
【発達障がい・倫理】人の能力を比べるということ
話の結論は上記リンクの記事と似ています
ちょっと今回は遠回りですが
1.違うものを比べるということ
昔、TVのバラエティー番組で林修先生が仰っていました。
「僕は小学校1年生の時の算数の授業で先生に訊いたんですよ。
りんご3個とみかん4個、合わせていくつですか?っていわれても、
りんごとみかんは足せないじゃないですか!」
と先生に質問をして困らせたそうです。確かに、中学校の数学の授業になれば、りんごがxでみかんがyとかに置き換わるのでしょうが、3x+4yは足せないので、林先生の主張も筋が通っているなと思いました。というより、小学校1年生で気付けるなんてなんと優秀な方だと思いました。
ところで、上記の質問を投げかけて先生を困らせた当時の林先生は、時間をかけて自己解決に陥ったそうです。
「そうか。りんごとみかんでは足せないが、果物というくくりにすれば足すことができる。」
林先生は小学校低学年の算数の授業で抽象化のコツを掴まれたということです。
さて、私たちは日常生活で「比較」という思考なしに選択はできないと思います。「お肉は、今日より明日のほうが安い」、「降水確率は、今日のほうが明日より低い」、「Aという会社はBという会社より年収が高い」などと、買い物から人生を左右する就職活動まで、比べるということをしてから選びに入ると思います。
ただ、その「比較」という思考が恒常化してしまっているが故に、誤った判断方法を辿っていることがあると思います。少なくとも私はあります。
倫理学の観点から考えると、「比較」ということは「共通の尺度」をもったもの同士を「量的」に照らし合わせる時にしか適切に用いることができないのです。
例えば、Aというりんごは270円で、Bというりんごは378円で販売されていたとします。より安いりんごを求めていたと仮定して、この場合は、りんごの価格という共通の尺度で双方の量的な価値を計ることができます。すなわち、
りんごの値段: B>A その差額は108円
というように、明確にどちらがお得かをはっきりさせやすいのです。このように、共通の尺度と量的な判断ができる場合、比較という思考はシンプルに結論へ導いてくれます。
しかし、その共通の尺度や量的な対照が難しい場合に比較をすると、かえって判断がつかなくなることがあります。
例えば、林先生が疑問に思われたりんごとみかんの例で考えます。
林先生がりんごとみかんを足せないと考えられた理由は、別品目だからということでした。実際に考えてみましょう。果物を一品購入に来たと仮定して
りんごは一玉378円、みかんは一袋650円
さあ、どちらがお得だろうか、と、純粋に比較できますでしょうか。今回は、りんご同士を比較した時とは違って、共通の尺度というものが見つけにくくなるので、純粋な対照はできないと思います。
もちろん、ある程度の「共通の尺度」は存在します。それは言うまでもなく「価格」です。378円と650円の違いは一目瞭然にして判ります。また、みかん一袋の中の個数を数えてみれば、架空の話ですが、650÷8(個)=一個81円というように単価も計算できます。
ただし、これで本当に純粋な比較はできるのでしょうか。
みかんとりんごでは栄養分が異なるでしょう、またそれを言ってはキリがないと思われるかもしれませんが、個々の好みの問題があるでしょう。つまり、どれだけ価格上、損を感じたとしても絶対にみかんが食べたいという人もいれば、アレルギーの関係でみかんは食べられないという人もいると思います。
比べて決めるということは一見合理的、かつ効率的なようで、使うタイミングを見誤ると、かえって損を感じたり、家族や周りの人から否定的に思われるもととなるでしょう。
比較は、客観的にみえる「共通の尺度」で「量的」に考えられる時のみに限定するのが賢明でしょう。
2.違う人と比べるということ
「僕は人に評価されることも
人を評価することも嫌いなんです。」
