ヨルダン, アンマン で パレスチナ難民キャンプ を訪ねて 〜 1983年9月19-23日
1983年4月26日に日本を発って, ソ連・ヨーロッパ・トルコ・シリアを旅し, 同年9月19日にシリア・アラブ共和国の首都ダマスカスを発って陸路, ヨルダン・ハシミテ王国の首都アンマンへ。ヨルダンではアンマンの他, アカバとペトラに行き, ペトラからアンマンに戻り, その後, アンマンから陸路, というかヨルダン川を渡って, イスラエルによる国連安保理決議違反の軍事占領下ヨルダン川西岸地区に入り, そのままパレスチナとイスラエルを旅した(以降はやはりイスラエルによる国連安保理決議違反の軍事占領下にあったガザ地区から陸路, エジプトに行き, 後は再びのトルコ, そしてイラン, パキスタン, インド, タイ, 韓国を旅し, 1984年2月1日に帰国して日本の旅)。
1983年9月19日から23日まで, 4泊5日滞在したアンマン。振り返って何だかヨルダンの首都アンマンには申し訳なく思ってしまうけれど, あの旅の中で最も観光地らしきところに行かなかった都市の一つがアンマンだったかもしれない。
写真 7枚
全て, 本 note 後段の旅日記の中に出てくる, アンマン郊外にあるパレスチナ難民キャンプで撮った写真(1983年9月21日)。最初の6枚は筆者撮影。2)-5) にはキャンプ内の学校から下校する子供たち・少女たちも写っていて, 6) はキャンプ内のわんぱく小僧たち。7) は後段の旅日記で言及するパレスチナ人の家族と一緒に撮った記念写真。
1)
2)
3)
4)
5)
6)
7) 親しくなったパレスチナ人一家と。右から5番目は旅日記に登場する日本人バックパッカーで当時のニックネーム「師匠」(トルコ・イスタンブールで同じ宿になりシリア・ダマスカスで再会してパレスチナ/イスラエルの旅の途中まで共に移動したプロのカメラマン), その左隣は筆者, 当時23歳と10日(細かい!), 1983年4月26日に母国を出てから149日目(再び細かい!)の日本人バックパッカー。
右端の二人, パレスチナ人一家の父親と母親は エルサレム出身。1948年5月のイスラエル「建国」とその前後の第一次中東戦争(次々章の終盤で言及する1948年4月のデイル・ヤシーン村虐殺事件など, イスラエル「建国」前からシオニストによるパレスチナ人に対する民族浄化, Ethnic Cleansing の動きは始まっていた)によって, すなわちナクバ(Nakba, النكبة; アラビア語で大惨事, 大災厄, 大破局といった意味; 当時パレスチナ人を襲い2021年の今も続いている悲劇 *1, *2)によって, 故郷を追われた, その時の70~80万人のパレスチナ難民のなかに含まれる二人。
*1 イスラエルの高校生60人が兵役を拒否し、1948年イスラエル「建国」に伴うナクバ(7, 80万人のパレスチナ人が故郷を失う)に言及
*2 終わらないパレスチナ人の悲劇 〜 アメリカ合州国による徹頭徹尾のイスラエル支援のもとで
次章以降は, この時のヨルダンの首都アンマン滞在中(1983年9月19-23日)の出来事や, 関連してパレスチナ/イスラエル問題に関しての章, そして最後は旅のこれまでとこれから。
1983年9月19日, シリア(ダマスカス)を発って ヨルダン(アンマン)へ
日本を発ったのは 1983年4月26日。その後, ソ連・ヨーロッパを旅した後, 8月11日からはトルコ。トルコの次はシリア。シリア・アラブ共和国が, 初めて旅したアラブの国。シリアには, 1983年9月5日から19日まで 2週間, 14泊15日滞在した。
そして 1983年9月19日朝, シリアの首都ダマスカスを発って陸路, 南へ。同日, 隣国ヨルダンに入国。同日の旅日記の頁, その最初の2行はダマスカスの宿で前日 9月18日に書いていたメモ, その最後の部分。
夜, TV で 去年の イスラエル・レバノン侵攻, サブラ・シャティーラの特集をやってた。
