All Along the Watchtower ー OF COURSE, by Jimi Hendrix (歌詞和訳)
前説
タイトル上の質問に対する筆者の回答は、本投稿のタイトル。
まぁ 2016年の秋にボブ・ディランの一線を超えた破廉恥極まりない「イスラエル支持ソング」の存在を知って以来ディランの音楽を聴かなくなった筆者ではあるものの、ハッキリしておきたいのは、ディランが作った曲には今でも好きな曲は少なくないが、誰かがカヴァーしている場合は、ほぼ例外なくカヴァーの方が良い、その嗜好と思考はディランの音楽のファンだった頃から(ただしディラン・フリークになったことはない、歌詞はいいかもしれないが筆者はディランが音楽的にそれほど素晴らしいと思ったことは昔っから無い)、ずっと一貫しているということ。
音楽なんだから、基本、音を楽しめばいいんで、何がいいかなんて個人の好き嫌いで構わない。構わないと思うが、というか、だからこそ書いておくと、例えば生まれた年(1941年)まで同じ、且つたまたま同じユダヤ系アメリカ人ミュージシャンで同時代のポピュラー音楽界の巨人と言っていいポール・サイモン、彼が作り出してきた音楽は「豊穣」という言葉が相応しい中身の濃さを持っていて、そして歌詞も素晴らしいんだけれど、それと比べてディランの方は歌詞は「文学賞」「なのかもしれない」が、歌詞の文字通りの「言葉」以外のところの「音」を評価した場合、筆者自身はディランのそれが世間で評価されるほどに素晴らしいと感じたことは一度もない。メロディにしても、あの歌い方にしても、演奏を含めた曲全体のパフォーマンスとしても。
ただ何だろうね、2016年4月に2回ディランのライヴを東京で観たんだが、とりわけ1回目の時、それが筆者が初めた生で観たディランだったこともあってか、少なくとも客席から観ていた時はステージ上のディランから言わばカリスマ的なオーラみたいなものを感じたのは事実。あれはほんと、いま想えば何だったんだろうね、という感じ。騙されたのか(笑)、それとも本当に何かあるのか。
まぁでも正直、また観たいとは思わないし、あの時のこっちの気分に関して特に改めて追及したいなどという欲求は全く無いのだが。
"All Along the Watchtower" by Jimi Hendrix 〜 歌詞和訳
"All Along the Watchtower" written by Bob Dylan ー covered by Jimi Hendrix (November 27, 1942 – September 18, 1970)
*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。英語歌詞・原詞は公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.1 加筆/削除/編集)。
..............................
「ここから脱け出す道があるはずだが」
ジョーカーが泥棒に言った
「混乱し過ぎて心休まる時が全くないんだ
商売人は俺のワインを飲むし
農夫は俺の土地を掘り返す
結局境界線の奴らは誰もわかっちゃいないんだ
そいつにどんな価値があるかってことをね」
「エキサイトする必要はないさ」
泥棒が優しく言った
「ここには人生はジョークに過ぎないと感じてる奴ばかり
だけどあんたと俺はそいつを通り抜けてきたし
これは俺たちの運命じゃないのさ
だから俺たちは間違わないことだ
死期を迎える時は遅くなりつつあるんだよ」
見張り塔からずっと
君主たちは監視を続けた
そのあいだ女達はみんな入ったり出たり
裸足の召使達も同じだった
遠く彼方で山猫が唸り声をあげると
馬に乗った二人が近づいてきた
風も音を立て始めたぜ
見張り塔からずっと
見張り塔からずっと
Bonus track 1 : "All Along the Watchtower" by Neil Young and Pearl Jam 〜 歌詞和訳
*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。英語歌詞・原詞は公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.1 加筆/削除/編集)。
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「ここから脱け出す道があるはずだが」
ジョーカーが泥棒に言った
「混乱し過ぎて心休まる時が全くないんだ
商売人は俺のワインを飲むし
農夫は俺の土地を掘り返す
結局境界線の奴らは誰もわかっちゃいないんだ
そいつにどんな価値があるかってことをね」
「エキサイトする必要はないさ」
泥棒が優しく言った
「ここには人生はジョークに過ぎないと感じてる奴ばかり
だけどあんたと俺はそいつを通り抜けてきたし
これは俺たちの運命じゃないのさ
だから俺たちは間違わないことだ
死期を迎える時は遅くなりつつあるんだよ」
見張り塔からずっと
君主たちは監視を続けた
そのあいだ女達はみんな入ったり出たり
裸足の召使達も同じだった
遠く彼方で山猫が唸り声をあげると
馬に乗った二人が近づいてきた
風も音を立て始めたぜ
馬に乗った二人が近づいてきた
馬に乗った二人が近づいてきた
馬に乗った二人が近づいてきた
馬に乗った二人が近づいてきた
馬に乗った二人が近づいてきた
馬に乗った二人が近づいてきた ..
