『心の研究』要約
拙著『心の研究』ですが、今のところ出ている情報が目次しかないので、
要約を書いてみようと思います。『表』と『裏』の内、ほとんど『表』についての要約です。始めに本の紹介文を載せます。その下が要約になり、最後に目次を載せます。
紹介文
始めに、心と物の関係から考え、現代的な物心、心脳の捉え方を見直し、世界に潜在する心に目を向ける。次いで、その潜在的な心は、形而下における諸相と照応関係にあることを示していく。視覚的なものと観念的なものが照応し、聴覚的なものと印象が照応する。味覚的なものと意味が照応し、嗅覚的なものと雰囲気が照応する、というように。潜在的な心と五感で捉える世界の諸相の、共通する形式を考えることで、それを明らかにしていく。つまり、潜在的な心は、五感で捉える諸相の元型(形相)となっていることを論じる。それは世界の一切が心の現れであることを意味する。
それから、地球を構成する地、海、空や、宇宙と心がどのような関係にあるのかを、それまでの議論を踏まえ、例によって照応させるように考えていく。
このような考えは、ユダヤ神秘主義のカバラ、イスラム神秘主義のスーフィズム、等の考えと酷似している。これは一つの神秘主義的哲学である。しかし、本書では神秘的なものと、形而下における事物を関係付けることを試みている。神秘的な世界の捉え方と、素朴な世界の捉え方を総合しようというのが本書の狙いになる。
本書は「表」の章と「裏」の章に分かれており、今、述べたのは「表」の章の概略である。「裏」の章は、「表」の章の考察を踏まえ、哲学の諸問題に応答する。そして哲学的思索の大量のメモを付してある。
要約
まず、物心が離れたものではなく、一つのものなのではないかという主張をする本書では、全ての存在の原点として「感じ」を据え置いている。例えば、火山にある石は厳めしく荒々しい「感じ」を持つ。ただの物質と呼ばれている石にも何かの「感じ」がある。これはただの主観的なものなのか。しかしそもそも石にそのような「感じ」がなければ、主観的にそういう「感じ」を抱くことも出来ないのではないか。
そこから「感じ」やクオリアは、ただ主観的なものに過ぎないのでもなく、ましてや脳の所産なのでもなく、と言った議論が続く。
その次に、身体の五つの感覚に対応する五つの「感じ」に展開する。
一気にまとめてしまうと、視覚→観念 聴覚→印象 味覚→意味 嗅覚→雰囲気 触覚→情報 になる。
見聞というように観念と印象は対になっている。また、意味と雰囲気は対になっている。当然だが意味は言葉にある。言葉は血肉化する食べ物であるから、食べ物には味があり、また匂いがある。言葉が食べ物に対応するなら、食べ物の味は言葉の意味に対応する。したがって味覚は意味に対応する。匂いとは嗅覚の対象であり、空気に存在するものであり、空気の感じは雰囲気である。
体癖論では上下型(思考型)の1種、2種は、1種が言語でものを考え、2種はイメージでものを考えると言っている。
これが『心の研究』で述べていることと整合性が取れている。
目と耳が対になるように、印象と観念が対になっていて、口と鼻が対になるように、意味と雰囲気が対になる。印象は観念化され、雰囲気は言語化される。
私たちは始めから明確に対象を意識しているわけではない。元は漠然とした印象や雰囲気と言った様態から、イメージ化したり、言語化したりする。
印象も雰囲気も漠然としているが、印象の方が内的なところを起点にするのに対し、雰囲気は外的なところを起点にする。
印象も雰囲気も、「~の感じがする」という表現で表すことが出来る。それを明らかにした時に、観念化したり、意味付けることが出来る。ただしかし、似たような感じが五つもあり、それはどのような意味があるのか、と少し疑問に思っていたところが私自身ある。
しかし体癖論を軸に考えてみると、これらが少し不思議な事態ではなくなる。この五つの感じ、ここでは四つの感じだが、この四つの感じを使うのは、二種類のタイプに分けられるのだ。もうすでに述べているが、観念化し物事を考えるタイプ(2種)と、言語化し物事を考えるタイプ(1種)だ。