「去年」(1982年)の 6月からのイスラエルによるレバノン侵攻とその最中, 同年9月16-18日にイスラエル軍が包囲する「サブラ・シャティーラ」難民キャンプ(レバノンの首都ベイルート)で起きた虐殺事件については, 以下 notes にて。
以下は昨年の同時期の note
さて,
話を 1983年9月19日 の旅日記に戻す。シリアを発って, ヨルダンへ。
1983年4月26日に日本を発ってから 147日目, 1983年9月19日の朝7時に, シリア・アラブ共和国の首都ダマスカスをバスで発って, シリアの隣国ヨルダン・ハシミテ王国の首都アンマンへ。
アンマン初日, 1983年9月19日
前章の最後に貼った頁の旅日記(写真掲載部分)ラスト2行からの続き。「堀さん」はギリシャ・アテネ滞在中に知り合い, その後, トルコ・イスタンブールで同じ宿になった日本人バックパッカー。ここで再会。「堀さんと3人で」の残る一人は前章に載せたシリア・ダマスカス出発時メモにある「師匠」。トルコ・イスタンブールで同宿, シリア・ダマスカスで再会。
「ジェラシを通って アンマンへ。(パレスチナ (難民) キャンプらしいものはなかったと思う)」と書いてあるが, 実際にはその辺りにも同 難民キャンプはあるもよう(後段の1983年9月22日旅日記メモによれば)。
頁の真ん中より少し下, 「少しは縁がある」と見えてしまう箇所, これは「少しは緑がある」。
旅日記, 次の頁。「堀さん」が会ったパレスチナ人は,
我々は復しゅうしない。復しゅうの歴史は終わりにする
と語った。
アンマンの街のふんいき。人間がどこかギスギスしてる。またまた(今度は)フセインの写真 多し。
なぜ「ギスギス」と感じたのかな(とりあえずアンマンの第一印象に関しては, ヨルダンの前に旅し, わりあい長居したシリアのアレッポやダマスカスなどの街の雰囲気の方が相対的に温かい感じに思えたのかもしれない)。とりあえずこれは初日の印象。
また, ここでいう「フセイン」とは勿論あの, イラクの以前の独裁大統領 サッダーム・フセインのことではなく, 1983年当時ヨルダンの国王(在位:1952年8月11日 - 1999年2月7日)だったフセイン1世・ビン・タラール(الحسين الأول بن طلال, Ḥusayn al-Auwal bin Ṭalāl, 1935年11月14日 - 1999年2月7日)のこと。ヨルダンの前に旅したシリアでは, 街で当時のシリアの独裁大統領ハーフィズ・アル=アサド(現シリア独裁大統領バッシャール・アル=アサドの親父)の写真をよく見かけた。後に旅するイランも特に首都テヘランではホメイニ(アーヤトッラー・ルーホッラー・ホメイニー)の写真だらけだったが, 権力者などのエライさんの写真を街でよく見かけるってのは, どうにもこうにも好かん。スカンクの写真の方がいい。
スカンクさん, 登場, ありがとさん。
アンマンよりダマスが都会。ダマスの方が明るい。
「ダマス」とはシリアの首都ダマスカス(もちろん他意はない, トルコのイスタンブールも「イスタン」と呼んでた)。当時の印象としては, アンマンよりダマスカスの方が「明るい」雰囲気に思えた。果たして, 最近はどうだろうか。
上掲の頁の旅日記にある通り, 前出のパレスチナ人は,
家族などが大ぜい殺されてるのにできるのか(「復しゅうの歴史はおわりに」云々について)
と訊かれ,
できる
と語っている。
なお, 上掲の頁の旅日記の真ん中辺りにある「ベギン」とは, メナヘム・ベギン(מנחם בגין, Menachem Begin; 1913年8月16日 - 1992年3月9日)のことで, 1977年6月20日から1983年10月10日までイスラエルの首相を務めた人物。1983年9月19日の日記に「最近 惜しまれて辞任した」とあるから, 正式退陣前のことなので, 要は 辞任を発表した, というところか。それにしてもあの男が(イスラエル国内では)「惜しまれて」とは!?
