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はじめての涙
小さい頃の世界は学校と家が全てのようなものだ。
もしも学校か家で居場所を失ったらそれは自分の存在否定に繋がったり、存在理由が分からなくなったりするだろう。
私の小学校は各学年1クラスしかなかった。
6年間同じクラスメートというのは良し悪しがある。そう、良くも悪くも逃げ場はないのだ。
高学年になって思春期に突入した頃、クラスの中では少しずつ関係に変化が見られた。
運動が得意でお洒落な今風な子はクラスのヒエラルキー上位にいて、その人達と上手くやらないとノリが悪いというレッテルを貼られ、ダサい人だと陰口を叩かれたり、クスクス笑われたりする。
私は当時一部の人からガリ勉とあだ名をつけられていた。
勉強は好きだし、得意だった。代わりに運動は不得意で悪目立ちしていた。
内向的で目立つことを嫌い、容姿にも恵まれていない私は、いじめられるまではいかないが、一部の人に見下される立場ではあった。
中学校は3クラスに分かれた。
複数の小学校の人が集まり、クラスの1/3しか同じ小学校のクラスメートがいないという環境は私にとって心地良かった。
私は他の小学校出身者との方が馬が合い、新しい友達もたくさんできた。
それにより自信が持てた私は、中学校に入学してからメキメキ明るく社交的になった。
小学校の時は空気を読んで自分を押さえつけていた部分はあった。女の子同士の関係はなかなかに複雑だった。
中学校で私は運動部に入った。
二歳年上の姉が同じ部の副部長であったことや先輩方がかわいがってくれたこともあり、私はおおよそ部の人間関係も上手くいっていて、楽しく部活動に取り組んでいた。
入部したての頃はほとんどの人が初めて取り組むスポーツだった為、成績はドングリの背比べだった。
私は運動が苦手であった為、部内で上手い方ではなかった。
だが、夏になると私は学年の中で1、2位の成績になっていた。
そのスポーツが性に合っていたこともあるが、練習に真面目に取り組んでいたこともあると思う。
同じ小学校出身の人は「熱血はダサい。」と言い、練習をサボッたりもしていた。
私をバカにしたりもしていた。
うちの部は県大会常連校だった為、だからこそ先輩に私はよりかわいがられていたが、だからこそ余計に私はひんしゅくを買ったのだろう。
小学校の時に私達より下だったともかに負けている。
それは彼女らにとって屈辱だったのだろう。
あれは姉達が部活を引退した夏のことだったと思う。
三年生は人柄も良く真面目で人間関係が良かったが、引退を機に人間関係のバランスが崩れていった。
二年生の先輩は三年生がいなくなったことでバタバタしていたこともあり、部内の雰囲気も微妙な時期でもあった。
正直な話、気が強い先輩や同学年の子は練習に不真面目だった。
部内は真面目に練習したい派と適当でいい派に分かれてギスギスしていた。
「ともかが触ったボール、汚い。」
ある日それはいきなり始まった。
私は部内の一部の人間にバイ菌扱いされだした。顧問の先生がいない時や耳打ちといった形でそれは行われた。
運動をして汗をかけば「臭いよね。あれでも女子(笑)」と聞こえるようにクスクス笑われた。
練習試合に行くバスに乗る時は私の隣を避けられ、男子の隣に座るように仕向けられ、陰口で「男好き。」とも言われた。
それは毎日ではなかった。多分彼女らが機嫌が悪い時に嫉妬ややっかみから八つ当たりをされていたのだろう。
それでも私は辛かった。下を向いて聞こえないようにしてやり過ごそうとしていた。
部内全員から意地悪されていたわけではないし、分かってくれる人は分かってくれていた。
クラスでいじめられていたわけではない。
中学校が嫌いだったわけでは決してない。
クラスには友達がいたし、私のクラスに同じ部の人はいなかった。
授業は楽しい。休み時間も楽しい。部活自体は楽しいのに、段々私は部活に行く足取りが重くなっていった。
夏休みに電車で練習試合に行った帰り道にみんなに置いて行かれて、一人で電車に乗って帰った時はさすがに涙が堪えきれなかった。
惨めで悔しくて情けなくてかっこ悪くて、だけどそんなことを家族に言えるわけはなかった。
家族には心配かけられない。
親には知られたくない。
