テルアヴィヴ/48イスラエル 〜 ディアスポラ博物館を訪ね, 街ではパレスチナ人達にも会い(1983年10月6日から翌7日)
ディアスポラ
ディアスポラというのは民族離散を意味して, 語源を辿ると植物の種などが撒き散らされたものという意のギリシャ語に行き当たるらしい。そういえば我が家の小庭でも何処(いずこ)からか「風に吹かれて」(本 note 第6章)やってきた種のお陰で意外な花が咲くことがあって, ディアスポラの語源を想うと「うーむ, なるほど」という感あり。
ディアスポラが一番よく使われるのはユダヤ人に関するそれだが(今日の note の「ディアスポラ」博物館はテルアヴィヴ大学の構内にあるもので, となればそれは勿論, ユダヤ人のディアスポラ, あの地にいつかパレスチナ人のディアスポラについての博物館が出来たりしないのかな?), しかし既にさらっとその他の二例に「触れた」ように(ギリシャ, パレスチナ!), 実際のところ民族の離散は背景や経緯は様々ながら非常に多くの民族で起きていることで, 他にもギリシャ人(時代はユダヤ人のディアスポラよりも古い時代に遡る), アルメニア人などに関しても使われていて, 近年では中国人(華僑), インド人, いやそれだけでなく日本人や韓国人などの例にもこの言葉が使われたりしている。で, ディアスポラはもちろん, 上で言及したようにパレスチナ人にも。
なお, 本 note タイトルにある「48イスラエル」については, 以下 note 第1章にて(続く第2章は パレスチナ/イスラエル問題の概観)。
1983年4月26日に日本を発って 9月28日からパレスチナ/イスラエル 〜 ここまでの振り返り
1983年4月26日に日本を発ってソ連・ヨーロッパ諸国, トルコ・シリア・ヨルダンを旅した後(そこまでの旅については以下 note *1 第3章にソ連・ヨーロッパ諸国旅リンク関連, 第2章にトルコ・シリア・ヨルダンそれぞれの旅 note リンク), 同年9月28日早朝, ヨルダンの首都アンマンを発ってヨルダン川を渡り, 1948年5月「建国」のイスラエルが 1967年6月の軍事侵攻以来, 同年11月の国連安保理決議242号をはじめとする複数の安保理決議の撤退要求に従わぬまま(2021年の現時点で既に54年間, 1983年当時においては16年間)不当な軍事占領を続けているヨルダン川西岸地区に入り, エルサレム旧市街がある東エルサレムに宿をとった(以下 note *2 第1章で パレスチナ/イスラエル問題を概観, note *8 第2章でそれを補筆してあらためて パレスチナ/イスラエル問題を概観)。
筆者が パレスチナ/イスラエルを旅したその時代, 1982-83年頃がどんな時代だったか, とりわけパレスチナ人, パレスチナやイスラエル, レバノンに関わってどんな時代だったか, その一端, とはいえ重要かつ重大な一端に触れることになるのが, 以下の note *-1 にある 1982年のイスラエルのレバノン侵攻, そして同年9月にベイルートにおいてイスラエル軍が包囲するパレスチナ難民キャンプ(サブラ・シャティーラ)で起きたパレスチナ難民等虐殺事件(因みに34年後の2016年にノーベル文学賞を受賞することになるユダヤ系アメリカ人の "セレブリティ", アメリカ合州国の紛れもないメインストリームのロック・ミュージシャンである ボブ・ディラン は, その直後に 恥知らずなイスラエル支持ソング を書いて翌1983年の彼の公式アルバム "Infidels"「異教徒たち」に収録している)。
話を戻して, 1983年秋のパレスチナ/イスラエルの旅の3日目は, 西岸地区にあるパレスチナの街, キリスト生誕の地と信じられているベツレヘムを訪問し(note *3), 4-5日目にはジェリコ(エリコ)そしてマサダと死海に行った(note *4)。6日目は, 東エルサレムのエルサレム旧市街を歩き, 西エルサレムでは「ホロコースト記念館」(ヤド・ヴァシェム)を訪ね, とエルサレムの「東西」巡り(note *5)。7日目, 1983年10月4日は, エルサレムをひとまず発って「48イスラエル」の都市ハイファに行き, 今も強く印象に残るパレスチナ人の老人に出会った日(note *6)。8日目, 1983年10月5日は, ハイファから日帰りでナザレへの旅をし(note *7), そしてナザレから「ハイファに戻って」(note *8)。
本章, 以下は 関連 note リンク。
*−1 ノーベル賞の季節になると思い出す, 2016年ノーベル文学賞受賞のボブ・ディラン。ディランの恥知らずなイスラエル支持ソングは, 1982年イスラエルのレバノン侵攻と同年9月のレバノンにおけるイスラエル同盟者であったキリスト教右派民兵たちによるパレスチナ難民等虐殺事件(ベイルート, イスラエル軍が包囲したサブラ・シャティーラ難民キャンプにて)の直後に書かれ, 1983年リリースのアルバム "Infidels"(「異教徒たち」)に収録。
この一文は, 今も胸くそがわるくなる ボブ・ディラン の 恥知らずな 1983年リリースの イスラエル支持ソング についての上掲 note と, 以下の 1983年の自分の旅 note との間に距離を置くための一文なり。
*1 再びの アンマン(ヨルダン), 1983年9月26・27日 〜 第3章で 1983年4月26日に日本を発って, 中東(西アジアおよび北アフリカ)諸国の旅に向かう前までの振り返り: ソ連 および ヨーロッパ諸国, その前の第2章は, ギリシャ・アテネからトルコ・イスタンブールに移動した後の ここまでのイスラーム圏(ムスリム多数派)の国々, 旅 note 振り返り 〜 トルコ, シリア, ヨルダン。
*2 パレスチナ, 1983年9月28・29日 〜 ヨルダン川を渡り イスラエルによる国連安保理決議違反 軍事占領下の西岸地区に入る
