『歌は心』が口癖だった・淡谷のり子
『歌は心』が口癖だった気骨の歌姫
淡谷のり子(1907.8.12~1999.9.22)
【10年に一人のソプラノ】
昭和の歌謡界の女王と聞いて、人々がすぐに思い浮かべるのは美空ひばりである。
けれど、彼女は戦後民主主義の時代が到来し、歌うには何の制約もない時代に登場した歌手であり、その成長と共に文字通り戦後の歌謡界では女王であった。
しかし、歌いたい歌を自由に歌うことすら困難だった、軍国主義の時代の日本の歌謡界にあって、そんな時代と戦いながらも軍歌を歌わず、文字通り自分の好きな歌だけを歌った戦前の歌謡界の女王と言えば、やはり紛れもなく淡谷のり子その人だったと、私は断言したい。
淡谷のり子は一九〇七年八月十二日、青森県青森市寺町に呉服商・大五阿波屋を営む父・彦蔵、母・みねの長女として誕生した。
一九一〇年五月三日に青森市が大火に見舞われた際に店と住まいを失い、家業が傾き始めた。
それと時を同じくして彦蔵の放蕩生活が始まる。それまで耐え続けていたみねはその間、松井須磨子の自伝『牡丹刷毛』や須磨子が演じたイプセンの『人形の家』、更には平塚らいてうが創刊した雑誌『青鞜』を読んでいくうちに、娘二人を連れてゆくゆくは家を出ることを考え始める。
一九二三年四月二十八日、いよいよみねは決断し、二人の娘と共に本当に家を出て上京した。
この時、駅まで見送りに駆けつけてくれたのは父方の叔父・淡谷悠蔵一人だけだった。
上京後、のり子はみねに勧められるまま、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)に入学。意外にものり子の音楽人生のスタートはピアノだったが、ピアノ教師から「ピアノより声楽の素質がありそうだ」と言われ、ピアノ科から声楽科への編入試験を受け、合格後は声楽科で歌の勉強に励んだ。
この編入試験を受ける際、のり子の個人レッスンを進んで引き受けたのが、声楽科の教師だった歌手の荻野綾子だった。この時、綾子はのり子より九歳年上の二十五歳。天性の美貌と才能を持ち、人柄も抜群だった綾子は、学生たちの憧れの的であり、詩人の深尾須磨子も夢中にさせた。
その歌声はレコードにも遺され、綾子の美声と歌唱力を断片的に今に伝えている。
綾子は一ヶ月間、放課後の二時間をのり子のために使った。一時間は発生の訓練、残りの一時間は歌唱指導をそれは手厳しく、そして愛を持って指導したという。その甲斐あってか一ヶ月後の声楽科への編入試験を、のり子は無事合格したのだった。
しかし、女三人の暮らしは貧しく、家計の心配とは無縁な裕福な家の娘とは違い、いくら内なる才能を秘めていたのり子でも、歌だけを勉強出来る環境とは程遠かった。せっかく声楽科への編入試験をパスしても、予科の二年が終わる時には一年間、学校を休学することを余儀なくされた。
貧しさがのり子を歌の勉強から遠ざけたのである。
上京したその年の九月一日、関東大震災が発生する。神田にあった東洋音楽学校も全焼し、池袋の仮校舎での授業が続いた。この震災で一家の暮らしは益々苦しくなり、この頃、のり子はみねに代わって質屋へ通い始めた。年若い娘が困った顔をして質草を持って行くと、質屋の主も同情して少し多めに都合してくれたのかもしれない。
時期を同じくして、淡谷家の定番になった「目玉雑炊」が頻繁に膳に上がるようになる。
この目玉雑炊とはよく言ったもので、水面を覗くと顔が写るように、米が少なく水っぽい雑炊を覗くと目が写ることからみねが言い出したのが始まりだった。
それ程、淡谷家は貧しさのどん底にいた。
来る日も来る日も目玉雑炊ばかりの日々で、のり子は綾子の個人レッスン中にお腹が鳴るようになった。無理もない、年頃の食べ盛りの若い娘であるのに、満足に食べていなかったのだから。
こればかりはのり子にもどうすることも出来ず、綾子は聴こえぬふりをしていたが、のり子の家の経済的事情に薄々気づいたのか、自分の弁当を分けてくれたり、レッスンの帰りにうどんを食べさせたりしてくれた。時にはのり子の手に一円札を押し込んで来たこともあった。
そんな目玉雑炊を目の前にしても、貧しさを笑い飛ばしていた一家だったが、そうは言っていられなくなる事態が発生した。妹とし子の視力が徐々に低下し始めていることが判明したのである。
「まるで暗闇の中にいるみたいなの」
ある日、膳に置かれた茶碗を、手探りで探すとし子の姿を目にしたみねは愕然とした。心配して問い詰めるみねに、とし子が涙ながらに打ち明けた時も、一家の暮らしは相変わらず貧しかった。
