究極のメンタル② 理想の勝ち方 圧勝したい?ギリギリで勝ちたい?

この連載はソフトテニス元日本代表の篠原秀典さんにインタビューを行い、哲学的に分析した内容を記事にまとめたものです。

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 皆さんはどういうスコアで勝ちたいですか?どういう勝ち方が理想ですか?

 僕は、4−0や5−0(ソフトテニスは先に4ゲームか5ゲーム取った方が勝ちとなるルール。硬式テニスよりも試合時間が短いことが特徴)で勝ちたいなと思っていました。
 完璧を目指したいと思っていたんです。でも今になって考えてみれば、それは自信のなさの裏返しというか、不安と向き合うことから逃げていたのだなと思います。どういうことかは後で見るとして、篠原さんの理想のスコアを聞いてみましょう。篠原さんは4−2や5−3で勝てばいいと思っていたそうです。


篠原:ファイナルで勝てばいいと思ってる
筆者:(それ以前の話の流れを受けて)そうそう、そういうことです。
篠原:あ、ファイナルとは言わないけど、4−2か5−3で勝ちゃいいな、ファイナルいくと分かんなくなっちゃうから嫌だけど


別のところでは以下のように語っています。


篠原:自分のことを考えすぎると、緊張しますね。 Bさん:緊張するよね。ミスしたらどうしようって思ってる時って。 篠原:そうなってっちゃいますよね。自分のこと考えすぎると。自分をコントロールできなくても相手をコントロールできれば試合は勝てるとか、ペアをコントロールできれば試合は勝てるんでその方が楽。 Bさん:自分のことなんて一切考えないでしょ。 篠原:自分の今のやれる技術が今日の調子とか、そんなんで感覚的なところで今日はどんなことができるかなっていうのはある程度考えて調整はしますけど。どちらかといえば、自分が何する何するっていうよりは、相手に何やらせようか、自分のペアに何やらせようかとかっていう方が僕はメインで考えますね。基本的には楽して勝ちたい。理想は相手が最後ミスして勝つのが僕の理想のゲーム展開で、最後相手を追い込んでミスさせるためにはどういう風にゲームメイクをしていくかっていう。最初はちょっと頑張りますけど、後半は何も頑張んなくてもポンポーンって返せば相手が全部ネット、はい、終わり、みたいなのが理想のゲーム展開ですね、自分の中では。 (Bさんは篠原さんとは別の元選手です。今後の記事で紹介することができるかと思います。)


 篠原さんは「勝てばいい」と考えていたそうです。「勝てばいい」のだから僅差でも勝てればいいのです。自分が勝負をしかけて相手を追い込む過程で、ある程度失点することは仕方ない。テニスのルール上、最後に相手より2ポイント多く得点し、相手より1ゲームでも多く取ればいいので、そのことを考える。何ゲーム差であろうと、何ポイント差であろうと、勝ちは勝ちで、負けは負けです。だから、この考え方はテニスというゲームの本質に即した考えだと言えます。だから強いのでしょう。
 「ファイナルいくと分かんなくなっちゃう」と言っているのは、ファイナルゲーム(硬式テニスでタイブレークと呼ばれるもの)は7ポイント先取で、この最終ゲームまでもつれると、ちょっとした運不運でのポイントが勝敗を分けかねないので、確実に勝てる保証が薄れるという意味です。


 僕はこの話を聞いて、受験勉強について和田秀樹が合格者最低点を目指せと言っていることと通じるなと思いました。

 満点を目指して勉強するよりも、合格者最低点を目指して勉強するほうが合格確率が高まるのです。

 ここからは、僕の受験勉強についての考え方を紹介します。
 余裕で受かろうとする(例えば満点での合格や主席での合格)と、勉強すべきことが格段に増えます。
 例えば、東大の二次試験であれば5割強の得点率でも合格可能です。勉強する範囲を合格者最低点のレベルに絞れば、4割分くらいの範囲は捨てても大丈夫になります。広い範囲を勉強すると、理解が浅くなり、詰めが甘くなり、結局すべてが中途半端という結果になりがちです。勉強する範囲を絞ることで、精度を上げるための時間を十分にとれるようになって、確実に着実に勉強が進むようになるのです。
 しかも、難しい事項ほど出題頻度は低いので、難問を捨てると、必要な勉強量は格段に減ります。例えば、英単語であれば、中学レベルの英単語がもっとも多く文章に含まれているわけです。辞書には万単位の単語が載っていますが、難易度が高い単語ほどコスパが悪いので、受験では全てを勉強する必要はないのです。だから、基礎的な単語を深く理解することの方が重要です。
 「何でも全部勉強しよう!」というのは意識が高いように見えて、実は戦略がないということなのです。受験には合格と不合格の二つしかありません。合格さえすれば点数は関係ありません(球技の勝敗と同じ!)。合格が大事というはっきりした目的意識があれば、合格者最低点を目指すようになるのです。
 それでも難問が気になるのが人というものです。でも、それはメンタルの弱さの裏返しではないかと思うのです。自分の頭の良さに自信がないから、難しいことをやってみせたくなる。自信がないから、解けない問題があるという現実に向き合いたくない。余裕で受かりたいのもメンタルの弱さかもしれません。ギリギリの勝負をするのが怖いから余裕で受かりたくなる。


