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僕の歩いてきた道は「引き算」の前進です


「北園克衛の世界 白のなかの白のなかの黒」コピー

』8号掲載の鼎談「北園克衛の世界 白のなかの白のなかの黒」コピーを頂戴しました。感謝です。こんなお手紙が添えてありました。

遊は学生時代から購入して殆ど揃えており、8号も架蔵しておりました(まあ、皆さん同じでしょうが、架蔵していることとすぐに取り出すことができることとは関係がないのですが)。そこで、何とかクローゼットの前の天岩戸を動かして引っ張り出し、ようやく該当の記事をコピーしました。

今では考えられない雑誌の時代。その中でもひときわ異彩を放った雑誌でした。もう同じような雑誌は作ろうと思っても無理ですね。

探索ご苦労さまでした。天岩戸を開いてくださっただけあって、この空前絶後のインタビューはアマテラスのように輝いております。いくつか気になった部分を引用してみます。まずは『VOU』について杉浦康平の発言です。

僕が北園さんの詩に関心を持ったきっかけというのは、芸大の建築にいた頃で、学的な興味も素養もなかったのですが、本をいろいろ集めるのが好きで、そこにある活字の存在感とか違和感とかが気になりまして、そういうものを見ている時にふと紀伊国屋なんか行くと、「VOU」のある所だけは何かちょっと「風の流れ」が違うようなパンフレットが置いてあって、「おや!」と気を惹かれたのが最初なんです。

p84

これは当時の紀伊國屋書店を知らない者にとっては貴重な発言です。紀伊國屋書店の田辺茂一と北園は戦前からの付き合いでしょうが、そこには『VOU』やその他のパンフが並べられていたんですね。終わりの方でふたたびこの当時の回想がありまして、そこで杉浦は《つむじ風が吹いている感じがした》その理由を他の印刷物とは違う小さな活字《北園さんのは徹底的に8ポイントだったんですね。8ポでなおかつ当時モダンな書体だったフーツラを使われていた》(p96)というところに求めています。

また『Kitasono Katué 1902-1978』の紹介のときに触れました、著者の一人ジャン=フランソワ・ボリー(Jean-François Bory)氏についての言及というのは次のようなものです。コンクリート・ポエムとの関係について語っているくだり。Sは杉浦。⚫️が北園。

Sーーフランスでは「空間派宣言」が出てからはやはり違う一派になっています。
⚫️ーーそれは知りませんでしたが、僕がやっていた頃のフランスではフランシス・ボリーとジュリアン・ブレインという男が活躍していた。このふたりも何年か前に別れた。ボリーは野獣的で変な男です。

p91

そして、戦前の日本におけるシュルレリスムについても、次のような発言は注意を要するところではないでしょうか。シュルレアリスムについての知識は慶応の西脇順三郎の教え子たちが北園のところへ持ち込んだそうです。

僕は当時ダダは知っていたけれどシュルレアリスムには近くなかった。けれども上田(敏雄)君とその弟の保君とは深く交際を始めまして、最初はそういう交際の中から知識が積み重なってきた。シュルレアリズム[ママ]中期には、神楽坂の白十字で佐藤朔とか滝口君と定期的な会合を持ったこともありますが、僕と上田君はブルトンやアラゴンのやり方があまり面白いとはおもえなかったので、勝手に宣言などを作ってあちこちに送っていたものです。だから滝口君の書いているものとはずいぶん違っていた。正統でないといえば正統でないけれども、僕に言わせれば真似したくない、ということですよ。フランス語でやられたら、こちらでどんなにうまく真似をしたって駄目ですよ。

p93

瀧口修造との本質的な違いが述べられていて興味深い告白です。本場ものを輸入してしっかり真似することが瀧口たちの方向性だったという見方は面白いと思います。日本人の伝統的性格と言ってもいいかも知れません。北園にはそれが肌に合わなかった。この具体的な例としてテレビコマーシャルを挙げているのがまた興味深いのです。

坊屋三郎のコマーシャルではありませんが、僕は坊屋式の発音の方が面白いとおもうのですよ。日本人が日本人に言うならそれでいいんです。

p94

このカラーテレビのコマーシャルはよく覚えています。テレビを挟んで小柄なコメディアンの坊屋三郎と大柄な外国人が向かい合っています。外国人(白人男性)が「クイントリックス」といかにもな英語で発音すると、坊屋が「くいんとりっくす」とベタな日本語で繰り返すのです。「あんた外国人だろ、英語の発音がだめだねえ」と言うところに皮肉が効いていました。1974年のこと。北園克衛も見ていたんですね。

鼎談のシメの発言は北園です。

ええ、まあ僕の歩いてきた道は「引き算」の前進です。いろいろくっついたものをだんだん取って、どんどん取るうちにとうとう骨にまでなる、ということですね。

p97

このあたりがやはり瀧口修造とは、瀧口の晩年のドローイングなどを思い浮かべてみれば分かりますが、方向がかなり違っているんだなと納得できます、戦時下での態度もまたはっきり異なっているように。

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