と仰った教授が大学時代にいらっしゃいました。卒業して6年ほど経った今でも、その方の新書が発売されれば購入するほどの恩師です。ただ、その発言を聞いた20歳の時は「何を言ってんだ。この人。」と思いました。当時はもっともっと生意気で尖っていたので「評価してくれないなら何のために自分は努力するんだと」と思いました。当時は「より良い評価のために努力するんだよ」と信じて疑いませんでした。
ただ、私も高校教員として、科目の習熟度や面接・小論文の出来を評価する側にも回りましたが、人と人を比べて評価する、しかもその評価する人間も違う人という構造に違和感を覚えるようになりました。Aさんという生徒、Bさんという別の個性をもった生徒、その2名を比べてどちらがより優秀かを判定するなんて、りんごとみかんを比べるより余程恐ろしいことです。しかも、その判定を教員という第三者の人間がするわけです。自分の仕事が、ひたすら恐ろしいと思えました。
1に書いたことを根拠に、私も大学の恩師ではないですが、人を違う人と比べるということに疑問を投げかけたいです。1で書いたことが全てですが、もう一度書くと、個性が異なる人と人とを比べるには、客観的にみえる「共通の尺度」がそもそもないですし「量的」に考えるということも不可能だからです。
もちろん、客観的な学力を測って上位から並べることはできるでしょう。例えば、英語の試験であれば、同じペーパー試験を受けた結果の点数という「量的」かつ「共通の尺度」が客観的に並ぶわけですから、生徒を比較することは可能です。ただ、だからといって、ペーパー試験でその人の値打ちが決まるわけではないでしょう。ペーパー試験で好成績を残すためには、学科の知識だけでなくそれ相応の努力や忍耐も必要となるので、好成績な人が優秀だという考えには同意します。しかし、ペーパー試験の成績順に人間の価値が並ぶとは思えません。なぜなら、1から繰り返してきているように、個性が異なる人と人とを比べるには、客観的にみえる「共通の尺度」がそもそもないですし「量的」に考えるということも不可能だからです。成績上位者は学科試験に関して優秀なのであった、その尺度とはまた違った世界、尺度のない世界で人間は生きていると考えるのが私にはしっくりきます。
3.発達障がいというラベル
私は、常々、障害者雇用枠の充実化を願い、またその実現のために何かできないかと考えています。今度の人生初講演会もその一環です。ところで、障害者雇用枠の充実化とは何なのか、少し以下に主観を書きたいと思います。
2に書いた通り、人はみな比較の対象外であり、全ての人にオンリーワンの個性があるというのが私の持論です。そして、もし年収なり社会的地位なりといった共通の尺度で測れる世界でナンバーワンになりたければ、そのために共通の尺度で測れないオンリーワンの武器で生き抜くということが人生だと思っています。これは私の思っていることです。
人はみな比較の対象外なのです。それは障がいや特性があろうとなかろうとです。大統領でもお医者さんでも学校の先生でも両親でも、誰もが他者とは比較不能な天からの才をもっています。だから、思うのです。
障害者雇用という形で配慮いただけるのはとても嬉しく有り難いお話である
何か物申すのも分をわきまえていないというものなのかもしれない
ただ、障がいだからといって特別扱いをしてほしいとは思わない
障がいというラベルに気をとられることなく、
一般枠の方と同じような感覚で、一人ひとりに合った業務をいただきたい
と私は思います。
身体が疲れやすいならそのご配慮、感覚過敏ならそのご配慮をいただけるのはとても幸いですが、だからといって業務を一般枠と大きく分けたり、はじめから「障害者雇用枠」というラベルでみるのではなく、一人の個性をもった戦力としてみていただきたいです。これは、一般枠の方に特技と個性があるのと同じです。もちろん、戦力になるために、必要な努力は何でも試みます。
障害者雇用と一般雇用は比較できません。
そもそも、従業員Aと従業員Bは同じ雇用形態であったとしてもくらべられません。
私たちは、障がいの有無以前に、比べられない社会を生きているのです。