印象と観念が対になり、雰囲気と意味が対になるのが疑わしい人は、逆を考えて欲しい。印象を言語化する、と雰囲気を観念化する、よりは印象を観念化する、と雰囲気を言語化する、と言った方がしっくり来ないだろうか。
この思考のタイプは雰囲気を言語化するのが、換言すればなんとなくモヤモヤした状態を言語化するのが、言語から考える分析哲学のタイプであり、印象を観念化し考えるのがフランスの現代思想的な考え方と言えるだろう。これは身体の使い方と関係している。つまりは体癖論を少しググるくらいで分かることで、身体の使い方、その習慣付いた癖、それが文化や考え方を規定しているはずで、考えてみると面白い事柄だ。
当然、タイプや傾向といった事柄であり、誰でも両方使っている。言語化すれば明確な観念になるし、明確な観念になれば、言語化することにもなるのだろう。
こういったことから「感じ」から考えるにあたって、それを展開する時に身体へと転じるのは得策だろうと思える。
残るは情報と触覚だが、とりあえず「感じ」から身体へ移ることが出来たので、省略しようと思う。
ここで移るという言葉を使ったが、これが本書の中でも重要な言葉になっていて、念頭に置いておいて欲しい。本書の中では移るということをあらゆることにおいて使っている。冒頭の方に例として出している、火山にある石は火山の「感じ」が移っている、ということだ。
身体の持つ感覚器官は環境を移している、あるいは写している、と言えるだろう。うつすという字もそれ自体うつる性質を持っている。語の曖昧さはこのうつるという性質のせいである。本書もうつるように出来ている。
環境をうつしている、ということで、その次に考えているのが、地球という環境についてである。地球の構成を大まかに分ければ、海と大地と空である。身体は環境からうつってきたものから構成され、環境に潜在する「感じ」を心を持っているはずである。例えば、食べ物の味や匂い、と言葉や意味、雰囲気はうつし合うような関係を持っている。
私は地球を構成するもの、海と大地と空を、心を構成する三つのもの、すなわち知情意に対応するものとしてみなしている。海が知性を大地が意志を、空が情を象徴するような存在になっている。つまり地球の構成は私たちの心の構成にうつっている。
そしてまた付け加えるならば、地球の構成の割合と人間の身体の構成の割合は似ている。地球の海の割合は7割であり、陸は3割である。この構成は私たちの身体の血肉の割合に似ている。
知性、思考とは巡らせるものであるが、脳を巡るのは血や電気信号である。脳は身体の一部分に過ぎなく、身体を使い思考をしているとも言えるが、その議論は今は省略したい。同じように筋肉や骨は意志の働きに作用する。力むという身体の働きと心の律する働きは連動している。このように心身論を考えてみてもいいだろう
ここに書いてあることとは別の論じ方で、知情意と大地と海と空について論じている。ただここで書いてあることの方が分かりやすい気はする。
少しだけ本書に沿い書くと、海を支配する動きとは「揺らぎ」である、という観点から考えている。魚も揺らぎ、タコもイカも揺らぎ、甲殻類も海中では揺らぐように動いている。この「揺らぎ」こそが知性の本源だろう。揺らぎは気付きという知性になる。
そして大地を支配しているのは、そこに立つ、ということである。立つことが揺らぐことに対するアンチテーゼである。海と大地、空は弁証法的である。立つことは律することに通じる。何事からか立つ、起つ、断つ、発つ、ということが出来、それらは意志を働かせることに対応している。
空は分かりやすい、天気は気分に喩えられるからだ。気分とは感情的なものであるので、空は知情意の内、情に対応する。空の心がうつってきたのだと言えばいいだろう。
その後に本書の『表」と『裏」の内、『表』の最後に当たる、宇宙について考えている。
本書の宇宙についての考えは結局、「感じ」に通じている。だからこの要約と逆さまにして考えてみてもいい。宇宙が出来て、長い年月を経て地球が出来て、人間が生まれた。そこには心があった、という風に。
『表」で考えた心を基に、『裏』では哲学の諸問題について考えていて、その後に『哲学メモ』が続いている。