しかし、とし子の失明を防ぐには一刻も早い治療の開始と、それに伴うそれなりのまとまった治療費が必要だった。家の経済的状況を身に染みて分かっていたとし子は、それを気に病んで、みねにものり子にも打ち明けられず、一人で失明の恐怖と不安に耐えていたのだった。
のり子はこの時、唯一頼れる叔父の悠蔵に、五円貸してくれと手紙を書き送った。しかし、のり子が一家の窮状を訴えた手紙に対して、悠蔵から届いた返事には金についての記述が一切ない代わりに、辛辣な文章が綴られていた。これに激怒したのり子は、悠蔵に絶交の返事を書き送った。すると、悠蔵から望み通りに絶交してやると再び返事が届き、それ以降、二人は本当に付き合いを断った。
後に政治家となった叔父の淡谷悠蔵は、この時期、旧家の因習を嫌って武者小路実篤の「新しき村」運動に共鳴し、青森支部を立ち上げ、新城でりんごの栽培を始めていた。理想に燃えて始めた暮らしだったが、その現実は理想とは大きく違い、悠蔵も貧しかった。
この時、悠蔵は五円どころか五十銭の金すらなかった。叔父と言えど、姪ののり子とは十歳しか年が違わなかった悠蔵は、若さゆえ見栄を張り、のり子にそれを正直に言えなかったのだった。
それをのり子が悠蔵本人の口から聞かされたのは、それから十五年経った、一九三八年十月十八日、父の彦蔵が塩釜で一緒に暮らしていた女の家で死去した際、遺骨を故郷の青森へ持ち帰った時のことである。この時、二人の絶交は終わりを迎えた。
のり子は休学届を出したその足で、当時、日本で唯一のモデル紹介所であった「宮崎モデル紹介所」へ画学生の叔父・桂井節雄に伴われて訪れた。
働こうと決意した時、のり子はためらうことなくモデル業を選んだ。
のり子が霧島のぶ子というモデルネームで初めてモデル台に立ったのは一九二四年三月からである。東北生まれの色白でキメ細やかな肌をしていたのり子は、画家たちの間で瞬時に人気モデルとなり、ありがたいことに長期に渡る契約が成立し、短期契約の仕事も決まっていった。
モデルの仕事は一回につき二十分ポーズを取って十分休憩を六回繰り返しての三時間。モデル代は美術学校が五円八十銭。錦町絵画研究所は七円二十銭だったが、モデルを務める際は兔にも角にもオールヌードというのが必須条件であった。どんな時も気丈なのり子だったが、東京美術学校の朝倉教室のモデル台に初めて立った時は、羞恥心と緊張のあまり貧血を起こしてしまい、学生たちから気つけの葡萄酒を飲まされている。これは同時期にやはり、ヌードモデルをしていた女優の原泉も同じ経験をしている。ヌードモデルが受ける洗礼なのだろう。
それでものり子は、モデルとして画家たちの前でポーズを取る際、画家の方からポーズをリクエストされる前に、自らきつい体勢を好んでポーズを取り、どんなに辛くても微動だにしなかったという。
それものり子を人気モデルにした理由であったかもしれない。
のり子は一日で二十円以上稼ぐ人気モデルとなり、はからずも美術史に名を残す画家たちの作品に、自身のいちばん美しかった時期のヌードを、後世にまで残すことになったのだから、人生どこでどうなるか分からないものである。
この頃、小説家の田口掬汀(きくてい)の息子で画家の田口省吾(せいご)からも、モデル代を特別に十円支払うという約束で、のり子は依頼を引き受けている。この田口の家で、のり子は生まれて初めてシャンソンを聴いたのだった。しばらくして、田口はのり子が東洋音楽学校の声楽科の生徒だと知ると、のり子の経済的援助を申し出て、のり子に復学を勧めた。丁度、のり子をモデルに二科展に出品した「裸婦臥像(がぞう)」が好評を博したことで、田口はのり子に恩を感じていたのだろう。
のり子は田口の援助の申し出を受けて、東洋音楽学校へ復学した。
その後、田口はのり子をモデルとしてだけではなく、プライベートでも好意を寄せるようになっていく。のり子に高価なドレスやハンドバッグを買い与え、コンサートやオペラに連れ出した。
一方、のり子は、あくまでモデルと画家という一線を保っていたが、一九二八年秋、田口がその関係を壊してしまう日が訪れた。それはのり子にとって、悲しい初体験となってしまった。
その日を境に、のり子は二度と田口の前に姿を現すことはなかった。
ちなみに田口は、のり子が戦時下で歌手としてあちこち慰問演奏に出かけていた最中の一九四三年八月十四日、四十六歳の若さで没している。
前田寛治の出世作となった「裸婦」のモデルを務めたのもこの頃のことだったが、この前田寛治も田口よりも十三年早い一九三〇年四月十六日に、三十三歳という若さで病死している。
