ソウルでのデモから公共空間のふるまいを考える
ランチの帰り道、紺のチョッキに赤いハチマキを帽子に巻いた人たちが路上で待ち合わせしているのを見かけた。赤いハチマキには「단결 투쟁」と書かれていた。Google翻訳のカメラで翻訳してもらったところ「団結闘争」と訳されたので、労働組合のデモかもしれないと思って、彼らの様子をしばらく様子を見ていた。
50代くらいのおじさんが多いようだったが、若い男性もそこそこいる。彼らの数は次第に増えてきて、どこか別の場所に向かうようだった。3時のおやつをコンビニで買ってホテルに戻ろうとすると、大通りでデモ行進が始まっていた。先ほどとは違う団体のようで、車椅子の人たちが多く参加している。
1つ目のデモ:障害者の雇用環境改善?
先頭の車からマイクで話す女性の声が聞こえる。車はゆっくり進んだり止まったりしながら徐々に前に進む。
参加者は女性がやや多く、車椅子や手を引かれて道を歩く障がい者の人たちの参加も多く見られる。
多数の警察官に守られながら、デモが交差点を左折していくのを見送った。
さっきの「団結闘争」の人たちはこのデモには加わっていなかった。一体どこにいったのだろう、と思いながらホテルに戻ろうとすると、今度は別の方角からスピーチや音楽の大音量が聞こえてきたので、そちらに向かうことにした。
2つ目のデモ:労働組合の賃上げ要求?
紺のチョッキに赤いハチマキを帽子に巻いた先程の人たちが集結していた。こちらはデモ行進ではなく、道を封鎖して行うデモ集会のようである。
労働組合の賃上げ要求や障がい者雇用拡大といった趣旨のデモは、さまざまな国でよく行われているものだと思うが、今回遭遇したこの2つのデモが韓国社会においてどのような背景や意味を持っているか、僕は知らない。滞在の後半で韓国側のプロデューサーチームとのミーティングを予定しているので、そこで彼らの解説も聞いた上でもう少し考察を加えたい。今回はそうしたデモの内容は一旦置いておいて、路上での人の「ふるまい」という点からこの集会を観察することにした。
この2つ目のデモは、かなり手慣れた感じだなという印象を受けた。まず道を塞ぐための大きなトラックが数台停められており、会場前方にはステージが組まれている。ステージ左右の大きなスピーカーはクレーンから吊り下げられる形で設置されている。ステージ上部には巨大モニターがあり、デモのメッセージが表示され、誰かが登壇すると客席側中央のカメラで撮影された中継映像が映し出される。一般参加者は皆同じ紺色のチョッキを来て、手には緑のバルーンを持っている。赤いチョッキのスタッフが周囲に配置されて指示を出している。大きな旗を持った人たちが客席側から壇上へと行進するパフォーマンスがあったり、登壇者の呼びかけに応じて参加者がバルーンを両手にウェーブしたり、ミュージシャンが演奏して盛り上げるシーンもある。そして参加者は熱狂し、バルーンを叩き鳴らし、シュプレヒコールを上げる。
公共空間でのパフォーマンス
こうして改めて観察すると、デモは現代における集団的なパフォーマンスである。演劇的な演出要素がふんだんに盛り込まれている。参加者は公共空間に身を置き、自分自身の声や手振りを不特定多数の市民に観せてメッセージを表現する。場合によってはメディアがそれを取材して拡散する。公共空間を利用することが公に認められた表現と考えると、一種のパブリックアートだと捉えてもいいだろう。彼らは表現者として、公共空間において集団でふるまうことで、社会に影響を及ぼそうとしている。
日中韓でデモという「ふるまい」を比較しようとすると、まず3カ国の政治状況の違いによって大きな差が生まれてくるだろうが、そもそもデモという手段は今の社会において、どの程度有効なのだろうか。個々人や、同じメッセージを持つ共同体が集まって公共空間でふるまうことで、社会にどのくらいのインパクトを与えられるのだろうか。もっとクリアに言えば、個人は、社会にどの程度の影響力を持っているのか。
日本に住んでいて感じるのは、選挙で投票してもデモに参加しても、自分たちの社会に影響を与えることはできない、変えることができないというあきらめモード。物事は、一部の政治家や世界の覇権国家によって決められていくんでしょ、という無力感があるように思う。日本にいると特にそういった雰囲気を強く感じる。多かれ少なかれ、どの国にもそういう感覚というものがあるように思うが、短時間のあいだに2つのデモに遭遇し、参加する人たちの表情を見ていると、内容はどうあれそこに「変えられる」という希望を垣間見た気がする。
社会のオーナーシップ、人生のオーナーシップ