*3 ベツレヘム(パレスチナ) 〜 1983年9月30日
*4 ジェリコ, マサダ・死海; 1983年10月1, 2日 〜 そして2021年のいま白昼堂々とパレスチナ人に対する民族浄化の行為を行なうイスラエル
*5 エルサレム旧市街と「ホロコースト記念館」(ヤド・ヴァシェム) 〜 エルサレムの東西; パレスチナ/イスラエル見聞録, 1983年10月3日
*6 ハイファ(48イスラエル, 47イギリス委任統治領パレスチナ)への旅 〜 1983年10月4日
*7 ナザレ(48イスラエル, 47イギリス委任統治領パレスチナ)への旅 〜 1983年10月5日
*8 ハイファ(48イスラエル, 47イギリス委任統治領パレスチナ)に戻って 〜 1983年10月5日
そして 1983年10月6日のテルアヴィヴ初日については, 本 note 次章。
ディアスポラ博物館(イスラエル, テルアヴィヴ大学)を訪ね, 街ではパレスチナ人達にも会い 〜 1983年10月6日・7日
テルアヴィヴ(日本語でのカタカナ表記は大抵の場合「テルアビブ」だが「テル・アヴィヴ」という表記もある; Tel Aviv なんだからその方がいいかもしれないけれど, 過去ずっと note では後者ながら・を付けずにこの都市のことを書いてきてしまっていた, 今日のこの note でもとりあえず以降「テルアヴィヴ」)には, 1983年10月6日から10月9日まで, 3泊4日滞在した。今日の note では初日から2日目の朝までの見聞考(「見聞」と「考」えたこと)のみ取り上げることにする。
以下, ディアスポラ博物館の入り口のところで撮った写真 1枚と, 旅日記の写真11枚, そして旅日記からの引用。
旅日記 1/11 の中の最初の頁から次頁にかけては, 1983年10月5日, ハイファ(48イスラエル)にいた時に書いた日記の最後の部分(殴り書きメモのようなもので字が汚いけれど)。その日のことは以下 note の第4章にて(なお, 第1章では「48イスラエル」という言葉の趣旨, 第2章では パレスチナ/イスラエル問題の概観)。
旅日記 1/11
さて, 1983年10月6日 は, ハイファから バスで テルアヴィヴ(日記には「テルアビブ」と書いてあるけれど!)に向かった。
YH は 女の子が声をかけてきて 教えてくれ, わかった。
些細なことではあるけれど, こういうことは多かった。1948年に「建国」されたイスラエルの歴史, イスラエルという国や軍あるいは入植者たちのパレスチナ人に対する行ないに関して当時から明確な批判者であり続けている筆者ではあるけれど, 旅のあいだ随分と多くの「親切な」イスラエル人・ユダヤ人に出会ったことは印象に残っている(道を教えてくれたりヒッチハイクの求めに応じてくれたり等)。いや, 正確に言うと, 忘れていたことも多いのだが, この間 note を書くために三十数年ぶりに旅日記を捲って, ああそう言えば「親切な」人たちに会ってたなぁと思い出したのだった。念のため書いておくと「親切な」と括弧書きにしたのは皮肉でも何でもなく, ただ強調したかったから(とはいえごく一般のイスラエル人・ユダヤ人も関わらざるを得ないパレスチナ問題, 要するにパレスチナ/イスラエル問題, パレスチナ人の犠牲の上に出来上がっているイスラエルという国の在り方を想えば, 複雑な気分にはなるけれど)。
.. 大学, ディアスポラ museum の方へ歩く。
「大学」というのは, テルアヴィヴ大学のこと。テルアヴィヴ大学の構内にディアスポラ博物館があるのだ。博物館は 1978年開館だから, 筆者が訪れた時はまだ開館から 5年目。
行きしな(以下は 旅日記 1/11 から 2/11 にかけて引用, 「フィラスティーン」はアラビア語の「パレスチナ」),
YH を出てすぐに, モスレム帽をかぶり, ゴミ集めの仕事をしているおじさん(というより おじいさん)を見た。Are you Arabic? フィラスティーン? ときくと うなずくので アッサラーム アレイクム, ワ アレイクムッサラーム。アンタ?(アラビア語で You?)ときかれ, ヤバーニ。彼はなぜか 英語で JAPANESE と言った。マッサラーミ, マッサラーミ。途中, 道路工事をしてるモスレム帽のおじさんも見た。まわりの若いのも パレスチナ人だったかもしれぬ。
1948年に(古来から「パレスチナ」という呼称があった地域に重なり 16世紀以降はオスマン帝国の支配下にあって, 第一次世界大戦が終わる1918年には戦勝国イギリスが占領し1920年から1948年まで「イギリス委任統治領パレスチナ」であった地に 19世紀末からの数十年間のシオニズムによるヨーロッパ等からユダヤ人の移民活動を経てなお当時 域内の人口においてアラブ系住民=今日言うところのパレスチナ人の半分, 全人口の 1/3程度に過ぎなかったユダヤ人の国でありながら同地域の半分以上の土地を占有することとして)「建国」されたイスラエルは, その後, 1967年6月の軍事侵攻以来 同年11月に採択された国連安保理決議242号をはじめとする複数の安保理決議に違反しながら 2021年の今に至るまで既に半世紀以上にわたって当初の「イスラエル」国に含まれていなかった東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区を軍事占領し, 実質的・実効力ある軍事支配を続けていて, かつ2005-6年以降これまで15年間にわたって軍事封鎖しているガザ地区も筆者が旅した1983年当時はヨルダン川西岸地区と同様の(1967年6月の軍事侵攻以来の)軍事占領下にあったわけだが,
(歴史的背景の一端に触れるとこういうことになってしまう, 段落を分ける!)