私は自宅では懸命に笑っていたし、学校生活の楽しいことだけを切り取って話した。
家族は気づかなかった。私はそれにホッとしつつも、苦しかった。
私は友達の助言を元に、担任の先生に相談した。
部活の顧問の先生には言えなかった。
顧問の先生自体が怖かったり、信頼関係が築けていなかったこともあるが
言ったらどんな怖い目に合うか分からなかった。
担任の先生に言うだけで私は怖かった。勇気をかなり振り絞った。
先生は話を聞いてくれて、理解を示してくれてホッとしたが
後に噂で加害者の子達に担任の先生がストレートに話を聞き、指導をしていたと知り、私はいじめがエスカレートすることを心底恐れた。
もう終わりだと思った。
その日はビクビクしながら部活に行ったが、彼女らから何かやられることはなかった。
その日、学校の後は塾だった。
塾に母親が車で迎えに来て、私は車に乗り、あとは家にまっすぐ帰るだけだった。
ところが母親が帰り道の途中で何も言わずにハザードをつけて車を停めた。
私は何が起きたか事態が飲み込めなかった。
「部活でいじめられてるの?」
私は母親が静かに切り出したその話題に心臓が飛び出るかと思った。
担任め…加害者だけじゃなく、親にまで話すとは一体どういうことだよ。「親には言わないでください。」と言ったのに当日に話すなんて。
私は加害者や親に話してほしかったんじゃない。私が告げ口したとバレないやり方で上手く解決してほしかっただけだったのに。
担任を、教師を信頼しなくなった瞬間だ。
大人になった今だからこそ、担任の立場や学校の組織上、それは業務上やらなければいけないことで、いじめ関係は難しい問題だと重々に理解しているが
私にとってそれはひどい裏切りだった。
私は下を向いて何も言えずにいたら、母親が泣き出した。
お母さんが…泣いている………。
それまで12年生きてきて、母親が泣いた姿を見たのは生まれて初めてだった。
いつも明るくてひょうきんで笑顔を絶やさない母の嗚咽が聞こえる。
私がお母さんを泣かせた…
私のせいでお母さんを悲しませた……
私はひどいショックだった。何も言葉が出ないで涙が止まらなかった。
ハザードランプの音と母娘の泣き声だけが暗く狭い車内に響いた。
「負けちゃダメよ、ともか。」
母は真っ直ぐ私の顔を見た。辛いなら部活を辞めればいい、とは言わなかった。
「いじめられてるって気づかなくてごめんね。ずっと辛かったね。
でもね、自分が悪いことをしていないなら堂々としていなさい。お母さんは信じてるわ。ともかは悪いことをする子じゃない。
ともかのことだから何を言われても我慢しちゃうんだろうけど、たまには言い返したっていいじゃない。
言い返さないと思って集団で攻撃しているだけで、ともかが考えているより彼女らは弱いのよ。負けちゃダメよ。また何かあれば一人で抱え込まないで、担任の先生でもお母さんにでも言えばいいの。
お母さんは何があってもともかの味方だからね。」
私は何度も頷きながら涙を流した。
家に帰ってご飯を食べながらも泣いて、お風呂に入っても泣いて、布団に入ってからも泣いた。
練習試合後に一人で帰ってきた日よりたくさん、たくさん、泣いた。
次の日から私は変わった。
母に言われた通り、堂々とした。
先生に言われてバツが悪かったのか、彼女らが私に露骨な嫌がらせをすることはなかったし、部内の雰囲気も徐々に良くなった。
私は部内で新部長と仲良くなりはじめ、それがきっかけで先輩方とも距離を縮め、もう二度といじめられることはなかった。
母を泣かせるわけにはいかない。
負けちゃいけない。
子ども心にそれは強く強く思った。
さて、すっかり逞しくなった私はその後も引退するまで部活を続け、部長に任命され、大会で三位入賞を果たしてトロフィーをもらった。
そしてこのいじめられた経験を活かすべく、人権作文のネタに使わせていただいた。
なんとそれが見事入賞し、住んでいる地区で一位になったどころか、県で表彰されて新聞に載るまでになった。
作文は得意だったが、人生で今までで一番評価されたのがこの作文だった。
母と私は表彰式に呼ばれ、胸元に受賞の花をつけながら一緒に会場に向かった。
「強くなったわね、ともか。頑張ったわね。」
母が隣で笑う。
私は少し照れくさい気持ちになりながら前を向いた。
名前を呼ばれた私は表彰台へと一歩足を踏み出して歩いた。