自分の属する集団を変えられるという希望は、集団に対するオーナーシップだと考えることもできる。こうした、社会を変えられるという実感、オーナーシップということは、国家レベルだけでなく、自分の仕事や人生に対しても同じようなことが言えるのではないか。つまり、自らの意思で職業を選択できているか、仕事の中で日々の業務についてどのくらいの裁量を与えられているかといった「仕事のオーナーシップの問題」でもあるし、自らの意思でパートナーを選び、自分の思い描く家庭を築き、自分が楽しいと感じることに多くの時間を割き、自分が一緒にいたい人と充実した人生の時間を持てているという「人生のオーナーシップ」の問題でもある。
人は1人では生きることができず、家族をはじめ社会の多様な構成員たちと共に生きることになり、そして社会のさまざまなレベルで折り合いを探す。オーナーシップとは、そうした社会的な折衷を通じてなお、個人が社会に対するオーナーシップを保てているのだろうか、という問いだと言ってもいい。そうした社会を構成する単位の中で最も大きなものが「国家」である。国家、地域、職場、家庭、それぞれのスケールの中で自分はどのくらい発言権があるか、どのようにふるまっているかということは、規模の違いはあれ、似たような構造を持っているのではないだろうか。路上のデモ集会を観察しがらそんなことを考えた。
パフォーマンスの演出効果
さて、現地で撮影した映像を少し編集してアップしたのだが、これを見て皆さんはどんな印象を受けるだろうか?
僕はまず、ミュージシャンの野外ライブのようだなと思った。トラックが配置され、映像などで演出の工夫が施されていている状況。ステージ上のスピーチで会場が盛り上がり、登壇者の呼びかけに応じて観客が声を上げたり、そのときの掛け声もあらかじめ決まっていて皆で一斉に復唱する雰囲気。バルーンを叩く感じも音楽ライブや野球観戦に近いものを感じる。もし韓国語で内容を理解できたら違う印象になったかもしれないが、「ふるまい」の情報だけで感じたのはそういう印象だった。たぶん自分がこの集団に混じって没入できたら、精神的な高揚を感じられて楽しいだろうなと思う。
次に感じたのは、ちょっと怖いなという感覚。これだけの集団が同じスピーチを聞いて精神的に高揚し、同じ動作で同じ掛け声をかける光景は、意図を持つ誰かに操られているような状況、例えば過去の軍国主義のような状況を彷彿とさせる。しばらく撮影しているとスタッフから韓国語で呼びかけられたのだが、何を言っているかよく分からないので英語で「これは何のデモですか?」と質問したところ、こっちに来い(?)といわれ、結局、彼が同僚と相談して撮影OKみたいな雰囲気になったのだが、もし彼らに囲まれたり、熱狂的な参加者に何かされたらと思うと怖いなと思った。もちろん韓国語が話せたらもっと状況を飲み込めたのだと思うのだが、集団が熱狂すると暴動に発展するという例は世界的に多々あるし、警察車両が沿道に何台も停まっていて周囲のビルの入口も警察が警備している様子を見ると、不安を感じるところもあった。そういう怖さは、僕は音楽ライブやスポーツ観戦を見ていても感じるのだが、一体感を感じられる歓びと阻害されたときの怖さというのはきっと紙一重なのだろう。
同じふるまいをすることで、所属する意味を感じられる
そうして野外音楽ライブとデモのふるまいがかなり似ていることを観察したとき、こういうモーメントはもしかしたら、いつの時代にも人間が必要としているものなのしれないと感じた。言い換えれば、所属することに意味を感じられる瞬間が必要であり、一体感を感じられる歓び、阻害されたときの怖さにもつながるもの。そうしたモーメントが個人主義が浸透した現代社会に不足してしまっていて、扇動的な政治家や自己開発の啓蒙セミナー、メッセージ性の強いセレブなどに盲信的に熱狂して歯止めが効かなくなるようなこともある。個人が物事を深く考え、善い判断ができることが、健全な社会の第一歩だと僕は考えていて、扇動されるような状態は僕はあまり好まないが、集団として社会でどうふるまうべきか、考えさせられる体験になった。
※繰り返しになるが、僕をこのデモの趣旨をこの時点ではまだ理解していないので、僕自身が趣旨に賛同できるかどうか、デモの主張が韓国社会にとって妥当であり共感されるものかどうか、という点については一切考慮していない。その点についてはもし可能であれば追って現地の人の話を聞いた上で、考察を加えたいと思っている。
中澤大輔
芸術家、デザイナー、物語活動家
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