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保健室登校が教員の原点となった


今まで度々書いてきましたが、私は小学校4年生で登校拒否を起こし、それ以降、学校まで行くことができても保健室登校や別室登校が常態化するようになりました。以下のリンクの記事にも類似のことを記載しています。

登校はできたものの教室に入れないという時、小学生時代は保健室に、中学生時代は別室に滞在していました。今日は、前者の小学校保健室でのお話です。

1.保健室の先輩

私が在籍していた小中学校は、比較的生徒数の多い学校でした。そのため、私と同じように教室に通いにくいという仲間も一定数在籍していました。よって、保健室登校なのは私一人ではありませんでした。常に、保健室には仲間がいました。

私が本格的に保健室の主になったのは、5年生の年でした。言うまでもなく、5年生は最上級生ではないものの、れっきとした高学年です。必然的に、私は「保健室の先輩」になりました。

先輩といっても、私自身、しんどいから保健室にいるわけで、他人のことを構っている余裕はなかったと思います。また、上級生と下級生といっても、保健室登校の当事者同士でできることなど限られているでしょう。

しかし、私はこの「保健室」という舞台で、人生初めて「先輩」という役割を覚えました。お節介になったとしても、困っている人の姿を見ると放って置くことができませんでした。父や祖父のお節介焼きの姿をいつも目にしていたことも影響していたのかもしれません。保健室で、先生に自分の想いがうまく伝えられずに困っている後輩や辛いことがあって涙している仲間がいると、自然と声をかけるようになりました。

保健室登校にも保健室登校を経験した当事者にしか分からない苦しみがあると思います。逆に言うと、保健室登校の当事者だからといって何でもかんでも共感できるとも思いませんが、先生や保護者以上に保健室登校の先輩である私の方が深い声掛けができることもあると当時から考えていました。

私が6年生の時、男の子を中心に、保健室の輪が広がっていきました。いつしか、2・4・5年生の仲間と一緒に学習したり、トランプをしたりするようになりました。おかげさまで、私の保健室登校は孤独さが薄まりました。

2.おかげで学校に行けると言ってもらった

6年生の時、私は保健室で後輩に算数をよく教えていました。これが人にものを教えるということの原点です。教室に入れない後輩たちに、保健室で算数を教えていました。

「ダニエル君、教えるの上手やわ」

とよく先生方に言ってもらえたので、よき思い出です。

また、私も含めてですが、保健室に来ているということは、そこにいるメンバーは皆、心身が不安定ということです。そんな所で、声掛けやお話を聞くなど、自分にできることは何かとさせていただきました。もっとも、私もめまいなどの自律神経失調症的症状とそれに伴う心理的な焦りでしんどかったのですが、「周りの人のために動く」ということが私の辛さを軽減させてくれました。

この頃、母とスーパーに買い物に行った際、保健室登校仲間のお母さんと出会うことが何度かありました。そこでは、

「ダニエル君がいるからうちの子は学校に行けてるんです。
 本当にありがとうございます。」

と感謝の言葉をかけていただきました。私と母は、そのかけていただいた感謝に対して、今現在でも、

「うちのダニエル自身がそもそも教室に入れないほど苦しんでいて、
 だから、保健室にいるのに、他人から支えになっているって
 感謝してもらえるなんて不思議やな」

とよく笑っています。

ともかく、私は独りよがりのお節介にもなりかねない程、保健室で先輩面をしていましたが、いただいた言葉を額面上捉えている限りは、それが一定は幸いしていたようです。

一学年下の後輩からは、卒業式の日にお手紙をもらいました。翌年、その後輩が中学校見学にやって来た時には、中学1年生の私が出迎えに行きました。今ではつながりが途絶えてしまいましたが、保健室登校だからこその強いつながりができたことを誇りに思います。

3.必要とされる価値

私が保健室登校に陥ったのは、繰り返しになりますが、小学校高学年の時です。多感な時期です。自分の存在価値や存在意義というものも少なからず考えられるようになった時期です。それ故の苦しみもありました。

しかし、価値のある無しという考え方自体が邪道なのでしょうが、私は保健室で後輩に必要としてもらえたおかげで、自分の肯定感を高めることができました。当時のメンバーにあらためて感謝したいです。

困っている人には勇気をもって一歩踏み出せば、よき関係を築くことができ、「情けは人の為ならず」の言葉通り、自分も救われるのです。

そんなことを学んだ原体験でした。

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