【恩師 久保田稲子との出会い】
復学を果たした矢先、のり子の師である荻野綾子は詩人の深尾須磨子と共に、フランス留学へと旅立つことになる。綾子が後任としてのり子の歌の指導を託していったのが、後にのり子が生涯恩師と慕うことになる、久保田稲子だった。稲子は東洋音楽学校創立者の娘でもあり、綾子が師事したリリー・レーマンの弟子でもあった。稲子自身、師のレーマンに将来を嘱望されていた声楽家だったにも関わらず、歌の勉強途中で結婚を選び歌をやめてしまった。
そんな時期に、稲子は綾子からのり子の指導を託されたのだった。
この時、稲子は、
「これからは私と共に勉強してちょうだい。本気で勉強すると約束してくれるなら、私は他の人にはレッスンしません。あなた一人だけを教えます」
と宣言し、綾子からのり子のレッスンを頼まれたことものり子に話した。のり子は稲子からの思いがけない言葉と綾子の配慮に涙し、稲子と共に二人三脚で歌を学んでいくことを決意したのだった。
いざレッスンが始まると、稲子のレッスンは綾子のレッスンをも凌ぐ、それは容赦のない厳しいものだった。高音域になればなる程声が出ない。これ以上、高い声が出ないと言うのり子の言い訳は稲子には通用しなかった。なぜなら、稲子がレーマンから指導を受けた時、稲子自身もレーマンにのり子と全く同じことを言っていた。しかし、レーマンの指導の下、一日一日とレッスンを重ねて行くうちに、気がつけば楽に発声出来るようになっているのを、身をもって経験していたからであった。
自分に出来たのだから、自分が見込んだのり子に出来ない筈がない。そう思い、のり子の声が出るまで稲子はピアノで同じ音を鳴らし続け、根気強く発声させるのだった。当初は授業前の早朝レッスンだけだったが、稲子はのり子さえ良ければ授業後もレッスンをつけると申し出た。
稲子はレッスンの際、レーマンの著書「わが声楽法」に習って、のり子のレッスンを行った。
それは、何事にも当てはまることだが、毎日毎日、発声練習を絶やさずに行っていけば、無理なく高音を発声することが出来るようになるというものだった。
歌唱する際、高音域のC音・ドをクリアに美しく発声するためには、次のCシャープを越えて、さらにはD音・デーが出せる状態にしておく必要があると言い、のり子にスプーンを渡し、舌が上がらないようにそのスプーンで舌を押さえつけさせながら、声が出るまで発声させ、同じ音をピアノで鳴らし続けた。このレッスンは嘔吐を催す特に苦しいレッスンだった。
余りの辛さにさすがののり子も涙目になって、
「とてもじゃないが、こんな高い声は出ません。無理をさせないで下さい」
と弱音を吐いた。すると、稲子は、
「死ぬ気でやれば必ず声は出ます。このくらいのことで泣き言を言うなら、今すぐ歌をやめておしまいなさい。今すぐやめるか、死ぬ気でやるか、一晩ゆっくり考えてどちらにするかお返事なさい」
そう言って、教室を出て行ってしまったが、この時、稲子はどんなことがあろうと、のり子が歌をやめることはないと分かっていた。稲子が去った教室に一人残されたのり子は、上京してから今日まで、貧しい惨めな生活に耐え続けて来た日々が走馬灯のように頭の中を駆け巡り、この時ばかりはさすがののり子もおいおいと声を上げて泣いたが、勿論、のり子が歌をやめることはなかった。
翌朝、のり子はいつもの時間に稲子の元を訪ね、いつも通りレッスンを受けたのだった。
歌のレッスンに関しては誰よりも厳しい稲子だったが、のり子との年の開きはわずかに四つ。
綾子のレッスンの時と同様、ピアノを弾く手を止めた時、のり子の腹が空腹でグゥグゥ鳴るのが稲子の耳にも聴こえて来た。それ以来、レッスン中、稲子はピアノを弾く手を止めることはしなかった。
厳しいレッスンが終わると、稲子はフルーツパーラーへのり子を連れて行き、カツライスとホットチョコレートをご馳走した。稲子はのり子を朝食に誘っただけではなく、昼の弁当まで持たせてやった。その包みの中には、時に五十銭玉や一円札が忍ばせてあることもあった。
荻野綾子からのり子の歌のレッスンを託された久保田稲子は、綾子がのり子にしてやった以上に、のり子の歌のレッスン以外の部分にも心を砕いたのだった。
稲子がこれ程までのり子に目を掛けてやれた理由は、のり子の生まれ持った美声と、歌の才能に惹かれたのは勿論のことだが、稲子の家庭が裕福で、ドイツ留学までさせてもらったにも関わらず、自分は歌の勉強の途中で結婚を選び、歌を捨ててしまった。そのことが歌に一途な苦学生ののり子を見て、貧しさが理由で才能を枯らしてはいけないと思ったのではないだろうか。