1948年の「建国」以降で且つ上で触れた1967年6月の軍事侵攻の前までのイスラエルの統治範囲(それが本 note で筆者が形容している「48イスラエル」)においても, イスラエル「建国」時に難民化しないで済んだ(イスラエル「建国」に伴い 70-80万人のパレスチナ人が自らの家や土地を失い故郷を追われて難民化している, 詳しくは 本章冒頭に付した note 第2章における パレスチナ/イスラエル問題の概観), 様々な事情で「建国」当時のイスラエル域内に留まった(そもそもが故郷の土地なのだから)パレスチナ人とその子孫に当たる人たちが住んでいる。2021年現在の「48イスラエル」域内の人口の約2割は, イスラエルの体制下でアラブ系イスラエル市民と呼ばれる人たち(パレスチナ人)。
さて, 以下は 1983年10月6日 に筆者が撮影した, テルアヴィヴ大学の構内にあるディアスポラ博物館(上にも書いたけれど 1978年開館, 筆者が訪れたこの時はまだ開館 5年目)。確かここは 博物館の入り口辺りだったはず。
旅日記 2/11
大学は 各入口のところにチェックがあるようだ。ディアスポラ museum のところの門にもあった。
貢献者(contribute)への謝意(gratitude)として 名前や団体が書いてある。世界各国のユダヤ人団体。特に USA, なかでも NY が多い。
階段 上って historical story へ。(カメラ不可)
これは 散らばり, しかし family として remain した民族の, 何度もこわされ, しかし再建された国の, 物語である, というようなことが書いてある。
世界中のユダヤ人の顔。映像が何度も変わり, 老若男女, とにかくたくさんのユダヤ人の顔を写し出す。
旅日記 3/11 ディアスポラ博物館の見聞録, 続き。
*日記下部の左の「イスタン」はトルコのイスタンブール。ソ連・ヨーロッパ諸国の後にトルコ, シリア, ヨルダン, パレスチナ/イスラエルを旅していて, その後のエジプトの次にカイロから飛行機で「イスタン」に戻ることを予定していたため(実際そうした), イスタンブールに戻ったときのことを書いた備忘録。右は左の記載にも関係する, その2度目のトルコの次の訪問国イランに関する旅情報メモ。
さて, 本題に戻って。ディアスポラ博物館の展示内容は実に多彩だった。内容が質量ともに充実しているということだけでなく, 展示の仕方もかなり工夫されていたと思う。
以下, 旅日記 3/11 から次頁 4/11 冒頭にかけての引用。
ユダヤ人の民俗学的展示(伝統的生活用品 ー 各地各時代の ー など), ユダヤ教のこと, いろいろなシナゴーグの模型(中国にユダヤ人の community があったとはおどろいた。Chinese Jew というのがあるのだ。オレの目の前で Jewish Chinese と言ったおっさんもいた。), アレキサンドリア, バビロニア, ローマ, ビザンチン各時代の diaspora からイスラーム時代のスペイン, レコンキスタ, そして十字軍, 最近のヨーロッパにおける虐殺, イスラエル建国までの歴史的展示。
旅日記 4/11
これは 1983年10月6日付旅日記, したがって「今世紀」とは 20世紀のことなり!
今世紀のシオニズムによるアラブとの衝突, 建国後の戦争については触れていない。(Remember のところで, 命をささげた IDF=イスラエル国防軍 なんて表現はある)
以降はこの旅日記写真の下。
1つおもしろいコーナーがあって 各時代の状況下で どんな選択をするか ボタンを押させるところがあった。
これは実際かなり「おもしろい」つまり興味深いコーナーだった。詳細(具体例)は 上の旅日記 4/11 から下の次頁 旅日記 5/11 にかけて記載している通り。
たとえば, フランス革命のとき, ユダヤ人が国民として認められないのならどうするか, ポグロム in ロシアからアメリカへ行くか シオンへ行くか, 1920年代 世界革命をとるか(A), ユダヤ社会主義(B)をとるか, 大戦後のヨーロッパ, ヒューマニズムもキリスト教も信じられない, 個人に没するか, 国をつくるか, 現代, チュニス出身の女性, みんなイスラエルに行くのに彼女の家族はフランスへ, いっしょにフランスへ行くか(C), イスラエルに行くか(D) ー など。それぞれの場合, ボタンを押すと, その結果が絵と文となって出るようになってる。
たとえば(A)結局 コンセントレーションキャンプ へ。(C)職につけるし, 子どもも大学へ行くが, ユダヤ人のコミュニティーから離れてしまってることに気づく。(D)そこはもう駅ではない, home だ ー など。
旅日記 5/11
上に引用した箇所にある「コンセントレーションキャンプ」とは, ナチス・ドイツによる強制収容所のこと。
以下の 旅日記 5/11 の冒頭にある, 丸付きの A, C, D は, 旅日記の前頁(上掲の旅日記 4/11)の中に記述されているものに対応する。
さて, 上掲の旅日記からの引用, その続き(4行目)。
一番最後の方には "return to シオン", そして各地から シオン にきたユダヤ人の写真と経い, 現況。
「シオン」。1894年のドレフュス事件(フランスにおけるユダヤ人差別・冤罪事件)をジャーナリストとして取材した, ハンガリー・ブダペスト(当時オーストリア帝国の一部)生まれのユダヤ人テオドール・ヘルツルがその事件を切っ掛けにヨーロッパにおける長年のユダヤ人差別の深刻さを改めて思い知り(つまりその「ヨーロッパにおける長年のユダヤ人差別」の加害者はヨーロッパの人たちであって, パレスチナ地域におけるアラブ人つまりパレスチナ人にとっては全く与り知らぬことになるわけなのだが), そのことでシオニズム(言葉自体はオーストリアのユダヤ系思想家ナータン・ビルンバウムが考案)に目覚め, その指導者として第1回シオニスト会議をスイスのバーゼルで開催したのが 1897年。
