通して得る情緒だけです。

たとえば芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」という句にはなんの社会的、政治的メッセージも読み取れません。ただ、蛙が池に飛び込んだ様子を詠んだだけです。それが、受け手一人一人に情緒を生むのです。17音しかないからこその読みの余白があるのです。生活のすべてが政治化し、経済合理化される現在において、余白としての文学というものも、評価してよいのではないでしょうか。考えてみれば、常に自分とは何かについて考えたり、他者との調和を考えるというのも、非常に疲れるものではないでしょうか。私は俳句を作ったりもしますが、生活の中に季語が入ることで、これまでとは違った視点で眺めることができ、少し豊かな気持ちになれます。俳句や短歌も、人の気持ちを豊かにするものであれば、漱石の言う「道徳的」な文学と言えるのではないでしょうか。

おわりに

文学というものがいま危機に瀕していることは皆さんご承知のことと思います。それは世の中が経済合理性や、効率化を重視するようになった弊害と言えます。そんな時代だからこそ、「無用の用」としての、「ゆとり」としての文学が社会に必要なのではないかと、私なんかは思います。文学を含め、芸術という「ゆとり」が生活から失われれば、私たちの生活は機械やAIと変わらないものになってしまうのではないでしょうか。また、他者と共存するという人間本来の性質を失う危険がないでしょうか。

最近、現実でもネットでも広告が非常に増えているように思います。広告は、その商品やサービスを売るのが目的ですから、基本的に顧客に買ってもらうために、考える余裕をあまり与えません。広告が増えていることと、日本社会に余裕がなくなっていることは無関係ではないはずです。

「ゆとり」というのは、他人やほかの物事を考える余裕があるということです。漱石が考えた個人主義は、自己本位でありつつ、他者の自由も容認するという、非常に常識的なものでした。このような常識が無くなりかけている現代だからこそ、文学という「ゆとり」が大事なのであり、漱石を読むことの意義があるのではないでしょうか。

長文にもかかわらず、最後まで読んでいただきありがとうございました。もしよろしければ、来週も他のメンバーがエッセイを書きますので、引き続きご覧いただければ幸いです。


参考文献:
伊藤整、『改訂 文学入門』、講談社文芸文庫、2004年
江藤淳、『決定版 夏目漱石』、新潮文庫、2020年
夏目漱石、「文芸と道徳」、『私の個人主義』所収、講談社学術文庫、2020年
---、「現代日本の開化」、『私の個人主義』所収、講談社学術文庫、2020年

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