メナヘム・ベギンは, ロシア領ブリスク(現ベラルーシ領ブレスト)生まれ, 同地は1919年から1939年にかけてはポーランド領, 1939年からソ連が占領。ベギン自身は1942年のソ連脱出後にユダヤ人の非公然武装組織イルグンに参加し1947年頃にはそのリーダーになっている。ベギンが参加していたイルグンは, 当時パレスチナ(イギリス委任統治領パレスチナ)に駐在していたイギリス軍司令部があったエルサレムのキング・デイヴィッド・ホテル爆破(1946年, 91名死亡)といったテロ活動を行なったが, さらにベギンがリーダーとなって以降のイルグンは, 1948年5月のイスラエルによる一方的な「建国」の宣言の直前, 同年4月のパレスチナのデイル・ヤシーン村におけるパレスチナ人村民(アラブ系住民)虐殺(犠牲者数は定まっていないが, 少なくとも107人以上が殺されたとされる)などのテロも行なっている。
これらは歴とした事実, 当然ながら歴史的な事実と認定されている事件なのだが, 要するに当時のパレスチナ駐在中のイギリス人や住民であるパレスチナ人(パレスチナに住んでいたアラブ系住民)などに対するテロを行なった, 文字通りのテロリストであった男が, 後にイスラエルの首相になっているということ。ウィキペディアによればベギンは「パレスチナ人は2本足で歩く野獣である」と公言していたとか。(首相辞任の前年)1982年のレバノン侵攻時もイスラエルの首相はベギン。
イスラエルによる1982年のレバノン侵攻といえば,
さて, 脱線したが,
話を, 1983年9月20日に戻す(というか, 進める!)。
月刊「イエニ」でも発行しようか 〜 1983年9月20日
この頁, 最初の4行は, 1983年9月19日付旅日記の終わりの4行(前章に掲げた頁からの続き)。そこに書かれている「サブラ・シャティーラ」といえば,
また脱線した。
話を再び, 1983年9月20日に戻す(というか, 進める!)。
彼ら(「向かいのホテル」にいたエジプト人)によれば「イスラエルは 100年後にはない国」との由。その時から100年後といえば西暦2083年。どうだろう, イスラエルの有無はともかく, あの地が, パレスチナ人(パレスチナのアラブ人)もユダヤ人も, またムスリムもクリスチャンもユダヤ教徒も, 他の宗教の信徒も無神論者も, 皆が平和に暮らせるような地域になっていてほしいところだが。
最後の2行。
旅行雑誌, 月刊「イエニ」なんてのをつくろう なんて話。旅行から政治, 社会まで。
今からでも遅くない? あらためて「つく」りたい気はする(笑)。
この「イエニ」とは「イエニペンション」の略で, トルコのイスタンブールに滞在中に泊まっていた宿の名前(1泊が当時の為替レートで日本円にして200円程度の安宿だった)。
以下はさらに脱線して, イスタンブールの「イエニペンション」滞在中の脱線話題で, イラン革命の件(タイトル写真は後にイランの首都テヘランに滞在した時の写真, 筆者撮影), イスラーム革命後のイランから脱出してトルコのイスタンブールの「イエニペンション」に滞在していたイラン人兄弟から聞いた話。
また脱線した。
話を再び, 1983年9月21日に戻す(というか, 進める!)。
「我々は彼らとともに住むことができる。ユダヤ人もパレスチナ人も クリスチャンもユダヤ教徒もムスリムも 1つの国でくらせる。民主的な国で。」(アンマン郊外のパレスチナ難民キャンプ出身のパレスチナ人が語った言葉) 〜 1983年9月21日
最初の2行(「シリアでもヨルダンでも 酒は手に入る。店ではほとんど売ってないと思うが, 道で売ってたりする。」)は, 前日, 1983年9月20日付旅日記の最後の部分。
3行目から, 1983年9月21日。
