ある暇人(狂人)の日記 3日目
ニ◯ニ四年五月五日。朝5時にiPhoneの目覚ましがなる。しばらく布団の中で山々で鳴いている鳥の声に耳をかたむける。ヒー、キキキ、ヒャユュ、フヒィヒョ。朝の鳥たちの鳴き声は深いリバーヴがかかっていて、ぼくのカラダに残響する。アトリエの布団から出て家にもどって、杜仲茶ラテを今日は冷たくして飲んでみる。ドーナツと一緒にこの毎日飲んでいる美味しい杜仲茶ラテも、マルシェで飲んでもらいたい。五月やから暖かい飲み物売れへんで、と弟のたかちゃんに言われたから、アイスを今日は作った。美味しい。家からアトリエに行く途中で立ち止まって、鳥たちの鳴き声を聴く。カラスが電線に止まって、じっと山を見つめている。空に向かって勢いよく飛び立った。鳥たちの鳴き声は森からの壮大なハーモニーになってぼくの耳に染み込む。今日は音楽を聴きながら日記を書こう。ムタンチスのCDをデッキに入れる。ブラジルのボサノヴァバンドが60年代のサイケデリックに影響を受けた異色なバンドなんだが、二曲くらい聴いて今日の気分ではなかったので音を消した。アトリエの書斎の窓の外から鳥たちの鳴き声がふたたび浮きあがってくる。比較できるものではないが、今のぼくには鳥たちの声がもっともサイケデリックだ。この日記でお馴染み? になったヤドカリたちがいるガラスの器がチン、カンとおもちゃのピアノみたいな音がなる。
ここまで書いて書くことがなくなったので書斎の本棚から何冊か取り出す。ルソーの『孤独な散歩者の夢想』をパラパラとめくった。この本は晩年の孤独に閉ざされたルソーが書いたのだが、読んでいるとルソーの心配ばかりしちゃう。本を閉じる。
めちゃくちゃ眠い。昨日はドーナツの試作に明け暮れて、食べすぎてお腹いっぱいになり、晩御飯も食べられず、夜もなかなか寝つけなかった。ドーナツは試作を重ねると美味しくなってきた。たかちゃんにも食べてもらった。味は美味しいけど、ちょっと硬いかな、との意見。とここまで書いたところで眠さの限界。いま六時三十分。今日はもう少し寝よう。おやすみなさい。
目が覚めた。八時四十五分。ぐっすり寝たので元気だ。アトリエの外では相変わらず鳥たちが鳴いている。いまこの時間は人間たちや虫たちや野良猫たちが起きあがってガサゴソしている気配がある。鳥の鳴き声にリバーヴがなくなっている。岩波文庫のルソーの孤独な散歩者の夢想は散歩中に思索したことを書いたそうだ。どうやって書いたのか。原稿用紙を持ちながら歩いて書いたのか。それとも手帳なのか。本パラパラめくっても、老人の悩みは書かれているが、どのように書いたかは書かれていない。試しに今日は、ぼくも散歩しながら書いてみることにした。この原稿はもともとiPhoneで書いているから、そのまま持っていくことに。着替えてから山に出発する。たかちゃんが石垣にはえた雑草を抜いている。ピンクと黄色と紫がかった花びら。と書いてみたが、iPhoneの画面が光で反射して書きにくい。いったん書くのはやめたから、ここから先はあとで書いたものだ。ルソーはどのように書いたのだろうか。山のトンネルにくぐると、静かな影の世界。ところどころ裂け目のように木々から漏れた光が差し込む。五分ほど登ると、因島第一公園とむかしは呼ばれていた公園につく。ぼくが小学生のころに五十メートルくらい? の長い滑り台や遊具もいろいろあった。十年前に因島に移住したときには長い滑り台はなきて、小さな滑り台が一台だけあって、まだ生後四か月くらいのゆもちゃんを抱っこしながら一緒に滑って遊んだ。いまはその滑り台はもうない。百年後はどうなっているのだろうか。いまこの日記読んでいる人や、ぼくたちはたぶん誰も生きていない。さっきから大きな蜂がぼくの近くの空を飛んでる。三メートルくらいの距離。三十秒くらいぼくの近くで停滞してから、勢いよく遠くの空へ飛びたつ。見えないくらいのところへ行ってから、またぼくの近くに戻ってくる。停滞する。飛びたつ。というのを何度も繰り返したがいまはもういない。遠くに海が見える。海の色は青よりも白に近い。ギーギッギッ。木の上で虫がなく。造船所には大きな船がとまっている。造船所からなのかはわからないが、モーターがなっているのか、風がまっているかかが混ざったような軽快な音がする。チャイムが鳴った。ほうほうほほ。木の上にとまった鳩が飛びだった。さっきとは違う大きな蜂がさっきとは別のところで停滞して飛び立ち戻ってくるという運動を繰り返している。いまはもういない。書いた景色や音や動物や虫の気配や色やカタチ、ぜんぶさっきまでとは変わった。毎日毎日、ぼくの前には新しい世界が現れては消える。なんだか方丈記みたいになったが、あれは山の中で書いたから、あのようになったのかもしれない。
