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テーブルに「つく」こと、或いはそこから「たつ」こと

彫刻家の大黒貴之です。

「雑感ノート-20190107-」より

インターネットが一般向けサービスとして日常に張り巡ったのは確か1995年頃だったと記憶している。

それ以前、情報はテレビ、新聞、書籍などのメディアか人からの見聞など、アナログなものだった。今のようなSNSなどもなかったし、また情報も簡単に手に入る環境でなかった。

学生の頃、「現代アート」とは一体どういうものなのかよくわかっていなかった。美術雑誌やそれに関連する本はあったが、なんだかよくわからない小難しい表現や理論だなという認識だった。

大学院一年の頃、今では世界で活躍する巨匠になったアーティストM氏の作品写真が美術学科の間で広まって、「こんなものはアートではない」などと批判されていたことをよく覚えている。今から20年前の一場面。

日本の美術界では自明のこととなっている貸画廊や団体展などの存在を知り、この業界は歌手やミュージシャンを売り出していく音楽事務所のようなものがほとんどないということに気づいた。

とはいえ、団体展に作品を応募し、入選を重ね、その中で発表をしていきたいとは思わなかったし、貸画廊で何十年も発表をしていきたいとも思っていなかった。

ただ「現代アート」というキーワードだけは暗い脳裏の中に何度もうっすらと浮かんでは消えていた。そのキーワードに導かれるようにしてこれまで作家として歩み続けてきたような気もする。

それがなぜだったのか、よくわからない。

2016年のドイツからの帰国後、東京へ行く機会が増えて、日本在住の作家たちとの交流も少しずつ増えてきた。彼女/彼らのことを見聞きしていると何年か活動期間が途切れていることはそれほど珍しくはないことを知る。

むしろ、継続的に発表をできている作家は幸運だと思うようになった。

毎年、何千人もの美大生が卒業をし、10年、20年と時間が経つごとに面子が入れ替わっていく。それでも、残っていく人は残っていくし、また辞めていく人は辞めていく。

それは美術に限ったことではなく、ミュージシャンや芸能人、企業などの環境とも共通するように思う。

ある人から聞いた言葉で、とても印象に残っている言葉がある。

「ゲームのテーブルに「つく」のは自分の意思、そして、そのテーブルから「たつ」のも自分の意思である」

ゲームのテーブルにつけるプレイヤーになること、また、その場に残り続けれるプレイヤーになること。

僕は30代半ばになってようやく現代アートというテーブルにつくことができたように思う。

人生も半分が過ぎようとしている。

これまでの軌跡を反芻することがあるが、また過去に戻って「あの時にこうしていればなぁ」と思うことは全くない。

なぜなら彫刻家を志してきたからこそ、見ることができた素晴らしい風景があったし、そして「今」という景色があるから。

残りの時間も作品を生み出し、自分が見ようとしている風景を貪欲に求めたいと思う。

そして、その風景を一緒に眺めることができる人たちと切磋琢磨しながら、山を登り続けていきたい。

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