「Ministry of interior」とは, ヨルダン内務省のこと。この Ministry of interior に, 後日(アンマンの後にアカバ, ペトラを旅した後で戻ってから)アンマンから, 陸路, イスラエルが1967年6月の軍事侵攻以来, 同年11月の国連安保理決議242号にも違反して軍事占領を続けるヨルダン川西岸地区(1948年のイスラエル「建国」前は イギリス委任統治領パレスチナの領内, その後はイスラエル「建国」に伴う第一次中東戦争後1967年のイスラエルによる占領の前までは東エルサレムを含んでその地域をヨルダンが統治, ただし1967年6月以降のイスラエルによる占領同様, 20年近いヨルダンによる占領・統治も国際社会のほとんどは承認しなかった)に行くことの「パミッション」を得るための手続きに行った。当時のヨルダンは国としてイスラエルを承認しておらず(したがって外交関係なし), かつ実態とは異なり依然としてヨルダン川の向こうもヨルダン領という建前があり(もともとそれ自体, 国際社会のほとんどが認めていなかったことだが), その建前の下, 当時のヨルダン政府は外国人旅行者がアンマンからヨルダン川西岸地区に入ることを(手続きを経た上で)黙認していた。要するに, ヨルダン政府の許可を得てヨルダン川西岸地区に入り, しかし一度入ってしまえば, イスラエルのスタンプがある以上, ヨルダンには戻れないという, 事実上の片道・一方通行「許可」。入ればそこはイスラエルによる違法軍事占領地となっていて, "Welcome to Israel" のプロパガンダ看板が旅人を迎えるという構図(で, イスラエルに占領されているのはパレスチナ人の土地なのだが)。
なお, 話変わって, その後, エジプト大使館に行ったのは, ヨルダンの後のパレスチナとイスラエルの旅の後, エジプトに行くことにしていたから。
アンマン郊外のパレスチナ難民キャンプ『アルワヒダット キャンプ』に行って, そこのパレスチナ人一家と親しく会話した。
いまネット上を検索すると, Al-Wehdat refugee camp という名のアンマン郊外のパレスチナ難民キャンプが出てくるのだが, 以下の旅日記にあるアドレス上の表記と若干だけ綴りが異なる。ただ, アラビア語の英語アルファベット表記には通常ばらつきがあるので, やはりこれなのだろうなと推測はできる。ただし, この日の旅日記の中に「このキャンプは 65年につくられたもの」という記述がある一方で, 上記の Al-Wehdat refugee camp は UNRWA(United Nations Relief and Works Agency for Palestine Refugees in the Near East; 近東パレスチナ難民の為の国際連合救済事業機関, 日本語の通称は国際連合パレスチナ難民救済事業機関)によって1955年に建設されたという説明が見られる。だとすると, 自分が聞いた「65年につくられたもの」ということの意味は, その言葉に "このキャンプの中のこの一画は" といった言葉が補われるものなのかもしれない。
以下の写真2枚, 当時の旅日記の4ページ分の中に記されている, アンマン郊外のパレスチナ難民キャンプで親しくなったパレスチナ人が話したことは極めて重要だと, 今も思う。因みに「パレスチナは我々の国だったのだ」の「パレスチナ」は, 国家統治のレベルで厳密に言うと「イギリス委任統治領パレスチナ」。当時(1918年から1948年まで)の占領・統治自体の主体はイギリスだった(その前に遡るとパレスチナは16世紀以降オスマン帝国の支配下)。
パレスチナという言葉は紀元前からあった呼称だが, 16世紀以降その地はオスマン帝国の支配下, そして同国が第一次世界大戦で敗戦国となった後は1918年からイギリスが占領, 1920年から1948年までは Mandatory Palestine (British Mandate for Palestine) つまり「イギリス委任統治領パレスチナ」だった。そのパレスチナにおける人口に関しては, 1918年にイギリスが実施した人口調査によれば, アラブ人(今日言うところのパレスチナ人)が 700,000人に対してユダヤ人は 56,000人と前者の 1/12以下に過ぎなかった。19世紀末期からヨーロッパにおける長年のユダヤ人差別を背景としたユダヤ人のパレスチナへの移住の動きは進んでいたが(シオニズム, シオンは旧約聖書に出てくるエルサレム地方の呼び名), 1918年時点ではまだまだ, ユダヤ人はパレスチナにおいて圧倒的少数派だったことになる。