一度起きてから、もう一度眠る前に書いていた続きを書こうとする書く手がとまる。今日は朝から暖かく、日中は熱くなりそうだ。木陰に座って原稿を書く。冷たい風が吹いた。ペットボトルに入れてきた杜仲茶を一口飲む。続きを書きたくなった。ぼくは売ると決めたものは、売るまえに人に見せて意見をきく。意見はどんなに腹が立っても取り入れてる。十年前からそうしてる。ドーナツは美味しいが硬いと言われたから、明日の試作は重曹からベーキングパウダーに変えてみて、オイルかバターも生地に練り込むかも。
いままで出版した本、絵も描けたら、ミワコちゃん、ゆもちゃん、たかちゃんに見せる。それでも不安なときは、センスを信頼している仲間に見せる。ぼくも作品の意見を誰かに聞かれることがある。やっぱり生き残っていいものを作り続ける人は、人の意見を取り入れている。すんなり。あんまりこだわりがないし変えることに躊躇がない。逆に意見を聞いてくるのに「大樹さんの意見はもっとも何ですかいまは書き切った作品を修正する体力がありません。気持ちが荒れます」とか言われる。ぼくはもっともっとカラダの中を荒らして荒野に立つところで、新しい何かが生まれると感じたが、それ以上は言わない。ぼくも売れなくてもよい、と決めた作品は誰の意見も聞かないからだ。いま書いている指がチクチクすると思ったら、シャクトリムシがiPhoneを打つ親指に向かって這っていた。この日記やいま書いている小説もいずれ本にするが売れる気がまったくしないから、誤字脱字は校正してもらうが、編集は入れない。三月に出版した小説『あたまに浮かんだ夢を書いた』はまったく売れてない。二十冊くらい。ははは。ぼくは満足している。売れないだろうからと怖くて出せなかったものを本にできたからだ。売れないからといって、面白くない訳ではない。まだ一部の人しかこの本の面白さを発見できていないが、ぼくの現時点での最高傑作だと感じている。小説が売れなくても、絵がありがたいことに売れているので、自由に書くことができている。だからと言って絵を描くことが楽しくない訳でも、仕事になりすぎてつまらない訳でもない。絵も前日に起こった意識に引っかかったことを日記のように描いている。映画『PERFECT DAYS』の役所広司が演じる平山の夢のような感じだ。あの映画でぼくがもっとも感動したのはあの夢だ。夢が過去のトラウマや、未来への予知など、ストーリーの伏線になることではない使われ方を、したのは映画の歴史の中で初めてではないかな。平山の日常のルーティンを五日間ほど追った映画なんだけど、夢も五日分みる。平山の夢はその日起こったことで意識に引っかかったことが、淡々と再構成される。途中で一度くらい夢に過去の平山の生活を暗示するものを入れても映画の良さを損ねることもなかっただろうが、それをやらなかったヴェンダースに最大のエールを贈りたい。話しはそれてしまったが、ぼくの絵は平山の夢のように、現実に起こったことが妄想も含めて混ざり合った昨日みた出来事や風景を、朝に描くという静かな再構成なんだ。好きに描いているが、絵を見た人や、手入れてくれた人がいい気分になってほしいと感じている。部屋に飾って心地よい絵にしたい。そうなるために人の意見は躊躇なく取り入れる。意見を聞く聞かないどっちが正しいという話ではない。どちらかにするなら腹を括って徹底する、いうことだ。村上春樹は奥さんの意見を腹が立っても取り入れるか、否定的な意見が出たパートは、最初から書き直す。カフカの原稿は生前に出版されたのは、一冊だけ。いまぼくたちが読んでいるカフカの本は草稿に近いカタチで発表されている。編集者や誰かの意見はたぶんほとんど入ってない。カフカの巣穴という短編を読んでみてほしい。カフカは友人に死んだら原稿を焼いてくれと頼んだけど、いや頼まれたからこそ原稿を残してしまった。消えることに失敗したカフカの物語や寓話というには異質すぎる小説や日記を、ぼくたちは読むことに成功している。
ぼくは山の上まで登った。山の上から世界を見つめる。海に反射した光。街から聴こえてくる音楽にぼくは耳をかたむけている。
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