Bonus track 2 : "Like a Rolling Stone" written by Bob Dylan, covered by Jimi Hendrix 〜 「死せる伝説」ボブ・ディランに捧ぐ
"Like a Rolling Stone" written by Bob Dylan ー Jimi Hendrix (November 27, 1942 – September 18, 1970) LIVE at Monterey pop Festival, June 19, 1967
以下は同じ音源のライヴ映像付き(ただし映像と音との間にズレがある感も)、いずれ YouTube 上から消えるかもしれないので、先に上のクリップを載せた。
映像はこちらの方が断然鮮明、ただし Facebook 上のヴィデオ。
*一般社団法人日本音楽著作権協会(JASRAC)より「著作権を有する音楽著作物の著作権を侵害している」旨, 指摘を受けた為, 当初 私の誤認識によりここに掲載していた英語歌詞を削除しました。歌詞に関心のある方は, 公式サイト等に掲載されているものを確認してください(2022.9.1 加筆/削除/編集)。
付録 1 : ディランは 2016年の秋以来、聴かなくなった
もちろん、「もちろん」ということわりを付けるのが相応しいようなことであると思っているから付けているんだが、音楽を含むアート、音楽にしろ、絵にしろ、彫刻にしろ何にしろ(しかし映画とかになるとやや趣が変わってくるが、それはさておき)、その鑑賞は作者の側の狭義の「政治」的立場や聴く側の狭義の「政治」的立場から離れたところで為されるべきものだと思っている。というか、どう鑑賞しようが鑑賞する側の勝手とも言えるので、為されるべきというよりも、為された方がいいと思っている、といった程度かな。要するに、例えば音楽作品を評価する際にそれをある種の「政治」的文脈の中で語ることは、筆者自身は好まない。それは多くの音楽愛好家がそうだろうとも思う。
しかしながら、そうは言っても、人間、超えてはならない一線というものはあると考える。それが筆者の「立場」、スタンス、アティテュードみたいなもの。
一例ならぬ二例を挙げれば、これは多くの人が知っている(とりわけ前者、しかし筆者と同年代の人ならば後者についても記憶している人は多いだろう)歴史的事象との関連で「仮定」した話なので分かりやすい例だと思うが、例えばあのゲルニカを描いたパブロ・ピカソが実は一方でナチス・ドイツを礼賛もしくは擁護する思想を込めた作品を残した過去があってそれについて後悔も反省も公にしないままにその生涯を閉じた人だったとしたら、ピカソの後世の評価は現在のそれのようになっていただろうか。それはどう考えても「否」だろう。もちろん彼はそんな作品を残してないわけだが、仮にそうだったとしたら、彼に対する後の評価が今のそれと同じものであることなど有り得ない。それは、いくら「芸術」の世界とはいえ、人として超えてはならない一線を超えたと多くの人に判断されることになるからである。
もう一つの「仮定」の例。ジョン・レノンがヴィエトナム戦争時代のアメリカ軍によるヴィエトナムでのソンミ村虐殺事件の直後に「アメリカ合州国」支持ソングみたいな奇妙な趣旨の歌を書いて自身のレコードに収録していたことが後にその歌詞の内容から明らかになり、しかし彼がそのことの後悔も反省も公にしないままにその生涯を閉じた人だったとしたら、それでも後年の彼の Love & Peace のイメージがそのままだったなどということは有り得ない。ビートルズ時代やソロの時代の名曲それぞれへの評価は肯定的なままに残るとしても、それでも、聴く人によっては、彼の残した音楽作品を鑑賞するに際してまで何らかのネガティヴな影響を与え得ることになるだろうと思う。
ボブ・ディランの「イスラエル支持ソング」は、仮定の話ではない。現実に、彼は、その、明らかに超えてはならない一線を超えたタイミングで、その為にますます破廉恥なものとなった「イスラエル支持ソング」を書いて「異教徒たち」なるタイトルの彼の公式アルバムに収録し、その歌詞は今も彼の公式ウェブサイトに掲載されているのである。もう一度言うが、これは上の二例のような「仮定」の話ではなく、現実の話である。
なぜ、ディランは日本を含む世界の著名なメディアやジャーナリズム(そこに音楽ジャーナリズムを含めてもいいが)から守られ続けるのかね?