『哲学メモ』では、その名の通り、私が考えたことをメモのようにして
書き散らしていて、一節、一節はバラバラだが、全体としては通じるような話になっている。
概要はこのようになります。
拙著を掲載いたします。
どうぞ、よろしくお願いいたします。
最後に
物に心があったら面白い、というただの好奇心が中学生の頃からあった。しかし実は私は唯物論から始まっていた。中学生くらいまでは強く唯物論を信じていた。しかし途中から、比喩的に表せるこの世界の心的な側面に気付いたり、無視しようにも無視できない、他者の気分が現れている雰囲気などから、心の在り処を探していた。哲学科の大学に入り、西田幾多郎の純粋経験という概念に感動し、ますます感覚的なものへ傾倒していった。大学を卒業した後も、哲学が止めようとも止められないので、仕方ないから放っておくと、考えが自然に進んでいった。本書はその思索がとりあえず形になった最初の本であるが、まだまだ考える他ない、というより考えることは止められないので、これからも続けようと思っている。もし本書を読み、心とは何かが微かにでも分かったと思ってもらえたら、私の何もせずボーっと考える時間が報われたことになるが、本当はそんなことはどうでもよく、ただ面白いと思ってもらえたら、それで私は満足です。よろしくお願いいたします。
目次
第一編「表」 九
第一章「心の雑考」 九
「心と感じ」 九
「心と魂」 十一
「うつり」 十三
「比喩」 十七
「心と脳」 十九
「心と物質」 二四
「記憶と脳」 二九
「存在の濃淡」 三二
「対話と言葉」 三四
「愛と恋」 三七
第二章「心身」 三九
「心身の対応―五感において―」 三九
「視覚と観念」 四〇
「味覚と意味」 四二
「嗅覚と雰囲気」 四六
「聴覚と印象」 四八
「触覚と情報」 五一
「性と愛憎」 五五
「五感と身体」 五八
「方角 光と闇 男女」 六〇
第三章「地球と心」 六三
「地球」 六三
「海」 六三
「大地」 六六
「空」 六八
「海と大地」 七〇
「海と大地と空」 七三
第四章「感情」 七五
「魂と悲しみ」 七五
「悲しみ」 七九
「優しさ」 八〇
「恐怖」 八四
「空と感情」 八六
「喜怒哀楽・愛憎について」 八六
「晴れと観念」 八八
「雨と意味」 九〇
「風と情報」 九一
「安定しない天気と雰囲気」 九二
「雲と印象」 九四
第五章「宇宙と心」 九七
「夢と心」 九七
「宇宙と心」 一〇一
「創世」 一〇四
第二編「裏」 一〇八
第一章「哲学の諸問題」 一〇八
「時間」 一〇八
「月日」 一〇八
「意志と未来 愛と過去」 一一〇
「瞬間の感じ」 一一二
「付論」 一一五
「意志と魂と行為」 一一九
「自由」 一二一
「自由意志と眠るもの」 一二一
「付論」 一二三
「自由意志と自由」 一二四
「付論」 一二六
「私」 一二六
「独我論」 一二六
「想像―自己から他者へ―」 一二八
「他者」 一三〇
「他者の心」 一三〇
「他者と通じる場」 一三二
「他者を知る時」 一三四
「雰囲気と他者」 一三五
「身体における他者」 一三七
「倫理と価値と願い」 一四二
「死」 一四五
「存在の謎と悪」 一四七
第二章「哲学メモ」 一五〇
「絶対と相対」 一五〇
「愛と意志」 一五三
「愛と意志 言葉 時間」 一五五
「世界の生成論」 一五七
「魂における私と身体における私」 一五九
「意識の元」 一六一
「曜日」 一六四
「森」 一六六
「言葉 物と身体 意識 それぞれの起源」 一六七
「三つの意味」 一七二
「真善美と魂」 一七八
「関係性を持たせる」 一八一
「物の形式と心」 一八六
「比喩の正当性」 一八八
「意識再考」 一九二
「現れと働き」 二〇〇
「現象的意識と物自体」 二〇三
「対応している対立するもの」 二〇七
「受動的意識と能動的意識」 二一〇
「記憶と物質」 二一六
「続・受動的意識と能動的意識」 二一八
「連想・述語」 二二〇
「他我問題」 二二四
「魂 想起」 二二七
「存在の意味」 二三〇
「物と心」 二三三
「抽象的な心」 二四二
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