
【総集編】不登校と宿泊行事
今回は、ASDで保健室登校であった私にとって最大の鬼門となった宿泊行事について書きます。
生まれつき、光や暗闇、騒音などに過敏であった。また、食べ物や好みに関してこだわりが強い子どもであった。
ただ、幼稚園や小学校低学年の頃は、皆勤賞をとるほどに安定して登校しており、家族も発達を疑うことはなかったという。
しかし、小学校4年生で給食に関して担任と衝突してしまい、登校拒否を起こすようになった。正門まで来ても、あと一歩、登校できない私の姿を見た養護教諭が、小児神経科の受診を勧めてくださり、10歳で発達障がいの気質に気づくことができた。
その後は、入眠などの薬を飲みながら、保健室登校を挟みながら楽しく学校生活を送っていた。
1.身体がついてこない
給食の一件で登校拒否になりながらも、また、保健室登校の期間が長くなりながらも、何とか最後は教室で楽しく過ごせていた4年生が終わりました。
5年生の担任の先生とは今でも年賀状のやり取りがありますが、昔から発達のことや登校拒否への理解がとても深い先生だったと思います。そんな幸運なクラスに入ることができたのですが、私は4年生の後半以上に苦しい、自律神経失調症に悩まされました。めまい・立ちくらみで、廊下を真っ直ぐ歩くことさえできなくなりました。そして、慢性的な保健室登校状態になりました。登校するのがやっと、保健室まで行くのがやっと、教室まではとても上がれないという状況でした。
なぜ、理解の深い先生に出会えたのに、激しく体調を崩してしまったのか。いまだに理由は分かりませんが、おそらく成長期・思春期ということで、身体と心のバランスを激しく崩してしまったのだと思います。
気持ちは、教室でみんなとワイワイ楽しみたいという感情で100%満たされていましたが、身体が追いついてこないというのがその時の実情でした。
身体さえ元気ならみんなと楽しめたのに
ととても悔しい気持ちでいっぱいでした。
2.自然学校
私は神戸育ちなのですが、当時の神戸(兵庫県)には他地域の小学校より長めの宿泊行事が設けられていました。自然学校というもので、私たちが小学5年生の時は、5泊6日という長さでした。親と離れた宿泊などまだあまり体験したことのない5年生が、5泊6日の宿泊行事に立ち向かうのです。ちなみに、私の学校は6月にこの自然学校が行われたと思います。
私たち一家と担任の先生や養護教諭の先生、それから小児神経科の主治医は一気に悩みました。
果たして、5泊6日の自然学校など行けるのか?
と。
3.保健室登校のリーダー
悩んでいる間にも、自然学校に向けての準備は刻一刻と進んでいきます。例えば、自然学校で使うナップサックを家庭科の授業で作りました。
そして、みんなが気になる、自然学校の班長選びや班づくりも進んでいきました。
ここで、不思議なことが起きたのですが、なんと自然学校の班長の1人に、ずっと保健室にいた私が選挙で選ばれました。
班長の選び方は次のようでした。36名いるクラスの中で、班長にふさわしいと思う人の名前を男女一名ずつ紙に書いて投票します。そして、男女それぞれ投票数の上位5人が班長と認定されるのです。私は、男子の中で投票数が3位だったそうです。
保健室にいたのにどこをどのように評価されたのか気になりますが、おそらく前年(4年生)までの振る舞いを良いように評価してくれた人が多かったみたいです。元来は、班長などを務めることも多かったので、ダニエル(私)ならできると思ってくれたのかもしれません。
ただ、私はまだ幼かったので、この班長投票の結果にも呑気に喜んでいましたが、先生方からしてみれば悩みがより一層深刻化したと思います。
ダニエル君、班長辞退した方が良いよ
とは言えないし、かといって、教室にも来れていない、5泊6日帯同することがまず不可能なダニエル君にこのまま班長をさせるとダニエル君本人もクラスのみんなも大変だし
というのが本音だったのではないかと思います。
ただ、この時の担任の先生は、そのような悲観的なことは一切口にされませんでした。むしろ、私が班長に選ばれたことも一緒に喜んでくださり、
保健室に居たって、どこに居たって、見てくれてる人は見てくれてるんだよ
みたいに自信をつけさせてくれる声かけをしてくださりました。
おそらく、学校側としては、班長でも何でも任されたものは全部この子(私)に経験させてあげて、できるところまで学校側からはストップをかけることなく進ませて、それでこの子(私)がダメになったら学校でカバーしよう
と考えてくださっていたのだと思います。
4.自然学校はやめとくか
ただ、準備が進み、自然学校の日が近づけば近づくほど、私はより体調を崩すようになりました。自然学校の重圧にやられていたのだと思います。
自然学校どころか隣駅の小児神経科に行くのもフラフラしていたある日、診察の場で主治医は言いました。
自然学校は行かなくて大丈夫。もう十分頑張った。
そのような発言でした。
廊下も真っ直ぐ歩けない、隣駅の小児神経科に来るのがやっとの5年生が、5泊6日も親元を離れて平気だとは思えません。ましてや、自然学校なので、現地に行った暁には、山登りなどアクティブな課題がたくさん待っているので、ここまで身体が弱っていてはどうしようもありません。主治医がストップをかけるのはもっともだと思います。
私と母は主治医の話を聞いて、同意の返事をし、診察室を出ました。
ただ、ただ、