 こうやって考えてみると、スポーツも受験勉強も勝ち方は似ていると思いませんか?
 格闘技に例えると、相手の間合いに入って、相手の攻撃をギリギリでかわしたときが一番のチャンス!というような感じなのかなと思ってます。安全な間合いから一方的に攻撃したい!って思っててもなかなか上手くいかない。そんなイメージで考えています。(格闘技全然やったことないので勝手なイメージですけど)

 僕は、篠原さんの話を聞いてから、ぎりぎりで勝つ経験を積み重ねることを大事にするようになりました。それから上達が早くなったように思います。
 上達が早くなった理由はいくつかあります。一つは実力を出し切ることで課題が見つかりやすくなるということです。自分にできることをやり切ると、勝負を分けたプレーや自分に足りないものが見つかることが増えました。そうなると、次の試合に向けて練習すべきことが明確になります。二つ目は駆け引きが上達することです。ぎりぎりで勝つ相手というのは技術的には大きな差がない相手です。もしくは自分より技術的に格上である相手です。そういう相手に勝つためには戦術面で差をつけることが大事になります。戦術や駆け引きへの意識が以前より高まりました。


 そもそもスポーツの本質とはなんでしょうか?対人スポーツの本質は競争にあると思います。

 カイヨワは『遊びと人間』で「遊び」を4種類に分類しています。多くのスポーツは、そのうちの一つである「アゴン(競争)」に当てはまります。カイヨワによればアゴンとは、以下のようなものです。

アゴン(Agon)–すべて競争という形をとる一群の遊びがある。競争、すなわち闘争だが、そこでは人為的に平等のチャンスが与えられており、争う者同士は、勝利者の勝利に明確で疑問の余地のない価値を与えうる理想的条件の下で対抗することになる。(中略)遊びのこの原動力は、どの競争者にとっても、一定の分野で自分の優秀性を人にみとめられたいという欲望である。それゆえに、アゴンの実践は、不断の注意、適切な訓練、たゆまぬ努力、そして勝利への意志を前提とする。この実践は訓練と忍耐をも求める。選手は自分の力に頼るしかなく、これを最大限に活用するほかはない。きめられた限界の中で、フェアに持てる力を発揮しなければならないのだ。この限界は万人に平等課せられているのだから、かえってそれが勝利者の優越を文句のつけようのないものとするのだ。アゴンは個人的能力の純粋形態として現れ、それを表明するのに役立つ。

(ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』p46~48)


 僕は、技術を高めることが好きで「勝った人が強い」という考え方が好きではありませんでした。綺麗なフォームを追求することの方が本質的であると感じていたんです。でも、対人スポーツは勝敗をつけることに本質があるとすれば、技術も戦略も、勝利につながることで初めて意味を持ってくるのではないでしょうか。

 先のインタビューの続きで、こんな会話をしています。


筆者:きっとなんかあれですよね。そういう勝ち方(不調でもなんとかして勝ちを拾う戦い方)をちゃんとし続けてた方が、長い目で見たときに伸びるみたいなのも、きっと。
篠原:いや、絶対そうだと思う。
筆者:ありますよね。
篠原:勝ちゃいいんだから(笑)目標がそこであればな。それこそさ、ソフトテニスを、真髄まで究めようとかっていうさ、目的があるんだったら、また違うかもしんないけどね、勝つことがね目標だったらいいと思うよな、それの方がね。し、対応できるし、いろんな場面で強いよね、やっぱね。自分のテニスはこれ、みたいなのとか、ない方が強いと思うしね。うん、だって相手違うんだからさ、できるときとできねえときあんじゃんっていう(笑)まあまあ、ベースでそれ持っといてもいいけどっていう。
筆者:でも、あれですよね。ソフトテニスのゲームの真髄がって言ったら、むしろそっちの方が真髄なんじゃないかっていう気もするんですけど。結果として、スポーツなんで。
篠原:うん、そうだな、相手に対応するとかな。変化するとか。勝つっていうことを考えれば真髄はそこになるよね。


 そう考えると、以前の私はスポーツにおける「強さ」の意味を履き違えていたのでしょう。以前は「高い技術で相手を圧倒すること」だけが強さだと思っていました。今は「常に勝つための方策を見つけて、それを実行しきれること」もとても重要だと思っています。


 そういう意味では高すぎる目標設定はよくないということになります。以下の本では、ベテランアスリートにとっては、こういう現実と折り合いをつけた目標設定が重要であるし、ベテランアスリートはその設定が上手なことが紹介されています。そのときそのときのベストを尽くすという意味での完璧主義を推奨しています。

「年長アスリートがもともとの目標を達成できそうにないとき、現実的な目標についての方向づけを考え直さなければならない、と言うと、より低いもので折り合いをつけることを学びなさいと言っているように聞こえるだろう–肉体の衰えに応じて野心も抑えるべきだ、と。けれども実際には、全くその逆である。複数の段階の目標を設定し、状況の変化に合わせて常に評価をし直すということは、その瞬間に可能なことより以下では決して満足しないということではないだろうか。それはトロフィーやメダルという栄光に手が届かないときに、棄権する言い訳として言う完全主義ではない。もしかしたら、こちらの方が、もっと大きな意味での完全主義かもしれない–ただし努力の完全主義であって、結果のではない。つまり『自分の円の中に留まる』という意味での完全主義なのだ。(中略)努力のひとつひとつが恩典なのであり、今後どれだけ努力を続けられるかわからないのだから。」

ジェフ・ベルコビッチ『アスリートは歳を取るほど強くなる』p290–291


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