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街そのものが美術館だったフィレンツェ, イタリア 〜 1983年7月3日(写真6枚)

今のようなスマホ時代だったなら, いくら「貧乏旅行」バックパッカーでも, 写真は 6枚じゃなくて, 60枚, いや 600枚撮ってたかな(笑)。

1983年4月26日に横浜港からのフェリーで発ってスタートさせたユーラシア大陸「ほぼ」一周旅行の諸国行脚。日本を発って早2ヶ月余りの月日が過ぎ, イタリアは12番目の滞在国, フィレンツェはヴェネツィアに続くイタリア2番目の滞在地だった。

イタリアでは, 当時の旅日記によれば, ヴェネツィアに 7月1-2日の1泊2日, フィレンツェに 7月2-4日の2泊3日, ローマに 7月4-8日の4泊5日(7月6日にはヴァチカン市国も見物), ナポリに 7月8-9日の1泊2日(7月8日にはポンペイの遺跡も見物)している。その後はナポリを 7月9日の夜行列車で発ってブリンディジに向かい, 翌7月10日朝ブリンディジ着, 街をぶらついたりして過ごした後, その日の夜の船便でブリンディジの港を発ち, ギリシャに向かっていて(7月11日にギリシャのパトラに着いて, そこから列車でアテネへ), そういうわけで, イタリアには夜行列車の1泊を含めて 9泊10日滞在したことになる。

フィレンツェ, 殴り書き旅日記 〜 1983年7月2-3日

フィレンツェ 2泊3日の3日目, 1983年7月4日に関しては次の滞在地について書くローマ note 第1回にて。

というわけで, ここでは 1983年7月2-3日の旅日記, その 殴り書きメモ。別に怒ってたわけではないが(笑), 当時の日記は字面的に 殴り書きのような感じ。旅自体が「あしたはどっちだ」だったし。懐かしの「あしたのジョー」使うの何回目だ?

作詞:寺山修司 作曲・編曲:八木正生

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.1 加筆/削除/編集)。

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歌詞の最後の一言だけ載せると,

あしたはどっちだ

..................... つまり ♫

あしたはどっちだ」的な「放浪」もどきの旅をしていた, その時の旅日記, 文字通りの 殴り書きメモ(の一部, と言っても今回は少し省いた程度だけど)。

旅日記, 殴り書きメモ, 1) 上の方は前日, 1983年7月1日のヴェネツィアでの終盤, フィレンツェに関しては 7月2日(あの年は土曜日だったもよう)から。

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旅日記, 殴り書きメモ, 2)

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旅日記, 殴り書きメモ, 3) 「都市の論理」とは, 懐かしの羽仁五郎(1901年・明治34年3月29日生まれ, 1983年・昭和58年6月8日他界, おお, 今あらためて認識, ということは俺がフィレンツェにいたその時の, 前月に亡くなっていたのだった!)の 1968年の著書。旅に出る2,3年前に読んでいた。

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旅日記, 殴り書きメモ, 4)

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旅日記, 殴り書きメモ, 5) 6) なんと罰(バチ)当たりな, 思い切り大雑把に「西洋文明」, 「キリスト教世界」の世界観?を斬ったうえ, 他のヨーロッパ諸国でも見てきたので「食傷気味」だの, 果ては「過去の遺産で生きてる感」だのとは(笑)。こういうことは他の地, 土地, 都市などの場合にもあるのだが(これを「都市の論理」という, 笑), 後年振り返って フィレンツェ はやっぱ「街全体が美術館」, 素晴らしかった, なんて印象が出来上がっていたにもかかわらず, 当時の日記にはこんなことを書いている。旅でリアルタイムに, つまりその日その時に感じたことと, 後から徐々に頭が整理されていって出来上がっていく印象との間に 乖離 が生まれるという, 時折り見られるこの種の現象は, 日本「旅の考現学」学会において「旅の怪奇」現象と呼ばれる(そんな学会ないよ!)。また, その地の印象が, 旅日記 殴り書きメモを書いた頃に戻るような現象が起きた場合には(今回の筆者には起きていない), その現象は「旅の回帰」現象と呼ばれる ... らしい。いや, たったいま, 2021年7月3日午後3時に俺が作ったガク説。乖離 は カイリ, 怪奇 と 回帰 は カイキ, 読みが一文字違って惜しいが, そこも母音は同じだから許せ(誰に言ってるのか不明, 笑)。

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旅日記, 殴り書きメモ, 7) 6) から出てくる「コミゾ」とは, 

Comiso (Sicilian: U Còmisu), is a comune of the Province of Ragusa, Sicily, southern Italy. 