それが, イギリスの三枚舌外交(1915年10月のフサイン=マクマホン協定で中東地域におけるアラブ諸国独立を約束, 1916年5月のフランス・ロシアと秘密裏に結んだサイクス・ピコ協定で同3ヶ国による中東地域の分割支配を目論み, 1917年11月のバルフォア宣言ではイギリスの当時の外務大臣アーサー・バルフォアがイギリス政府によるシオニズム支持を表明), 当然ながら中でもバルフォア宣言, そしてドイツを中心にヨーロッパで吹き荒れたナチスによるユダヤ人弾圧とホロコーストなどを背景に, シオニズム, その思想の下でのユダヤ人によるパレスチナ移民の動きは加速度的に強化・拡大され, パレスチナにおけるユダヤ人の人口は急激に増加していく。しかし, それでも, 1947年に当時まだ欧米諸国が支配的だった国連総会で「国連パレスチナ分割案」(同案の中で国連の信託統治領とする計画だったエルサレムを除くパレスチナ全域の土地の 56%を, アラブ人=今日言う「パレスチナ人」の人口の半分に満たないほどの人口だった少数派のユダヤ人の国家の土地にするという極めて不当かつ不公正, 不公平な分割案)が採択される際の国連の報告書では, 当時のパレスチナにおける人口はアラブ人(同上, パレスチナ人)とその他(アルメニア人などの少数を指すと思われる)が 1,237,000人, それに対しユダヤ人の人口は 608,000人で全体の33%程度だった。そして, イスラエル「建国」直前のパレスチナにおけるユダヤ人はその時点で域内の全人口の1/3程度という少数派だっただけでなく, 上述の背景により, つまり過去数十年間の短期間におけるユダヤ人のパレスチナへの移民の運動の拡大の結果としてのユダヤ人人口急増という歴史的背景のもと, ユダヤ人のパレスチナ全域における土地所有率にいたってはわずか 7-8%程度に留まっていた。これら歴史上の経緯を知れば, 上記の当時 設立間もなく欧米諸国の力が圧倒的に強かった時期の国連が決めた「パレスチナ分割」の案の中身が, パレスチナ人にとっていかに不当なものであったかは容易に想像できるであろう。
繰り返しになるが, 以下の写真2枚, 当時の旅日記の4ページ分の中に記されている, アンマン郊外のパレスチナ難民キャンプで親しくなったパレスチナ人が話したことは極めて重要だと今も思う。なお, 「パレスチナは我々の国だったのだ」の「パレスチナ」は, 国家統治の実態を踏まえて厳密に言うなら「イギリス委任統治領パレスチナ」。当時(1918年から1948年まで)の占領・統治自体の主体はイギリスだった(その前に遡るとパレスチナは16世紀以降オスマン帝国の支配下)。
「西銀行」は West Bank, ヨルダン川西岸の意。Bank はもちろん本当は銀行ではなく, 岸とか土手のことだけど, 日記に意味なく暗号的に書いてたようで。
パレスチナ/イスラエル問題 〜 One Democratic State Campaign
この件は前章で取り上げた, 1983年9月21日にヨルダン・アンマン郊外のパレスチナ難民キャンプで知り合ったパレスチナ人が語った言葉からの連想で載せるもの。
現在のパレスチナ/イスラエルの土地に一つの民主主義的な世俗国家を作ろうという考えはかなり以前からあるが, 近年, パレスチナ人とイスラエル人の共同により具体的に文字通り One Democratic State Campaign という名のキャンペーンが立ち上がっており, その Manifesto には パレスチナ人やイスラエル人だけでなく, 欧米諸国や, 日本を含むアジア諸国, アラブやアフリカ, オセアニア, ラテンアメリカなど世界中の様々な国々の人々が賛同者として署名している。
1) この記事に詳しい(The Electronic Intifada, 2020年12月17日)。
2) Palestinians and Israelis call for a Single Democratic State (November 15, 2020)
3) One Democratic State Campaign 〜 Manifesto
次章にリンクを付す note は, この件について日本語での解説をしている。
パレスチナ/イスラエル問題 〜 「民主主義的な一国家」という突破口
この件は 前章からの続き。本 note 前々章に載せた, 1983年9月21日にヨルダン・アンマン郊外のパレスチナ難民キャンプで知り合ったパレスチナ人が語った言葉からの連想で, ここに紹介するもの。
以下は本 note 筆者によるものではない(筆者は BDS Japan Bulletin のメンバーでもない, 念のため)。
パレスチナ/イスラエルが 「民主主義的な一国家」 になるという未来の 「現実」 を想像する