因みに, それから21年後の1918年時点のパレスチナ(という言葉は紀元前からあった呼称だが, 16世紀以降その地はオスマン帝国の支配下, そして同国が第一次世界大戦で敗戦国となった 1918年以降は戦勝国イギリスが占領, 1920年から1948年までは「イギリス委任統治領パレスチナ」)における人口は, 同年実施したイギリスの人口調査によれば アラブ人(今日言うところのパレスチナ人)が 700,000人に対して ユダヤ人は 56,000人。つまりその時点でのパレスチナにおけるユダヤ系住民(ユダヤ人)の人口は, その間のシオニズムの移民運動を経てもなお, アラブ系住民(パレスチナ人)の 1/12以下に過ぎなかった。しかし シオニズム の運動(思想と移民の運動)は, その直前の時期のイギリスのいわゆる「三枚舌外交」(1915年10月のフサイン=マクマホン協定で中東地域におけるアラブ諸国独立を約束, 1916年5月のフランス・ロシアと秘密裏に結んだサイクス・ピコ協定で同3ヶ国による中東地域の分割支配を目論み, 1917年11月のバルフォア宣言ではイギリスの当時の外務大臣アーサー・バルフォアがイギリス政府によるシオニズム支持を表明)とりわけバルフォア宣言と, その後ヨーロッパを席巻したナチス・ドイツによるユダヤ人迫害・ホロコーストの歴史を背景としていよいよ拡大・強化され, その間のシオニズムによる移民によって, 1918年時点でパレスチナ域内においてアラブ系住民(パレスチナ人)の 1/12 以下だったユダヤ人の人口は, 1948年のイスラエル「建国」までの30年間にアラブ系住民(パレスチナ人)の半分となり, 域内の全人口の 1/3 程度にまで膨れ上がることになった(ユダヤ人のパレスチナにおける人口は, 絶対数で言えば当時の約30年の間に 56,000人から 608,000人にまで急増しており, 数にして 10倍以上になっていたことになる)。
19世紀末当時はオスマン帝国の支配下にあり, 第一次世界大戦における同帝国の敗戦の後は「イギリス委任統治領パレスチナ」となる同地域(「パレスチナ」という呼称自体は遥か紀元前からあり同地域に住んでいたペリシテ人の名が由来と考えられている)へのユダヤ人の移民を促した「シオニズム」(シオンはエルサレム地方の歴史的地名)という思想のその名前は, ユダヤ教の聖書(キリスト教でいうところの「旧約聖書」)のゼカリヤ書にある文言から発想されたものだった。つまり,
「主はこう仰せられる。『わたしはシオンに帰り、エルサレムのただ中に住もう。エルサレムは真実の町と呼ばれ、万軍の主の山は聖なる山と呼ばれよう。』」(ゼカリヤ書 8章3節)
さて, 1983年10月6日に訪れたテルアヴィヴ大学構内のディアスポラ博物館の展示内容の中にあった「シオン」, 当時の旅日記に出てくる「シオン」という言葉を切っ掛けに話が脱線したけれど(いや実のところ脱線でもないけれど),
ここで話を上掲の旅日記 5/11 に戻して, その引用の続き。
ユダヤ人の著名人物 の紹介。(マークスピッツからマルクスまであった。)
「マークスピッツ」(Mark Spitz, 1950年2月10日アメリカ合州国カリフォルニア州生まれ)は アメリカ合州国の競泳選手(1972年のミュンヘンオリンピックで当時史上最多となる1大会7個の金メダルを獲得)。
「マルクス」はもちろん, ドイツ・トリーア Trier 生まれのあの人, カール・マルクス(Karl Marx, 1818年5月5日にプロイセン王国のトリーアに生まれ, 1883年3月14日に大英帝国・イギリスのイングランド, ロンドンにて死去)。
... Trier で マルクスの生家へ 〜 1983年5月29日
ところで「ユダヤ人の著名人物」というと, 真っ先に浮かぶのは アインシュタインだろうか?(本 note 第4章)。いや現代においては最も有名なのは, 尤も1960年生まれの筆者から上の世代ならという条件付きで, ボブ・ディランかも(本 note 第6章)。自分の場合は, ユダヤ人の有名なポピュラー音楽のミュージシャンなら, ポール・サイモンの方が音楽にしろ人物にしろ 何京倍(京は兆の1万倍)も好きだけど(第5章)。クラシック畑にいくと, マーラーも(こっちは取り立てて好きというわけではないけれど, 第7章)。キリないね。
旅日記 6/11
前頁(上掲の旅日記 5/11)の最後の方から 引用。
全体のトーンは, ユダヤ人とは これこれ こういう民族である ー ということ。むろん ユダヤ人の欠点, 誤りなど 各時代通じて表現されてない。
まぁそりゃそうだよね。そこは, そうでしょう。で, 旅日記 6/11 に続く。
すばらしさの強調。(オレ自身は, 現在のイスラエル ー パレスチナ問題以外, 特にあらを探そうなんて気はないが)
そりゃそうだ, オレは当然ながら「反ユダヤ主義者」なんかではないわけで。
note イスラエル批判、反シオニズム、BDS を 「反ユダヤ主義」 と見做す思考の、度し難い愚かさ
旅日記 6/11 からの引用の続きは, 以下の旅日記写真の下。
テルアヴィヴのディアスポラ博物館の展示の中で見た,
戦前, 世界中がユダヤ人を見捨てた("abandon" だったと思う)という表現は エルサレムの Yad VaShem(ユダヤ人を助けた人への謝意がある)と大きく違う。
note エルサレム旧市街と「ホロコースト記念館」(ヤド・ヴァシェム) 〜 エルサレムの東西; パレスチナ/イスラエル見聞録, 1983年10月3日
旅日記 6/11 からの引用の続き。
そして return to シオン。全体として ユダヤ人自身への語りかけ調。万人に対する museum というより, ユダヤ人のためのものというかんじ。そして, 結局 シオニズム を奨励している。