のことだったと思う。これについては当時のことについて若干下調べが必要で, また機会があったら書くことにする。

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さてさて,

次章以降, フィレンツェ 噺をいくつか。

フィレンツェと言えば 〜 ルネサンス

フィレンツェと言えば 〜 ルネサンス, なんて「見出し」つけながら, ど素人が「ルネサンス」について書こうとしたら,  

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準備にえらく時間がかかるし, 書いてる間もどんどん考えてまたまた時間かかるしで, というわけで少なくとも今日は控える。ただ, ヨーロッパが, 

かつてよく言われていた「暗黒の」中世(今は「暗黒」というレッテルを貼らなくなってきているらしい)やペストの時代を乗り越えて, 「ルネサンス」の花を開かせるという, その些か劇的なとも言える時代の流れ, 人類史上の運動・ムーヴメントそのものに興味・関心は湧く。ところで,

突然だけど, 20世紀の人たちだから言うまでもなく「ルネサンス」(時代はおおよそ14世紀から16世紀)とは関係ないガラ(生まれは1894年, 19世紀)とダリにとって, 「ルネサンス」って, 「そんなこと知ったことか」だったのかな, それともそんなことにも興味あったのかな。

ガラ, 柄(がら)でもない? .. 「因みに」程度の情報を添えると, ガラはロシア, ダリはスペイン。

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上に「突然」って書いたけど, 「ルネサンス」に言及してから「ルネサンス」に関係ないダリを載せたのは, まぁ確かに文字通り「取って付けたような」ダリ。

ダリを「取って」 ルネサンス に「付けた」のは, たまたま一昨年, 2019年, これもたまたま7月だったから今から2年程前に, 我が街の図書館で借りてきた本のセットがこれだったので。

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さらに2019年7月から8, 9月にかけて借りてたのが, 

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おお, 左に座す(おわす)のは, いや座ってるのは絵のモデルだけど(笑), 兎にも角にも左はゴーギャンではありませんか!

話が「飛びます, 飛びます」(は坂上二郎), ゴーギャンと言えば, "D'où venons-nous? Que sommes-nous? Où allons-nous?", なんつってフランス語は分かりません, 日本語で言うと, 「我々はどこから来たのか, 我々は何者か, 我々はどこへ行くのか」

大それたことに, 自分の1983-1984「放浪」もどきの旅の note マガジンのカヴァーは, ゴーギャンのあれ, 「我々はどこから来たのか, 我々は何者か, 我々はどこへ行くのか」だったのだ, この場合は「我々」じゃなくて「我」だけど(笑)。

「我はどこから来たのか」。。あ, そっちから見たら「極東」の島国, 日本。

「我は何者か」

音楽をこよなく愛する1960年生まれ。誕生日はシリアの独裁者バッシャール・アサド (1965年) と同じ、チリの悲劇の日 (1973年)、アメリカ合州国の悲劇の日 (2001年)と同じ日の 911, まぁ当然ながら偶然。関心事項は中東などの国際政治、宗教など。自身は無神論者。

カヴァー写真は, 「我」の写真ではなくて, この人は1975年「カッコーの巣の上で」のジャック・ニコルソン演じるところのマクマーフィー。

「我はどこへ行くのか」 .. 当分どこにも行かない。いや, やっぱ, 旅から帰った1984年の翌年, 1985年 からは ♫

「我々はどこへ行くのか」

Road to Nowhere ー from Talking Heads' 1985 album "Little Creatures"

*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.1 加筆/削除/編集)。


おっとなんだこれは! .. これは驚き, まぁあっても不思議はないけれど今日まで知らなかった, Paul SimonDavid Byrne が同じステージに立ってる(2011年6月6日, ニューヨーク) .. でも Paul Simon, この歌の歌詞は知らなさそう(笑)♫

Paul Simon の持ち歌も載せておこう, David Byrne 途中転んだりしてるけど楽しそう ♫

おっと, 話は「我々はどこへ行くのか」だった .. どこにも行かない?いや, というよりも, どこなのか分からないところ, 名前もないところに向かっている。

David ByrneSt. Vincent による "Road to Nowhere" ♫

楽しそうだなぁ, David Byrne と彼の仲間たち ♫

実に楽しそう ♫

1985年に(確か吉祥寺の)映画館で観た Talking Heads のコンサート映画 "Stop Making Sense" も素晴らしかったけれど(映画監督は Jonathan Demme), いま日本でも話題の "American Utopia", David Byrne のブロードウェイのショーを Spike Lee が映画化したというあれ, あれもやっぱ, どうしたって映画館の大きなスクリーンで観てみたいもの(コロナ禍もあって, まだ観てないのだ!)。 