中待合室に向かいながら私はこれでいいのか、と思いました。兵庫県で育った人なら大抵のみんなが共有できる自然学校という思い出を自分はつくることができないということがとても悔しく悲しく思えました。
中待合室で「やっぱり行きたい」とポロポロ涙をこぼしました。
泣いている私を見た看護師さんが再度診察室に入れてくださりました。主治医の先生は笑顔で、
それなら行ってくるか
と言ってくれました。
私は笑顔になりました。めまいも立ちくらみもその時は忘れました。
自然学校に行くことで覚える苦しみよりも、自然学校に行けない苦しみの方が大きいと感じる私にとって、無茶とも言える自然学校への参加決定は最高の薬となりました。
5.行きのバスでリタイア
みんなと一緒に自然学校に行きたいというある意味、自分のわがままを貫き通して参加したものの、行きのバスの中で既に参加したことを後悔しました。
バスに乗って早30分で気分が悪くなったのです。私は乗り物酔いはほとんどしません。実際にこの時もバスに酔ったのではなく、みんなで詰め詰めに乗車しているバスの雰囲気に酔ったのです。途中の休憩スポットからは、前列の先生の隣に陣取ることとなりました。特に吐くほど気持ち悪くなったわけではありませんが、目的地に着く前から私の気持ちは不安定になりました。そして、なにより、身体にも不調の兆しが現れました。
6.発熱
宿に着いてすぐ、検温をしました。微熱がありました。風邪を引いていたわけではなかったのですが、行きの3時間のバスのストレスで自律神経が狂ってしまったようです。到着して早々、私は保健室部屋に向かうこととなりました。
7.課外活動
自然学校は、米を炊いたり、キャンプファイアしたり、登山したりと課外活動、いわゆるレクリエーションが盛り沢山です。しかし、ほとんどのものに私は参加できませんでした。その時間の大半を保健室で過ごしていたのですが、あまりの辛さに記憶が残っていません。何をして過ごしていたのでしょうか、と自分に問いかけたくなります。
何より、思い出すと謝罪したくなるのは、班長の任務を放り投げていることです。①の方に書いた通り、私は保健室登校ながら、クラス投票で班長でした。5年6組5班の班長だったことを今でも覚えています。ペアーの女子の班長の名前も顔も覚えています。本当に迷惑をかけました。この時のそのペアーの班長とは、高校生になった時に予備校で出会いました。たまたま話す機会があったので、それとなく謝りました。私を思う存分休ませてくれてありがとうとも思います。
8.校長先生と相部屋
記憶から抹消したいような苦しい時間でしたが、楽しかったこと、行ってよかったと思えることもありました。
保健室の住人だった私ですが、夜はそこで寝ることはできず、何だかんだあって私は校長先生の部屋に転がり込むこととなりました。校長先生と2人部屋です。私の出身校は結構なマンモス校で児童数も多く、校長先生と1対1で話せるチャンスも少なかったと思うのですが(校長先生はとても熱い方でいろんな児童と遊んでくれるのですが)、そんな校長先生を私は独り占めさせていただきました。
校長先生ともう一人男性の先生と3人でお風呂に入り、他愛もない話で笑い、校長先生の分の布団も敷いて安心して眠りにつきました。
例えとしてどうなのか分かりませんが、校長先生は親戚の叔父さんのような立ち位置で、言い換えると教師と生徒といった垣根を超えて、私にいろいろな話をしてくださりました。一生の財産です。
9.マイクロバス
強行作戦で自然学校に帯同したものの、やはり限界はありました。そこで、全5泊6日の中の3日目で前向きにリタイアすることにしました。
自然学校は5泊6日と長いので、先生方も前半と後半でシフトが分かれています。前半の先生方が神戸に帰るタイミングで私も神戸に帰ることにしました。
クラスメイトに別れを告げて、前述の担当の班に詫びを入れ、7・8人くらいの先生方がいるマイクロバスに同乗し私は自然学校から引き上げました。
このマイクロバスは、行きのバスと打って変わって、とても楽しかった思い出です。途中の休憩所で先生方からソフトクリームをご馳走になり、楽しく駄弁りながら帰りました。
何より心強かったのは、3時間という時間を何名かの先生方と共有できたことで、私のことをよく理解してもらえたことです。自然学校が終わって、通常の学校生活に戻っても、これだけ理解してくれる人がいれば安心度が増すと思いました。
10.後日談
全6日のうち半ばで神戸に戻った私は、早く帰った分、家でゴロゴロしていても仕方がないのでいつも通り学校の保健室に行くことにしました。
学校に行くと、5年生の担任団7〜8名のうち、前半シフトで先に神戸に戻った3〜4名が私をあたたかく迎えてくれました。そして、せっかくなので、自然学校の宿舎にFAXでも送ろうということになりした。
先生方と私で写真を撮り、その写真と寄せ書きを宿舎に送りました。何気ないことかもしれませんが、先にリタイアした私に役目・役割をくれる当時の先生方を尊敬します。
王道から離れた自然学校にコンプレックスを覚えることもあります。みんなとレクリエーションしたかった、なぜ自分の身体はついていけなかったのかと思うことは今でもあります。
でも、発達障がいがあっても、その個性に合わせて唯一無二の体験を送らせてもらえた私は幸せ者だと思います。
いま、発達と団体行事のことで悩まれている方は少なくないと思います。一番の合理的解決、かつ、大人になった時に充足感が残る案が生まれることを願います。