この museum を見ると, 離散し, 差別され, 多くが殺された, そのことが ユダヤ人のアイデンティティ ー 存在証明 の大きなひとつ になってしまっている感じをうける。そうなってしまった(のだろうか?)ことが, 歴史自体よりも悲劇に思われる。入場者のほとんどは ユダヤ人ではないだろうか。それも外国からの観光客と思う。バスがきてた。
旅日記 7/11
出たあと, どうして選択のボタンを押さなかったときいてきた おじさんがいた。彼はオレを Jewish Chinese と思ったのかもしれぬ。押したと答えておいた。(実際 押した)
Study Area とか スライドなども たくさんあった。Book Shop, カフェテリアも。とにかく 金のかかった museum だ。外観は大したことないが, 中身がすごい。
以降は, ディアスポラ博物館 を出てからのこと。以下, 次頁つまり旅日記 8/11 冒頭にかけての引用。
また歩いてもどり(途中にキブツの施設がある), 昼間 ファラフェルを食った小さな店へ行った。
旅日記 8/11
(アラビア語 50 はカタカナでは「ハムスーン」の方が正確な発音に近いかも。)
カウンターにすわってた若い男にコカコーラと言い, How much ときくと ハムサシーン(アラビア語 50), do you speak arabic? ときた。
ショワイショワイと答えると すごい喜びよう。上からたたくようにして握手してきた。
その「カウンターにすわってた若い男」は, パレスチナ人(アラブ系イスラエル市民)だった。一方, 「店の主人」は多数派の方のユダヤ系イスラエル市民だった。
と, すぐに店の主人が Where are you from? JAPAN と答えると, What do you make here? ー I'm a tourist. What do you work in JAPAN? ー I'm student.
オレよりヘタな英語できいてきて, student はなかなか通じなかった。おまけに, おまえの顔はユダヤ人に似ている, おまえのおやじのおやじか おふくろのおふくろ, (つまり とにかく祖先)はユダヤ人だと言い出す始末。彼はまちがいなく イスラエリ ユダヤ人だろう。
「イスラエリ ユダヤ人」= Israeli Jewish
旅日記 9/11
旅日記の前頁(上掲 旅日記 8/11)の最後の行から, 下掲の旅日記 9/11 にかけての引用。
そのうち パン配達のおじさんが来た。明らかにアラブ人の顔だ。既に来ているものを持ってきたのか(イスラエリ ユダヤ人は店のすみの同じ箱を指さした), とにかく何かまちがえたようで 首のうしろをギュッとつかまえられた。おじさんはただ黙ってた。うしろで若い男が, このイスラエリ・ユダヤ人は悪い奴だと首のジェスチャーと表情で言う。オレは マッサラーミと言って出た。マッサラーミ。そして手を上げてあいさつ。
いったん宿に帰った後,
若いパレスチナ人のいる店へもどり, 彼に英語をしゃべれるか きいたが ダメだった。ボクラ(明日)またくると言って マッサラーミ。
そして,
夕めし まで 近くの街を歩いた。ヨーロッパです。
テルアヴィヴの街の雰囲気は「ヨーロッパ」。これじゃ旅が 5ヶ月近く前に戻ってしまう(笑)。
音楽まで付けてしまった ♫
間違えてはいけない, ここはテルアヴィヴ。この街があるところは「ヨーロッパ」ではなくて「中東」, いや彼らが言うところの極東である日本から見たら, そこは「西アジア」。「極西アジア」か?(笑)
さて, 旅日記 9/11 からの引用, 続き。
テルアヴィヴの街に,
Jesus Christ Superstar のポスターがあったのが おもしろかった。
〜 『ジーザス・クライスト・スーパースター』 (Jesus Christ Superstar) は、聖書を題材にイエス・キリストの最後の7日間を描いたロックミュージカルである。ティム・ライスが作詞、アンドリュー・ロイド・ウェバーが作曲をそれぞれ担当し、1971年にブロードウェイで初演された。
演劇批評家らから絶賛を得たが、敬虔なキリスト教徒やキリスト教原理主義者らからは「聖書に忠実ではない」「神に対する冒涜だ」など公開当初から道徳的な批判を受けていた。1971年のブロードウェイ公演の初日は、キリスト教やユダヤ教の信者がプラカードを掲げて劇場前でデモを行うなど周辺が騒然とした。 〜
(上の2段落分はウィキペディアからの引用)
旅日記 10/11
本 読んで 早く寝た。※ museum の中では ユダヤ人の音楽が流れてた。
下掲の旅日記写真より, 1983年10月7日 の見聞についても少しだけ(続きは次回の旅 note にて)。
バスで OLD JAFFA へ。
モスクに入った。細々とだが 使われてるようだ。中の広場で 若い パレスチナ人 が何か作業してた。No Entry とあったが 広場へ入れてくれた。アラビア語であいさつだけした。外を歩いても, よくアラブ人を見る。かなりいるのではないか。モスクが改造されてレストランになったようなのをいくつか見た。
旅日記 11/11
1983年10月7日 の見聞については 次回の旅 note に続きを記す予定にしているけれど, 同日付の旅日記の最後の方の頁(日記帳も別のものに移行してる!)に「特に ディアスポラ museum を見て」という思い出し記があったので, その部分のみ, 以下に引用しておく。
特に ディアスポラ museum を見て ー ユダヤ人は被害者意識のかったまりになってるのではないか。あるいはあの museum は ユダヤ人をそうさせてしまうのではないか。確かにそうした歴史は持ってるが, まるで 被害者であることが 大きなアイデンティティーのひとつになっているかのようだ。(現在イスラエリは加害者である)
さてさて。本 note, 残りの章は アインシュタイン, ポール・サイモン, ボブ・ディラン, マーラー, 最後は ボヘミアン・ラプソディ ♫
「ユダヤ人の著名人物」 で真っ先に浮かぶのは 〜 アインシュタイン?