そして、何より、師であるリリー・レーマンに対しての申し訳なさと同時に、のり子に自分の果たせなかった夢を託したのではないだろうか。
もっと言えば、のり子の歌声は稲子そのものだったのかもしれない。
稲子自身が語ったことではないが、私はこれを書くにあたり二人の交流を記したあらゆるエピソードを目にしたが、そんな気がしてならないのである。
とにもかくにも、稲子はリリー・レーマンの直弟子として学んだすべてのことを、孫弟子にあたるのり子に余すことなく徹底的に教え込むことに心血を注いだのだった。
一九二九年三月二十一日、のり子は東洋音楽学校を首席で卒業した。女子生徒の首席卒業生はのり子が初めてだった。翌四月、青山の日本青年館で催された、全国の音楽学校新卒業生代表によるコンサートで、のり子はウェーバーの『魔弾の射手・第二幕 アガーテの詠唱』を歌った。
訳も分からず、無我夢中で歌ったのり子だったが、翌日の新聞記事では「十年に一人のソプラノ」と、のり子自身も驚く大絶賛を浴びたのだった。
【クラシックとの訣別】
本来ならクラシックに進みたかったのり子だったが、一家の家計を背負っていたのり子にそんなことを言っていられる余裕はなかった。命懸けで遮二無二になって取り組んだ歌の勉強が実を結び、充実感と達成感に包まれたであろうのり子だったが、いくら新聞で「十年に一人のソプラノ」と大絶賛されても、相変わらず一家の暮らしが楽になることはなかった。
のり子は悩みに悩んだ末、浅草の電気館で幕間のアトラクションで歌うことを決意した。
幕間のアトラクションとは、簡単に言えば映画と映画が上映されるまでの間の時間に、歌手が歌を歌ったり漫才師が漫才をしたりと、いわば小さなショーのようなものである。
この決断は、のり子のクラシック歌手になる夢との決別、そして新しい流行歌手として生きて行くという、いわば決意表明のようなものであった。のり子がアトラクションでセミ・クラシックを歌った時、客はのり子の歌に大喜びして、手を叩き、口笛を鳴らしと大変な歓迎ぶりを示した。
このステージで、のり子は歌の持つ不思議な力を目の当たりにしたという。しかし、のり子が自分の進むべき道にしっかりとした手応えを感じた時、クラシック界はそんなのり子に冷たかった。
「クラシックは本物」「流行歌は偽物」という見方をされていた時代のことである。
風の便りでは、恩師の久保田稲子はのり子の顔も見たくないと言ったという噂が、のり子の耳に届いたのもその頃だった。これにショックを受けたのり子は、この時、稲子に手紙を書き送っている。
母校である東洋音楽学校は、卒業生名簿からのり子の名前を消し去った。
後に名誉回復はされたものの、この時ののり子の胸中を察すると、私は悔しくて堪らない。
いつの時代でもそうだが、人は仕方なく行くべき道を否応なしに変えざるを得ない時がある。
それは、のり子だけに限ったことではなかった。しかし、のり子にとって幸運だったことは、歌う歌の種類が変わっただけのことであって、歌を歌うこと自体は何ら変わらなかったことである。
荻野綾子と久保田稲子、この二人の優れた音楽教師から最高のレッスンを受け、死に物狂いで勉強し東洋音楽学校を首席で卒業しただけある、その歌唱を支える基礎がしっかりと作られていたことは、その後ののり子の歌手人生の大きな自信と支えになったことは間違いないだろう。アトラクションの幕間で歌う傍ら、のり子は次なる仕事を求めてレコード会社のオーディションを受け始めた。
最初にキングレコードのテストを受けたが、不合格に終わり、続いて受けたポリドールのオーディションでも声楽科出身の歌手ゆえに、マイクロフォンを前に声の音量を調節せずに歌ってしまったことで、何を歌っているのか聴き取れないと一度は不合格とされたが、その場に居合わせたドイツ人録音技師のブーレという人物が「のり子の声は良く通る声だからぜひ採用するべきだ」と粘ってくれたお陰で何とか合格。のり子は、一九三〇年一月『久慈浜音頭』でレコード歌手としてデビューを果たし、一年在籍の間、『夜の東京』や『ラブ・パレード』といったヒット曲を残したが、この時は印税もなく、吹込み料の二十五円をもらっただけだったという。その後、長い歌手生活の基盤となるコロムビアレコードに専属歌手として入社が決まったのが、翌一九三一年六月のことである。
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