私がボブ・ディランの「不都合な真実」を知ったのは 2016年の10月のことで、それはその時期にたまたま同年5月24日付のイスラエル紙 Haaretz が "Unearthing Bob Dylan’s forgotten pro-Israel song" と題した記事を掲載していることを知り、実際にその記事を読んだからなのだが、要するに、ディランは、1982年のイスラエルによるレバノン侵略とイスラエルが加担したベイルート内のサブラ・シャティーラ難民キャンプにおいて 3,000人以上が犠牲者となったパレスチナ難民虐殺事件の後に(世界がイスラエルを非難し、イスラエル国内でさえ反戦運動や反政府の集会・デモなどが連日行なわれていた最中に)そのタイミングを踏まえれば尚のこと破廉恥極まりない「イスラエル支持ソング」 "Neighborhood Bully" を書き、その曲を、翌1983年に彼がリリースした、収録曲を踏まえれば極めて恥知らずなタイトルのアルバム「異教徒たち」(原題 Infidels, このアルバムでその "Neighborhood Bully" の直ぐ後に収録されているのがこちらは比較してずっと有名な曲 "License to Kill")に収めていた。
その歌詞はイスラエルのことを "He" として擬人化しているので多くの人にとってはちょっと見では何を言ってるのか分かりにくいものなのだが、しかしイスラエルやいわゆる「パレスチナ問題」について知る人ならば直ぐに察しがつくような歌詞になっていて、Haaretz の記事が言う通り、(世界の大抵の平和愛好者にとって極めて悪名高い政治指導者の一人である)現イスラエル首相ベンジャミン・ネタニヤフ Benjamin Netanyahu の演説を彷彿とさせる部分があるかと思えば、残りの部分はどうかというと、例えば「パレスチナ問題」に詳しい人ならほぼ誰もが知っていると言っていい、やはりその世界では悪名高いイスラエルの若い世代(政治家の世界の話だから一般の世界で言えばもはやそれほど若いわけではないが)のシオニストの右派、というより極右シオニストという言葉の方が相応しいだろうが、ナフタリ・ベンネット Naftali Bennett の主張を想起させるような内容のものだった(後者に関しても Haaretz が適切に指摘しているが)。
そして、この歌はそのまま今も当然のようにそのアルバムに収録されたままだし、上にも書いた通り、ディランの公式ウェブサイトにも、その歌詞が他の歌と全く同様に、躊躇なく、言わば恥ずかしげもなく、現在も掲載されたままである。
以下は、NYT とか The Washington Post とか The Guardian といった(日本でも例えばクソ朝日新聞その他)、世界の名だたる主流派メディアが無視し、取り上げようとしないボブ・ディランの「不都合な真実」について、イスラエルのメディアやアメリカ合州国のメインストリームでないメディア、その他アラブ系メディアなどが取り上げた記事 4点、そして、ディランの「不都合な真実」とメディアの沈黙(日本の例として朝日新聞)などについて取り上げた、筆者の過去の note 投稿 3点。
Unearthing Bob Dylan’s forgotten pro-ISRAEL song ー ISRAELI media Haaretz
Bob Dylan’s embrace of ISRAEL’s war crimes ー Chicago based media, The Electronic Intifada
Portrait of Bob Dylan as a defender of ISRAEL ー London based media, The New Arab (Al-Araby Al-Jadeed)
THE OTHER Bob Dylan ー Al Jazeera
付録 2 : ジミヘンの「見張り塔からずっと」初出の筆者 note 投稿
以下は、ジミヘンの「見張り塔からずっと」歌詞和訳付き初出の note 投稿と 2回目に掲載した時の note 投稿、つごう 2点。
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