前章のイスラエル・テルアヴィヴ大学構内 ディアスポラ博物館 見聞録に載せた旅日記 5/11 に「ユダヤ人の著名人物 の紹介。(マークスピッツからマルクスまであった。)」というくだりがある。
ユダヤ人の著名人物 ということでは, 近代において世界で一番著名な人はこの人だろうか(尤も「偉大」過ぎて, 人類史上の巨人扱い, いちいちユダヤ人だと広く認識されたりしないくらいかもしれないが), アルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein, 1879年3月14日生まれ - 1955年4月18日他界)。
アインシュタインおじさんはエピソードの宝庫。だろうけど, ここでは パレスチナ/イスラエル問題 に絡むものを少し。
1879年3月14日にドイツでユダヤ人の両親のもと生まれ, ナチスの台頭と相前後してドイツを発ち以降はドイツに戻らず, 1955年4月18日にアメリカ合州国で亡くなったアインシュタインは, ユダヤ人の国を標榜するイスラエルという名の新しい国ができることに関して協力的だったが(有り得ないことだが 2021年の今の時代にアインシュタインが生きていたならイスラエルをどう評するのかとは思うけれど), しかしイスラエル「建国」時の一部シオニストについてはファシストと呼び, テロリストとも見做して極めて批判的だった。
1) 以下, イスラエルのメディア Haaretz (Dec. 4, 2014, Updated: Apr. 10, 2018) の記事。
This Day in Jewish History | 1948: N.Y. Times Publishes Letter by Einstein, Other Jews Accusing Menachem Begin of Fascism
Lest America be fooled by post-Independence rhetoric, the Herut party Begin led was ‘closely akin to the Nazi and Fascist parties,’ they wrote.
On December 4 , 1948, the New York Times published a letter by a group of Jewish dignitaries, including Albert Einstein and political theorist Hannah Arendt, protesting a visit to the United States by Menachem Begin and denouncing his Herut (Freedom) party on the grounds that it was, as they wrote, “a political party closely akin in its organization, methods, political philosophy and social appeal to the Nazi and Fascist parties.”
記事中の Menachem Begin は, 後にイスラエルの首相を務めた人物(在任: 1977年6月20日 - 1983年10月10日)。この メナヘム・ベギン については, 本章の脚注 *1 及び *2 にて。
2) 以下は, 上記の件に先立つこと8ヶ月, アインシュタインの 1948年4月10日付レター。ニューヨークにあった組織 American Friends of the Fighters for the Freedom of Israel 宛ての書簡(イスラエルの一方的な自称「独立宣言」, 要するに「建国」宣言の1ヶ月余り前の時期, つまりイスラエルという国がまだ建国されていなかった時期で, パレスチナのディール・ヤシン村で起きたシオニストによるパレスチナ村民虐殺事件 *1 の翌日の日付)。
April 10, 1948
Mr. Shepard Rifkin
Exec. Director
American Friends of the Fighters
for the Freedom of Israel
149 Second Ave.
New York 3,N.Y.
Dear Sir:
When a real and final catastrophe should befall us in Palestine the first responsible for it would be the British and the second responsible for it the Terrorist organizations build up from our own ranks [Jewish].
I am not willing to see anybody associated with those misled and criminal people.
