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しあわせ貯金

 人が発する言葉というものは、それまで生きてきた間に見聞きしてきた全ての言葉を無意識のうちにふるいにかけ、自然と自分の中に生き残った、いわば知性である。

 生まれた時から美しい言葉を発する親の下で暮らせば、その親に育てられた子供は、自然と美しい言葉を話す人間へと成長する。そうでなければそれなりだが、大人になっていく過程で様々な人と出会い、関わりを持ち、話をするうちに自分の発する言葉というものに、自然と気が向くようになるものではないだろうか。言っている意味は同じなのだろうが、それでもその人が話す言葉のニュアンスというものに、私は時々首を傾げることがある。

「幸せか、そうでないかは自分が決める」 

 この言葉を耳にした時、私には強烈な違和感しか残らなかった。幸せは意識して自分が「決める」ものではないし「決められる」ものでもない。幸せかどうかは自分が無意識に「感じる」ものである。ここに存在するものは、「理屈」と「感性」なのかもしれない。

 世の中には数字で全てを片付けたがる人がいる。それは絶対的なものであり、一+一=二が良い例で、それは絶対に間違いではないし、どうしたってこの他に答えはない。この正確さに身を任せていれば、人生間違いはないだろうし、全てにおいて合理的で尚且つ、暮らしていくのもあれこれ考えることもないから楽かもしれない。

 幸福度指数というものも存在するが、これもあってないようなもの、あてにはならない。そもそも、幸せか幸せではないかなんていうことを、数字で示すこと自体が、複雑な人間というものを理解していないような気がするのである。

 つい数日前、私は久しぶりに幸せな週末を過ごした。自分の汚れた部屋の掃除をし、書いた有料記事が一本売れて、思いもかけない素敵な人と繋がりを持てて、探していた古書が、売りに出した人には済まないくらい安価で手に入った。音楽を聴きながらその本を手に取り、破れかかっているところや剥がれかかっているところを修復しながら、カバーをかけ床に並べて眺めた。たったこれだけのことであるが、私はこれを幸せだと「決めた」のではなく、幸せだと心の底からしみじみ「感じた」のである。

 どれくらい幸せかを分かりやすく数字で示せと言われたら、私は断固それを拒否する。数字で幸せを表すことができるなら、私にとって人の幸せはもっと容易く手に入るものでなくてはならない。今を生きる全ての人が幸せでなくてはならない。幸せじゃない筈がないのである。そうかそうでないか「決める」のは簡単である。しかし、数字では表せない感性で「感じる」ことが、人間の本当の幸せというものだと私は思っている。

 感性で感じる全てのものは理屈ではない。一+一=二と割り切れるものでは決してない。だからこそ、その感性を常に育てていなければ、幸せに鈍感な人間になってしまう。そうでもないのに、自分は幸せだと、無理矢理決めつけなければならなくなってしまうのである。

 自分が幸せだと心底感じる瞬間は、苦行の連続である人の世で、そう多くはないかもしれない。だからこそ、ささやかでも幸せだと感じることが出来る感性は、どんな状況であっても持っていたいものである。いくつもの幸せを感じることができたなら、人生は、そして人は幸せに包まれて生きられる。

 感性を研ぎ澄まして、今日からあなたも「しあわせ貯金」始めませんか。

2025年2月10日 書き下ろし。

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