僕の歩いてきた道は「引き算」の前進です
『遊』8号掲載の鼎談「北園克衛の世界 白のなかの白のなかの黒」コピーを頂戴しました。感謝です。こんなお手紙が添えてありました。
探索ご苦労さまでした。天岩戸を開いてくださっただけあって、この空前絶後のインタビューはアマテラスのように輝いております。いくつか気になった部分を引用してみます。まずは『VOU』について杉浦康平の発言です。
これは当時の紀伊國屋書店を知らない者にとっては貴重な発言です。紀伊國屋書店の田辺茂一と北園は戦前からの付き合いでしょうが、そこには『VOU』やその他のパンフが並べられていたんですね。終わりの方でふたたびこの当時の回想がありまして、そこで杉浦は《つむじ風が吹いている感じがした》その理由を他の印刷物とは違う小さな活字《北園さんのは徹底的に8ポイントだったんですね。8ポでなおかつ当時モダンな書体だったフーツラを使われていた》(p96)というところに求めています。
また『Kitasono Katué 1902-1978』の紹介のときに触れました、著者の一人ジャン=フランソワ・ボリー(Jean-François Bory)氏についての言及というのは次のようなものです。コンクリート・ポエムとの関係について語っているくだり。Sは杉浦。⚫️が北園。
そして、戦前の日本におけるシュルレリスムについても、次のような発言は注意を要するところではないでしょうか。シュルレアリスムについての知識は慶応の西脇順三郎の教え子たちが北園のところへ持ち込んだそうです。
瀧口修造との本質的な違いが述べられていて興味深い告白です。本場ものを輸入してしっかり真似することが瀧口たちの方向性だったという見方は面白いと思います。日本人の伝統的性格と言ってもいいかも知れません。北園にはそれが肌に合わなかった。この具体的な例としてテレビコマーシャルを挙げているのがまた興味深いのです。
このカラーテレビのコマーシャルはよく覚えています。テレビを挟んで小柄なコメディアンの坊屋三郎と大柄な外国人が向かい合っています。外国人(白人男性)が「クイントリックス」といかにもな英語で発音すると、坊屋が「くいんとりっくす」とベタな日本語で繰り返すのです。「あんた外国人だろ、英語の発音がだめだねえ」と言うところに皮肉が効いていました。1974年のこと。北園克衛も見ていたんですね。
鼎談のシメの発言は北園です。
このあたりがやはり瀧口修造とは、瀧口の晩年のドローイングなどを思い浮かべてみれば分かりますが、方向がかなり違っているんだなと納得できます、戦時下での態度もまたはっきり異なっているように。
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