Sincerely yours,
Albert Einstein
*1 ディール・ヤシン村虐殺については, 以下 note の
第2章 パレスチナ/イスラエル問題 概観 〜 2021年の今も続くパレスチナ人の悲劇, 「ナクバ」 から引用しておくと,
ナクバとは、1948年5月14日のイスラエル「建国」に伴い、その数ヶ月前から始まっていたシオニストの民兵によるパレスチナ人に対する民族浄化(1948年4月9日、イスラエル「建国」前のパレスチナのディール・ヤシン村でユダヤ人のシオニスト民兵たちが女性や子どもを含むパレスチナ人村民107人以上 [犠牲者数は当初より254人とされてきたが, 近年の研究で107-120人と推定, 前者が流布した背景には加害者側が虐殺を「成果」として宣伝しパレスチナ人に恐怖感を植え付けようとしたという思惑があったことが指摘されている] を虐殺した事件をはじめ、数々の虐殺行為があった:因みにディール・ヤシン村虐殺の首謀者, そのリーダーであったメナヘム・ベギンは後にイスラエルの首相になっている)とイスラエル・アラブ諸国間の戦争により、翌1949年にかけて 500以上のパレスチナ人の村が破壊され、70~80万人(75~90万人とする説もあり100万人近いとする見方もある)のパレスチナ人が、故郷の土地と家を失って難民となったことを言い表わす言葉である。
ナクバはアラビア語であり(النكبة, al-Nakbah, Nakba)、直訳すれば、大破局、大災厄、大惨事、破滅的な状況、極めて大きな不幸といった意味合いになる。先に書いたイスラエル「建国」前後の期間に起きたことを指すのが一般的だが、一方でその後の70年余にわたり今現在も続くパレスチナ人の苦難をも含めて「ナクバ」と呼ぶ、すなわち「今もナクバが続いている」という文脈で使われる、広義の言い方もある。
*2 メナヘム・ベギンについては更に, 上掲 note 第4章 ハイファに戻って あらためて考えた, 1983年10月5日 〜 市庁舎の近くにはなんとヘブライ語と英語とご丁寧にもアラビア語併記で「ハイファ解放 1948」 の中の 旅日記 3/3 の項に記したテキストから引用。
メナヘム・ベギンは, 1977年6月20日から1983年10月10日まで イスラエル首相を務めた人物 である。つまり筆者のパレスチナ/イスラエルの旅の途中の時期まで, 彼はイスラエルの首相だった。
メナヘム・ベギンは, ロシア領ブリスク(現ベラルーシ領ブレスト)生まれ, 同地は1919年から1939年にかけてはポーランド領, 1939年からソ連が占領。ベギン自身は1942年のソ連脱出後にユダヤ人の非公然武装組織イルグンに参加し1947年頃にはそのリーダーになっている。ベギンが参加していたイルグンは, 当時パレスチナ(イギリス委任統治領パレスチナ)に駐在していたイギリス軍司令部があったエルサレムのキング・デイヴィッド・ホテル爆破(1946年7月, 91名死亡)といったテロ活動を行なったが, さらにベギンがリーダーとなって以降のイルグンは, 1948年5月のイスラエルによる一方的な「建国」の宣言の直前, 同年4月のパレスチナのデイル・ヤシーン村におけるパレスチナ人村民(アラブ系住民)虐殺(犠牲者数は定まっていないが, 少なくとも107人以上が殺されたとされる)などのテロも行なっている。
これらは歴とした事実, 当然ながら歴史的な事実と認定されている事件なのだが, 要するに当時のパレスチナ駐在中のイギリス人や住民であるパレスチナ人(パレスチナに住んでいたアラブ系住民)などに対するテロを行なった, 文字通りのテロリストであった男が, 後にイスラエルの首相になっているということ。ウィキペディアによればベギンは「パレスチナ人は2本足で歩く野獣である」と公言していたとか。(首相辞任の前年)1982年のレバノン侵攻時もイスラエルの首相はベギン。
ではでは, 本章の最後,
本章ではもともと アインシュタインのことを取り上げてたんだから,
もちろん宗教については上の如し。
だよね。
ユダヤ人ミュージシャンと言えば, 自分には, ポール・サイモン
ポール・サイモンの東京ドーム・ライヴを妻と観た 1991年10月12日 〜 というわけで 30周年(2021年10月12日 note)
ポール・サイモン 80歳の誕生日に 〜 ポール・サイモンの歌, 歌詞和訳とアルバム・レヴュー(2021年10月13日 note)
Hearts and Bones 〜 the title track from Paul Simon's sixth solo studio album, released on November 4, 1983 (このアルバムのリリースは筆者の海外「放浪」もどきの旅の最中, アルバムは最後の訪問国だった韓国・釜山からの下関行きフェリーで帰国後, 田舎の家に行く途中, 後輩がいた広島大学の生協の店で買った, もちろんLP, 細かい話だ!) ♫
*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞・全編を削除し, 歌詞の一部(最初のヴァース)のみの掲載に改めました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.2 加筆/削除/編集)。
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One and one-half wandering Jews
Free to wander wherever they choose
Are traveling together
In the Sangre de Christo
The Blood of Christ Mountains
Of New Mexico ..
風に吹かれて 〜 現代の世界で一番有名な, 大衆的知名度, 認知度が最もあるユダヤ人は, ボブ・ディラン?
本章の後段に ディラン初期の歌「風に吹かれて」の替え歌(の歌詞)を載せておくけれど, 以下まずは, 本 note 第3章の旅日記 5/11 の項のところから引用。
ところで「ユダヤ人の著名人物」というと, 真っ先に浮かぶのは アインシュタインだろうか?(本 note 第4章)。いや現代においては最も有名なのは, 尤も1960年生まれの筆者から上の世代ならという条件付きで, ボブ・ディランかも(本 note 第6章)。自分の場合は, ユダヤ人の有名なポピュラー音楽のミュージシャンなら, ポール・サイモンの方が音楽にしろ人物にしろ 何京倍(京は兆の1万倍)も好きだけど(第5章)。クラシック畑にいくと, マーラーも(こっちは取り立てて好きというわけではないけれど, 第7章)。キリないね。
note ボブ・ディランのイスラエル支持ソングは, 1982年のイスラエルのレバノン侵攻と同年9月のベイルートにおけるパレスチナ難民虐殺事件の直後に書かれた
ボブ・ディランに捧ぐ「風に吹かれて」パレスチナ版
How many roads must a PALESTINIAN man walk down
Before you Bob Dylan call him a man?
Yes, ’n’ how many seas must a white dove sail
Before she sleeps in the sand?
Yes, ’n’ how many times must the cannonballs fly
Before they’re forever banned?
The answer, my friend, is blowin’ in the wind
The answer is blowin’ in the wind
How many years can a PALESTINIAN land exist
Before it’s washed to the sea?
Yes, ’n’ how many years can PALESTINIAN people exist
Before they’re allowed to be free?
Yes, ’n’ how many times can Bob Dylan turn his head
Pretending he just doesn’t see?