引き続き, パレスチナ/イスラエル問題に関して, 本 note 前々々章で取り上げた, 1983年9月21日にヨルダン・アンマン郊外のパレスチナ難民キャンプで知り合ったパレスチナ人が語った言葉からの連想。こちらは筆者が以前 note 投稿したもの。
理想主義ではなく現実主義の「イマジン」。
ここでちょっと, 「イマジン」を 〜 ネイマールも歌ってる, 歌詞和訳つき
前章からの連想で, John Lennon の Imagine ♫ .. 世界には宗教を信じる人たちがまだまだ沢山いるから(筆者は無神論者, 無宗教), "Nothing to kill or die for .. And no religion, too" をどう歌うかは, 人それぞれだろうけど。
上掲 2つのリンク先 notes で John Lennon が書いた Imagine の歌詞の筆者による和訳を掲載したんだけど(一箇所だけ歌詞が異なる Neil Young によるカヴァー・ヴァージョンも), 今日ここでは, "Imagine" UNICEF version を(0:39~ と 1:49~ に故 John Lennon も登場し, 最後は Yoko Ono と John Lennon)。歌詞は John Lennon のオリジナルと同じ。
UN も UNICEF も, 現実の世界の多くの問題を解決するにはまだまだ力 及ばず だけれど, こういう組織を全否定してもしかたない(「しかたない」という言葉をネガティヴに使うのは嫌いだけど, ここはそういうことでなく)。
0:39~ John Lennon の後, 0:45~ ではブラジルの世界的サッカー選手 Neymar (Neymar da Silva Santos Júnior) も歌い, 1:11~ には日本のパフィー(PUFFY)の二人も登場。その他に 2:02~ Katy Perry や 2:45~ will.i.am (Black Eyed Peas) なども。
*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。英語歌詞・原詞は公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.1 加筆/削除/編集)。
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想像してみよう、天国なんてないってことを
やってみれば簡単なことさ
僕らの足下には地獄なんてなく
頭上にあるのはただ空だけなんだ
想像してみよう、全ての人が
今日のために生きているってことを
想像してみよう、国も国境もない世界を
想像するのは難しいことじゃないさ
人を殺す理由もないし、自分が死ぬ理由もない
そんな宗教だってない
想像してみよう、全ての人が
平和な人生を生きているってことを
きみは僕を夢想家だと言うかもしれない
だけど僕一人だけじゃないんだ
僕は希望を持ってるのさ
いつかきみ達も僕らのように想う時が来るってね
そうしたらこの世界は一つに結ばれるんだよ
想像してみよう、所有するものなんてないってことを
きみに出来るだろうか
欲張ったり飢えたりする必要もない
人はみんな兄弟なんだ
想像してみよう、全ての人が
この世界を分かち合っているってことを
きみは僕を夢想家だと言うかもしれない
だけど僕一人だけじゃないんだ
僕は希望を持ってるのさ
いつかきみ達も僕らのように想う時が来るってね
そうしたらこの世界は一つに結ばれるんだよ
話を戻す
この歌 "Get Back" の成り立ち(一説によると.. ただし作者 Paul McCartney 本人は否定している説)を想像すると, 前章で載せた歌の作者 John Lennon との関係が微妙にも思えるけれど, ここは単に本 note における話を次章で「戻す」ためのただの前振りで, この歌のタイトル Get Back だけ戴き。
"Get Back", アルバム "Let It Be" 収録ヴァージョン。"Let It Be" ならこれ。
脱線した ♫
とにかく, 話を Get Back する!
エジプトのヴィザ取得したり, アカバ(ヨルダン)へのバス予約したり 〜 1983年9月22日
最初の5-6行程度は, 1983年9月21日付旅日記のメモの最後。
月刊 or 季刊「イエニ」!