我々はどこへ行くのか .. どこにも行かない?いや, というよりも, どこなのか分からないところ, 名前もないところに向かっている。

ところで, Talking Heads, David Byrne の "Road to Nowhere" のオープニングは "Well we know where we're going, but we don't know where we've been", 「僕らはどこに向かってるのか分かっているけれど, どこから来たのか, どこに行ってきたのかってことは知らない」, 

それでもって話はどんどん「飛びます, 飛びます」(坂上二郎)状態だけど, Beatles, John Lennon 作の "Nowhere Man" を思い出した。

"He's a real nowhere man, sitting in his nowhere land, making all his nowhere plans for nobody.. Doesn't have a point of view, knows not where he's going to. Isn't he a bit like you and me?", 「彼には本当に居場所がない, どこにもない彼の土地に腰をおろして, 誰のためでもない, どこにも有り得ない計画を練っているんだ.. 主義もないし見通しも立たない, 自分がどこに向かっているのかだって分からない, だけど君や僕にちょっと似てる気もしないかい?」

"Nowhere" は安直にスペースアルクから引っ張ると, 副詞なら「どこにも~ない」, 名詞なら「実在しない場所」もしくは「どこか分からない所」, 形容詞だと「無駄な」とか「無意味な」とか。しっかし歌の歌詞とかになると品詞もそれほど気にしなくていいだろうし, 意味は如何様にも取り得る。「如何様」はイカサマではなくて, イカヨウ。

当時は使っていた自虐表現「(拙訳)」。なぜ自虐表現は使わなくなったのか補足したいけど, 文字数を「節約」。この感じ, いやこの漢字はただの駄洒落。

さてさて。

フィレンツェと言えば 〜 ガリレオ・ガリレイ

そうだ, 前章で「フィレンツェと言えば 〜 ルネサンス」なんて前振りして話をどんどん飛ばしていったけれど, その「ルネサンス」の時代のリュート奏者ヴィンチェンツォ・ガリレイは, あのガリレオ・ガリレイの父親。ガレリオ・ガリレイは「ルネサンス」の時代が終わった直後ぐらいの時代に活躍した(歴史的には活躍と言えるけれど, しかし当時のキリスト教「教会」権力からは酷い仕打ちを受けた)科学者で, 生まれは 1564年(生誕の地は フィレンツェ公国, ピサ), 1585年には フィレンツェ に移住, 1642年にトスカーナ大公国の フィレンツェ郊外にあるアルチェトリというところで亡くなっている。

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ガリレオ・ガリレイは「地動説」という歴とした科学の説を唱えた(コペルニクスの地動説を観測によって実証した)廉で 2度にわたりローマ教皇庁による宗教裁判(異端審問)にかけられ, 2度目の裁判では終身刑の判決を受けて, 直後に軟禁に減刑されたものの, フィレンツェ の自宅に戻ることは認められなかった。

後の時代にローマ教皇(当時はヨハネ・パウロ2世)が 17世紀のローマ教皇庁によるガリレオ「異端」裁判の誤りを公式に認め, 既に(とうの昔から)この世にいない ガリレオ に謝罪したのは 1992年。その時は既に, ガリレオの後半生に塗炭の苦しみを与えた不当な判決から実に 359年, 彼の死から350年の時が流れていた。

フィレンツェには 1983年7月2-4日の間いたけれど, その後, ローマに 7月4-8日, 4泊5日滞在して, 6日には ヴァチカン市国 も訪問した。ヴァチカン, ローマ教皇がらみで, 後日この件あらためて note 投稿しようかなと思っている。

フィレンツェ 〜 1983年7月3日(写真6枚)

今日の note 冒頭に書いた通りで, 

今のようなスマホ時代だったなら, いくら「貧乏旅行」バックパッカーでも, 写真は 6枚じゃなくて, 60枚, いや 600枚撮ってたかな(笑)。

フィレンツェで撮った写真たったの6枚かよ, 前回のヴェネツィア note にも書いたけれど載せたけれど(笑), いわゆる「貧乏旅行」の旅人, あの頃は「バックパッカー」というカタカナよりも「貧乏旅行者」とか「貧乏旅行」の旅人とか, そんな自称・他称が多かったと思うけれど, とにかく金ほどではないにしろフィルムも節約せざるを得なかった長旅バックパッカー, なんたって当時は現代のようにスマホで写真をどかどか撮るような時代じゃなかったから, 兎にも角にも, フィルムにも限りはあるのだ, 買い足しはできても金がかかるのだ, 1日で何枚も何枚も撮ってしまうわけにはいくまい, というわけで。

そのとき筆者のカメラはコニカで, 残念ながら同じく日本メーカーの「ナイコン」♫ つまりニコンではなかったけれど, フィルムはコダックだった, これは日本のカメラやアメリカ合州国のフィルムの宣伝ではなくて, note の宣伝!