The answer, my friend, is blowin’ in the wind
The answer is blowin’ in the wind
How many times must a PALESTINIAN man look up
Before he can see the sky?
Yes, ’n’ how many ears must Bob Dylan have
Before he can hear PALESTINIAN people cry?
Yes, ’n’ how many PALESTINIAN deaths will it take till Bob Dylan knows
That too many PALESTINIAN people have died?
The answer, my friend, is blowin’ in the wind
The answer is blowin’ in the wind
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そもそも筆者, ディランの歌はいいのが多いと思うけれど, 昔から ディラン本人の歌よりも カヴァーの方が余程いいと思ってる。例えば ♫
さて, 残りの 2章は純粋に(たぶん!)音楽だ ♫
グスタフ・マーラー
グスタフ・マーラー(Gustav Mahler, 1860年7月7日生まれ - 1911年5月18日他界)は, 主としてオーストリア・ウィーンで活躍した作曲家で指揮者。当時オーストリア帝国に属していた ボヘミア王国 のイーグラウ(現チェコのイフラヴァ)近郊のカリシュト村(現チェコのカリシュチェ)にて ユダヤ人の両親のもと生まれた人。
おお, ウィーン ♫(マーラーのことは確か書いてません, 笑 ... でも下に続く)
マーラー の曲が, ルキノ・ヴィスコンティ監督, ダーク・ボガード, ビョルン・アンドレセン共演の1971年の映画「ベニスに死す」に使われている。
おお, ベニス, ヴェニス, イタリア語の名をカタカナ書きすれば, ヴェネツィア ♫
さてさて, 最後はなんと, クイーン の ボヘミアン・ラプソディ ♫ (何でもありか .. そうかもしれぬ!)
マーラーを出したら ... ボヘミアン・ラプソディ ♫
前章で マーラー を出したから, 最後はこれで, 「ボヘミアン・ラプソディ」。それはですね(グスタフ・マーラーはユダヤ人, でもフレディ・マーキュリーは違います, 念のため!),
https://ja.wikipedia.org/wiki/グスタフ・マーラー
1860年7月7日、父ベルンハルト・マーラー(Bernhard Mahler, 1827年 - 1889年)と母マリー・ヘルマン(Marie Hermann, 1837年 - 1889年)の間の第2子として、オーストリア帝国に属するボヘミア王国のイーグラウ(Iglau、現チェコのイフラヴァ Jihlava)近郊のカリシュト村(Kalischt、現チェコのカリシュチェ Kaliště)に生まれた。
出自に関して、後年マーラーは「私は三重の意味で故郷がない人間だ。オーストリア人の間ではボヘミア人、ドイツ人の間ではオーストリア人、そして全世界の国民の間ではユダヤ人として」と語っている。マーラーは指揮者として高い地位を築いたにもかかわらず、作曲家としてはウィーンで評価されず、その(完成された)交響曲は10曲中7曲(第1番を現存版で考えると8曲)が、オーストリア人にとっては既に外国となっていたドイツで初演されている。マーラーにとって「アウトサイダー(部外者)」としての意識は生涯消えなかったとされ、最晩年には、ニューヨークでドイツ人ジャーナリストに「なに人か」と問われ、そのジャーナリストの期待する答えである「ドイツ人」とは全く別に「私は ボヘミアン です(Ich bin ein Böhme.)」と答えている。
から もって来ただけなんだけど。「だけ」でもないかもだけど(笑)。
因みに「ボヘミアン・ラプソディ」(Bohemian Rhapsody)の作詞作曲者であるフレディ・マーキュリー(Freddie Mercury, 1946年9月5日生まれ - 1991年11月24日他界)は念のため書いておくとユダヤ人ではなく, 出生名ファルーク・バルサラ(グジャラート語: ફ્રારુક બલ્સારા, Farrokh Bulsara)で, ウィキから丸写しすると「当時イギリスの保護国だったザンジバル島(現タンザニア)のストーン・タウンで生まれた」。「インド生まれの父ボミ(1908年 - 2003年)と母ジャー(1922年 - 2016年)は、ゾロアスター教徒であるパールシー(インドに住むゾロアスター教の信者)」(「植民地政府のオフィスで会計係として働くボミが仕事を続けるため、妻とザンジバルに移った」)。
もひとつ "因みに", ゾロアスター教 は日本語での別名を拝火教といって, これは古代ペルシア発祥の宗教。更にもひとつしつこく "因みに", このゾロアスター教をドイツ語でいうと die Lehre des Zoroaster/Zarathustra, で, Zarathustra というのはゾロアスター教の開祖ゾロアスターの名前のドイツ語読みでもあって, ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche, 1844年10月15日生まれ - 1900年8月25日他界)の「ツァラトゥストラはこう語った」(Also sprach Zarathustra)の「ツァラトゥストラ」の名前自体はそこからとっている。ニーチェの思想の中身そのものはゾロアスター教と殆ど関係ないけれど。で, それはともかく, ニーチェの「ツァラトゥストラはこう語った」にインスパイアされてドイツの作曲家リヒャルト・シュトラウス(Richard Georg Strauss, 1864年6月11日生まれ - 1949年9月8日他界)が書いた同名の交響詩が使われた映画が,
音楽宗教哲学映画「小噺」が長過ぎて, 話は飛び過ぎ, 「飛びます, 飛びます」坂上二郎(最後は「昭和」の人にしか通じない)。もう完全に話の筋がディアスポラ, 離散してしまった。
キリがないので, そろそろ「ボヘミアン・ラプソディ」して, 今日の note はこれにて「サヨナラ, サヨナラ, サヨナラ!」淀川長治(また「昭和」だった, 年号制度そのものは好きじゃないんだけど!)。
*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.2 加筆/削除/編集)。