これについては本 note の前段の方の章 月刊「イエニ」でも発行しようか 〜 1983年9月20日 のところに記述。
去年のハマ暴動は 1ヶ月, 死者 1万以上とのこと。
とあるのは, ヨルダンではなく, シリアの話題。
話を,
1983年9月22日の, ヨルダン・アンマン旅へ。
「Ministry of interior」と「パミッション」については, 本 note 前段の方の章 「我々は彼らとともに住むことができる。ユダヤ人もパレスチナ人も クリスチャンもユダヤ教徒もムスリムも 1つの国でくらせる。民主的な国で。」(アンマン郊外のパレスチナ難民キャンプ出身のパレスチナ人が語った言葉) 〜 1983年9月21日 に書いた通りで,
「Ministry of interior」とは, ヨルダン内務省のこと。この Ministry of interior に, 後日(アンマンの後にアカバ, ペトラを旅した後で戻ってから)アンマンから, 陸路, イスラエルが1967年6月の軍事侵攻以来, 同年11月の国連安保理決議242号にも違反して軍事占領を続けるヨルダン川西岸地区(1948年のイスラエル「建国」前は イギリス委任統治領パレスチナの領内, その後はイスラエル「建国」に伴う第一次中東戦争後1967年のイスラエルによる占領の前までは東エルサレムを含んでその地域をヨルダンが統治, ただし1967年6月以降のイスラエルによる占領同様, 20年近いヨルダンによる占領・統治も国際社会のほとんどは承認しなかった)に行くことの「パミッション」を得るための手続きに行った。当時のヨルダンは国としてイスラエルを承認しておらず(したがって外交関係なし), かつ実態とは異なり依然としてヨルダン川の向こうもヨルダン領という建前があり(もともとそれ自体, 国際社会のほとんどが認めていなかったことだが), その建前の下, 当時のヨルダン政府は外国人旅行者がアンマンからヨルダン川西岸地区に入ることを(手続きを経た上で)黙認していた。要するに, ヨルダン政府の許可を得てヨルダン川西岸地区に入り, しかし一度入ってしまえば, イスラエルのスタンプがある以上, ヨルダンには戻れないという, 事実上の片道・一方通行「許可」。入ればそこはイスラエルによる違法軍事占領地となっていて, "Welcome to Israel" のプロパガンダ看板が旅人を迎えるという構図(で, イスラエルに占領されているのはパレスチナ人の土地なのだが)。
「ブリッジ」とは, 上記の手続きを経たうえで ヨルダン川を渡って イスラエルによる軍事占領下の ヨルダン川西岸地区に入るための「ブリッジ」。
当時の(日本)大使館職員の話。
アンマンは 60% パレスチナ人。もちろん街にもいるだろうが, いくつかあるキャンプに人口集中か!?
「キャンプ」とはもちろん, パレスチナ難民キャンプのこと。
アンマンには後日もどるが, 一旦は発って, アカバへ 〜 1983年9月23日
「ホリさん」が向かった「Bridge」については前章。「アル・クドゥス」は القُدس (al-Quds), エルサレムを意味するアラビア語。
オレと師匠は アカバ へ。
そして,
4時間強で アカバ に着く。
アカバ(アカバ湾に面し, 紅海を経てインド洋に通じる, ヨルダン南端の港湾都市)では, アカバの西隣の都市, イスラエル領「エラート」(エイラート)が見え, その方向に向かい海岸沿いを歩くと,
途中 POLICE も SOLDIER も OK と言うので 歩いていくと 国境ギリギリ
さて, この後 ..
.. この後, どうなったかは, 当時の旅日記の次頁。次回のヨルダン旅 note にて。
1983年4月26日に日本を発って, ヨルダンに入国するまで(ソ連, ヨーロッパ諸国, トルコ, シリア)
な〜んて見出しを付けたけれど, いろいろリンクを貼ろうと思ったものの, 今日はそこまでするのはやめて,
本 note 第2章でリンクを付した シリア・アレッポ 旅 note の最後から3番目の章 1983年4月26日に日本を発ってから, 初めてのアラブの国 シリア を訪れる前までの日々 (ソ連, ヨーロッパ, トルコ) における説明(note リンクなど)および 本 note 第2章にリンクを載せた シリア のアレッポ, パルミラ, ダマスカス それぞれの旅 note を加えれば, 本章見出しの通りに 日本からシリアまでの旅程 が繋がる, ということで!
旅はまだまだ続く。