さてさて, 勿体ぶって, ようやく写真。

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2) 「街全体が美術館」なのだ, フィレンツェ。

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5) 以下の写真, ここは Ponte Vecchio,  ヴェッキオ橋だよね。

ヴェッキオ橋またはポンテ・ヴェッキオ(Ponte Vecchio)は、イタリアのフィレンツェを流れるアルノ川に架かる橋。イタリア語で「古い橋」の名が示すとおり、フィレンツェ最古の橋であり、先の大戦を生き延びたフィレンツェ唯一の橋である。河川の氾濫などで何度か建て直されており、現在の橋は1345年に再建されたもの。橋の上に宝飾店が建ち並んでいることで知られる。
プッチーニのオペラ『ジャンニ・スキッキ』のアリア「私のお父さん」「お父様にお願い」(O mio babbino caro)で娘のラウレッタが「お父さん、もしリヌッチョと結婚できないなら、私、ポンテ・ヴェッキオからアルノ川に身投げしてしまうから」と脅すのでも有名で、フィレンツェの代表的な観光スポットになっている。
The Ponte Vecchio ("Old Bridge", Italian pronunciation: [ˈponte ˈvɛkkjo]) is a medieval stone closed-spandrel segmental arch bridge over the Arno River, in Florence, Italy. It is noted for the shops built along it, as was once common. Butchers, tanners, and farmers initially occupied the shops; the present tenants are jewelers, art dealers, and souvenir sellers. The Ponte Vecchio's two neighboring bridges are the Ponte Santa Trinita and the Ponte alle Grazie.

それはさておき, 芸術作品も勿論いいけれど, やっぱ, 「生きてる」人間の様子もいいのだ。当然なのだ, バカボンのパパだって言ってるのだ, 「それでいいのだ」。

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6) 上から続けてここで 2枚。どうして 2枚撮ったのか, もはや当然のように思い出せない。ところでところで, フィレンツェ Firenze って英語では Florence, これって女性の名前でもあるよね, と書いておいて, 続きはこの写真の下 ♫ 

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フィレンツェ, 英語で言うところのフローレンスで撮った写真たったの6枚かよ, というそこ(何処だ, 笑)のあなたに, フィレンツェ産, いや違う, フローレンス産, いや違う, フローレンスさんの音楽をプレゼント ♫

ヴェネツィア Venezia は英語だと Venice, ローマ Roma の英語は Rome, ナポリ Napoli の英語は Naples, そしてフィレンツェ Firenze は英語では Florence

Florence Welch(ヴォーカルの彼女)はイギリス人, でも単に名前つながりで,

Florence + the Machine 〜 NPR Music Tiny Desk Concert ♫ 

Set List
"June"
"Patricia"
"Ship to Wreck"

Musicians
Florence Welch (Vocals), Tom Monger (Pedal Harp), Hazel Mills (Keyboard and Vocals), Robert Ackroyd (Guitar)

さてさて ♫

イタリア に辿り着くまでの日々

イタリアは最終目的地だったわけではないけれど, とりあえずの極私的「振り返り」用。

以下リンク *1 の note 第4章 1983年4月26日横浜港発のユーラシア大陸「ほぼ」一周旅行, ここまでの振り返り に出発前, 出発, ソ連, フィンランド, スウェーデン, ノルウェー, デンマーク, ドイツ(「ベルリンの壁」崩壊前で西ドイツ!), そしてアメリカ合州国・イギリス・フランス占領下の西ベルリン, 東ドイツの首都だった東ベルリン, ベルリン・ケルン経由でフランス, そしてスイス, 再びの西ドイツ, それらの各 note へのリンクがあり, その後に行ったオーストリアはその note 第1章, その後, オーストリアの首都ウィーンから行った当時のユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国の首都ベオグラードについては以下リンク *2 の note にて, そしてベオグラードから戻った再びのウィーンは *3 の note にて。その「2度目の滞在」のオーストリアを後にして向かったのが, イタリア(フィレンツェの前に行ったヴェネツィアについては今日のこの note の冒頭「前説」部分にリンク)。

*1 音楽の都ウィーンにて, ギターを教える日本人とドイツ語教師のオーストリア人のカップルのお世話に 〜 1983年6月22日&..

*2 ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国の首都だった, ベオグラード 〜 1983年6月, 3泊4日

*3 「音楽の都」オーストリア・ウィーン, 2度目の滞在 〜 1983年6月28-30日


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