
【当事者目線】不登校を語られる時に抱くもの
1.不登校は「甘え」という意見で、どれほど傷つくか
フリースクールの是非や通信制高校の賛否で盛り上がることがあります。学校に行けないのは「甘え」、フリースクールや通信制高校へ通わせるのは「甘え」、そのような声が飛び交うこともあるようです。そこで意見を繰り広げている人の多くは、政治家であったり教育関係者であったり、保護者の方であったり、そもそも全くその問題とは関係がないが野次馬感覚で首を突っ込んでいる人だったりという様に見受けられます。いずれにせよ、そこで議論をしている大半の方は、自分自身は「不登校を経験していない」という立場でお話されているように感じます。もちろん、中には、元不登校という立場で声をあげられている方もいるとは思います。しかし、もし不登校や元不登校の当事者であれば、そんな無遠慮・無配慮なことは言わないだろうと思えてならないことが多々あります。当事者の気持ちが分からないであるから、元不登校や元登校拒否も含めた当事者を傷つける発言ができてしまうのではないかと思ってしまいます。
私は、一人の登校拒否経験者(不登校気味)であり、一人の発達障がい当事者です。だから、それのせいで、他人より苦労をしたとは思いません。学校に行きにくい・特性を抱えているということのおかげで、特別に幸せな想いをしたこともあると思っています。何にせよ、極論、生きていれば大変で幸せということは万人に共通しているので、不登校だから、発達障がいだから、他の人と何かが違うとは考えていないタイプの人間です。
長くなりましたが、上記の前置きの上で、不登校に近い体験をした私が、発達障がいを抱えている私が、「不登校」や「発達」についてを身内や先生方や世間が語った時に、感じること思うことを今回は書きたいと思います。
2.絶対に分かることのない領域
1において、
もし不登校や元不登校の当事者であれば、そんな無遠慮・無配慮なことは言わないだろうと思えてならないことが多々あります。当事者の気持ちが分からないであるから、元不登校や元登校拒否も含めた当事者を傷つける発言ができてしまうのではないか
と書きました。不登校を味わったことのない人は、不登校を語れるほど、不登校の人の気持も分からないだろうというような内容です。ただ、だからといって、自分の辛さを共感してほしいとか、なんでこの苦しみが分かってもらえないんだなどとは思いません。学校に行きづらかった自分の方が、教室で王道に生活していた人よりも苦しんでいたと言う気もありません。なぜなら、私も、教室でずっと学習や生活をしていた仲間の気持ちや大変さが分からないからです。
最近では「スクールカースト」というワードが定着したように思います。同じクラスメイトなのに上下関係や序列が生まれてしまい、コミュニケーション能力や成績、運動神経の良さなどによって、一軍・二軍・三軍などという概念が生まれたようです。たしかに、姉や友人たちの姿を思い返すと、みんな周囲の目を気にして、友達関係や所属先を安定させるために、一生懸命に努力していたように思います。王道に朝から夕方まで教室や部活で活動するのも大変そうだし、そこにはそこの苦労があったんだろうなと今は思います。そのような集団生活の苦悩を私は感じることがありませんでした。言ってみれば、はじめからスクールカーストに属していないので、ランクを気にする必要がなかったのです。
長くなりましたが、教室に行けなかった私は、一見するとキラキラした青春時代を送っていたように見えるクラスメイトの大変さを感じることはできません。さらにいうと、登校拒否に陥っている我が子を心配する、当時の両親の気持ちも正しくは分かりません。よく、サポートの大きさを表して「中学受験は親の受験」などといいますが、不登校の苦悩も当事者以上に保護者にかかることがあると思います。私は、私を心配してくれていた両親の辛さを悟っているようで悟りません。
もちろん、言うまでもなく、学校に行きにくい当事者は辛いのです。苦しいのです。ただ、クラスメイトも苦しんでいるし、保護者も苦しいというのも確かです。そして、各存在は、互いの体験を経験してみないことには体験できないのです。
3.経験していないことに口を出すということ
もし登校拒否だった私が、
「いいよな。みんなは教室に行けて。みんなと一緒で授業受けて、部活に出て、毎日楽しいことばかり。気楽なものだよ。」
みたいなことをみんなの前で発言をしたら、何人かからは反感を買うでしょう。
「こっちだって、勉強も人間関係も必死の思いで努力して苦しみながらもやっているんだよ」
と何人かは思うでしょう。口に出すかは分かりませんが、私は無神経な発言をしたとみなされるのではないのでしょうか。
冒頭の「不登校の経験のない人に不登校の是非を語られた時の感情」という話に戻ります。不登校の経験をしたことがない人から
「フリースクールなんて遊ばせておくだけで、こんなところに通う子どもが
増えると国がダメになる」
などと言われるのは、当事者からしてみれば反発心が生まれる以外の何物でもありません。それは、上記の通り、クラスのみんなが教室に来ない人から
「いいよな。みんなは教室に行けて。みんなと一緒で授業受けて、部活に出て、毎日楽しいことばかり。気楽なものだよ。」
と言われるようなものに近しい原理の苛立ちになると思います。
4.経験していないことには口を噤むしかないのか
今日の私の話では、自らが経験していないことには口を噤むしかないととらえられそうですが、なにもそのようには思いません。月並みになりますが、最後は互いの「気持ち」になると思います。自分が経験したことのないものを真っ白な心で感じることが大切だと私は考えます。
話は少し変わりますが、人間でも知らないものを理解するということは大変なことのようです。本を読むにしても、既に知っている分野の本であれば、知っている知識、さらには大方予想できる結論から容易く読めますが、本当に未知の領域の本を読み進めるのは大変です。知らないことについて読むということについて、言語学者の外山滋比古氏は、
未知のこと、ほぼ完全に未経験なことがらをのべた文章というものは、読み手にとって暗号のようなものである。ざっと一読してわかるように考えたら大間違いである。想像力をはたらかせ、筋道を見つけ、意味を判断するという高度の知的作業が求められる。
と述べています。
私たちは、自らが経験したことのない領域の感覚を正確に認知することはできません。だからこそ、外山氏のいう「高度の知的作業」を通して、互いの想いを察するのです。未経験なことを決して安直に分かったように言葉にするのではなく。